4/24の記事ランキング

  1. ポケモントレイン釜石号 4/21
  2. 【鉄道模型】 JR西日本&東海 285系0番台&3000番台『サンライズエクスプレス』
  3. 釧網本線 標茶駅でスナップ
  4. 2023年秋♪北陸旅〜奉納恋文と辻占と和菓子
  5. わたしの旅スタンプ(妄想版) 草津温泉バスターミナル
  6. スカイツリーをあとにし、靖国神社へ向かう。神戸の支店から東京に飛ばされた最初の休みに男体山へ行ったんだけどね。東武に乗るべく三田から浅草線に乗って浅草に向かったんだが、その時たまげたのが東京の地下鉄の相互乗り入れの凄まじさ。電車を待ってたら成田空港行きが来たり「どこよ?」みたいな印旛日本医大行きが来たり、反対側には羽田空港行きとかも来て「どこまで乗り入れてんの!?」ってびっくらこいた。で、浅草橋にとうちゃこ。浅ヤン・・・。京急の三崎口行きとバイバイ。すごいよな。三浦半島まで乗り換えなしで1本ですよ。関西じゃ考えられん直通運転ぶりである。関西の地下鉄だと大阪で堺筋線が阪急京都線と中央線が近鉄けいはんな線と。京都で烏丸線が近鉄京都線と東西線が京阪京津線と乗り入れてるくらいである。ここで総武線と乗り換えである。総武線・・・東京にいた頃もあまり乗ることはなかった。乗る用事と言えば平井にあるNゲージのレイアウト、夢空間さんに行くときくらい。アキバのポポンデッタの気分でない時なんかに行ってた。黄色の帯が鮮やか。さぁ乗りますか。逆かぶりつきで。中央線快速と総武線の緩行線の複々線となっているんだが戸籍上はお茶の水を境に西が総武線、東が中央線である。で、めんどくさいので中央・総武緩行線と呼ばれている。いい眺め。で、市ヶ谷にとうちゃこ。ほんとは防衛省の見学ツアーに来たかったんだけどね。まぁ次の機会だ。というわけで今回の旅最大の目的地、靖国神社へと向かう。が・・・なんか遠い。そんなに歩く???下のにナビをさせているので「道あってるか?なんか遠くない?」と聞くと「ばれたか。道間違えてた。」素直に靖国通りを歩けばいいものを麹町方面へ向かって途中で方向転換していた。で、やっとこさ靖国神社へと~ちゃこ。あ、時間が決まってるんですね。ついにやってきた。靖国神社。が・・・あれ?なんか他にも入り口があるみたい。靖国通り沿いにもう一つ入り口があった。さらにもう一つ入り口がありそちらがメインのようなので靖国通りをさらに東に向かうとおぉ~!ここがメインの入り口だ。でっかい鳥居。こっちだね、正解の入り口は。はとバスがいっぱい。時間があるならこれに乗った方が一番効率よく東京観光できると思う。場所が場所だけに神妙な面持ちで拝殿に向かう。ここで一つご報告。大阪でバスに乗った時のこと。「しまった~!!!」はい、御朱印帳を忘れました。。。僕は青龍、白虎、朱雀、玄武の四神をモチーフにした4冊の御朱印帳を持っている。で、東西南北の順に御朱印帳を使っており、現在は3冊目。つまりの朱雀の御朱印帳である。ちなみに今年は御朱印巡りを始めて6年目。これまで61の寺社を巡ってきた。さすがにここまで来て手ぶらは切なすぎる。ここは覚悟を決めて御朱印を頂くときに合わせて御朱印帳を買うことにした。で、お参り。右の建物ね、法政大学らしい。すげーとこに建ってんな。お参りを済ませ、御朱印を頂いたらこちらへ。遊就館。下のが行きたがっていた資料館である。しかし目立ちますなぁ。こちらが今年の特別展らしい。つーかJAFの割引が効いたんだがあとから気づいた。へたこいた~。ゼロ戦。去年から鹿屋とか知覧とかそういうところを周っている。色々考えさせられるよね。手放しで今が平和とは言わんが、戦争やってた時代と比べたらね。平和だよ。やっぱり。明日死ぬかもしれんという状態ではないもの。こういうのも置いていた。「ポニー」ことC56。SL北びわこ号で使われてましたな。そして展示を見に行く。基本的には撮影禁止なので写真は無し。しかし・・・こりゃ全然時間が足りんな。1時間くらいで見れるかと思ったが全然時間が足りない。下のは全部見ようとするのでこりゃいかんと下のを放牧して、僕はこれからの予定をいろいろ考える。寿司の食べ放題は下のも行きたいと言ってるし僕も行きたい。で、秋葉原も見物したいと言っているので、寿司屋の待ち時間を考慮すると11時過ぎには靖国神社を出発したい。が・・・全然時間が足りない。内容的に読み飛ばすところでもないしこれは困った。というわけで策を練る。覚悟を決めてもう1泊する???で、カプセルを含め宿を探すが全然空いてない。千葉、埼玉、神奈川まで範囲を広げるも我々クラスが泊まれるところが全然ない。では夜行バスは???これまた全然ダメ。京都、神戸まで範囲を広げたけど全然ダメ。じゃ、新幹線???そりゃあかん。3万円が吹っ飛ぶ。18きっぷで帰ったら5000円足らずである。つーか今回のコンセプトは18きっぷでの貧乏旅である。そんなに金はかけられない。2回来ることを思えば新幹線でもいいんじゃない?とも思ったが、またどうせ防衛省の見学に来ねばならんのである。スカイツリーにも登らにゃならんし。というわけで「ここはいい加減な見方をしてはいけない。しっかりと全部見るべき。また今度どっしり腰を据えて半日がかりで来よう。」と下のに伝え、特別展をしっかり見て続きは次の機会にすることにした。というわけで特別展をしっかり見て館外へ。ちょっと舐めてたな。1時間くらいで回れるようなところでは全然なかった。昔ね、建て替える前のじいちゃんばあちゃんち(今の実家)にね、戦争で亡くなったじいちゃんの2人の兄ちゃんの写真が飾ってあった。あの頃はなんとも思わなかったけど、大人になるとね、色々考えさせられるよ。墓参りもちゃんとせにゃならんよね。最近は年に2回はしてるけど。桜が咲いてた。関西は全然咲いてないけどね。今年はこっちのほうが早いのかな?つーか法政大学、目立ちすぎだろ。しかしこんな街なかにこんな広い敷地を構えるなんてね。さすが靖国神社。つーかどうしても目に入るな、あれ。再びここへ戻ってくることを約束して靖国神社をあとにした。  続く『2024春 お江戸の旅 其の9』夜が明けた。 3/31の朝である。今日は忙しい。ケツは決まっている。東京を14時半過ぎに出る電車。それに乗らねば川西まで18きっぷで帰れない。それまでに、…ameblo.jp

    2024春 お江戸の旅 其の10
  7. 毎度! おばんです!あれ? どうしたのかニャ?「朝ごはんちゃんと食べたいけど、どうしようかニャ~・・・」と、天を仰ぐニャルくん。あごちょびくんがが来たから、居づらいのかニャ? と悩んでたようでしたが、空腹に耐えかねて? きっちり朝食を食べたのを確認してから・・・朝6時の川崎車両。新たな一週間の始まりですが・・・今週はどんな展開になるのやら?それでは、例によってモーニングシャッフル。まずはスイッチャーくん。今日も一仕事ありそうです。まずは守衛さんに、今週もお邪魔します!そこに南から733系構体。どこに隠れてたの? uシート構体。こちらはすんなり? 艤装職場に入ります。あら、スイッチャーくん。2番ピットの後藤くんを連れてきました。「2024-5 新製」の標記が入ってるのは・・・EF510-310。一旦南に下がって・・・そのまんまスイッチャーくんが、4番線に入れました。そしてスイッチャーくんが一仕事終えたところで・・・和田岬線の始発。ここでまた南から733系構体。 今度は先頭車。こちらは塗装ラインに直行でしょう。そして和田岬線の始発の折り返し。では、改めて今週もよろしくお願いします!ここで6番線のモハ226-502+クモハ227-502。一旦南に下がって・・・こりゃ5番線かな?そこに南からも227系。週末に南ピット通路で帯を巻いてもらった・・・クモハ226-502。5番線で「岡山L2」編成を成立してもらってから・・・なぜかうろちょろして・・・南に下がりました。ここで733系。2番ピットの「B-4102+B-4202」が・・・一旦南に下がって・・・5番線に入りました。そこに227系「岡山L2」編成。2番ピットに入ったところで、体操の時間。では、こちらも時間が来たので・・・おとなしく? 撤収😓シャアナイカ・・・今朝はどうしてそんなに227系「岡山L2」編成は動き回ったのかな?それはさておき、今日の御用は・・・神戸駅周辺。来月に開業150周年を迎えますが、特に装飾はなし。なぜか移転開業の三ノ宮駅(開業時は今の元町駅のちょっと東寄り)の、装飾が派手ですが・・・何とか見つけました。モトコ―(東海道本線高架下商店街)を使っての、スタンプラリー告知。今のところ、記念絡みの告知はこれだけって、ちょっと寂しいような・・・ま、主催がJR西日本不動産なんで、どんな展開になるか見てみましょう。となると、保存機関車D51 1072は、どんなシチュエーションでスタンプラリーに絡むか、見ものですね。そんなことを思いながら、御用を終わらせてからの・・・「夕方の様子を見てきてニャ!」では、例によって兵庫運河から。今週はこの光景に変化あるか?「201建屋」は、733系構体は出て行ってたようです。南留置線は、今日は変化なく、パートナーゾーン構体が残りました。で、構体置き場。「201建屋」から、733系構体が戻った感じでした。そして北門。特殊貨物検査票は貼ってましたが、UVカットガラス? で見にくそう・・・では、定位置側。1番ピット・・・前に、スイッチャーくん。         ピット内は、733系「B-4101+B-4201」編成。2番ピット・・・EF510-310が戻ってました。         奥に、227系「岡山L2」編成。ディーゼルピット・・・227系「岡山L1」編成。4番線・・・福岡市営地下鉄4125F。5番線・・733系「B-4102+B-4202」編成。6番線、7番線とシャワールームは、空きました。南ピット・・・通路と西線が空いて、        東線に、EF510-311と312。となりました。定位置側のお外は、まだまだスッキリしてますが、明日はどうなる?と思いながら、今日はこの辺で・・・ニャルくん、ただいま~!「お帰りニャさ~い! ニャにかニャ?」じっとしないニャルくん。 またボツカット増えそう・・・でも・・・「バツイチが来たニャ!」て・・・今日はどこから和田岬線の見守りをしてくれてるのかニャ?「よし、異常ニャし!」だからどこから見守ってくれたのかニャ?「ここからだニャ! 見晴らしいいニャ!」物置の上でしたかぁ・・・ お疲れ様でした!「しばらく高みの見物でもするニャ!」ですって。ま、そこから公園の見守りも頑張ってニャ!こちらは、明日も変わらず巡回は続けたいけど、雨が降らないように・・・ほな!     ドテテン!

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    「岡山L2」揃えるために? シャッフル多数になった週明け
  8. 後藤総合車両所出雲支社での見学を終え出雲大社近くでお昼ご飯です。↓お昼ご飯は看雲楼の出雲國古代食復元御献立 『古代出雲の幸づくし』↓美味しくいただきました。食べ終わったあとも綺麗な器で楽しめました。お昼ご飯を堪能したあとはフリータイム。出雲大社のお参りの前に行って見たいところがありましたので歩いて向かいました。↓途中にあったマンホール。出雲日御碕灯台、うみねこ、グラスボートが描かれています。先ずは一畑電鉄出雲大社前駅に寄ります。↓出雲大社前駅 建物物は国の登録文化財。↓駅舎の中に入ると時刻表と券売機。↓券売機以外にも出札口があります。↓天井は高くステンドグラスの窓、鳥が飛んでいるような照明になっていました。うみねこをイメージしているのかな。↓待合室の一角に出雲観光大使がいました。TVアニメ『ヒロインたるもの!~嫌われヒロインと内緒のお仕事~』に登場する高校生アイドルユニット「LIP×LIP」です。出雲観光大使就任中。↓改札口です。改札口の奥に写っているのは日本最古級の電車デハニ50形・52号機です。↓日本最古級の電車デハニ50形・52号機。↓こちらは自由に車内見学できます。↓運転室です。↓速度計が新しいですね。一様120km/hまでメーターがあります。↓手ブレーキ。↓スイッチ類。カラオケという文字があります(笑)↓網棚。↓手動扉。↓ロングシート。↓反対エンドの運転室。↓手ブレーキ、信号炎管。↓ロングシート↓日本車両会社昭和3年製造。96歳ですね。改造は昭和31年に施されています。↓外観を撮影。もう少しゆっくりしたかったのですがフリータイムといっても集合時間があるので急いで次の目的地に向かいます。一畑鉄道ではデハニ50形運転体験もありますので機会があれば予約して体験してみたいです。【つづく】<Copyright(c)2024 吹田の素人 All Rights Reserved.>

    【その7】米子・松江・出雲遠征記です。(R6.3.14)
  9. うめだ花月 昭和61年2月中席のポスター。この席は平参平芸能生活50周年記念公演で、「長いなが~いアーホーぐらし」と題して、豪華メンバーでの十日間。漫才・落語は桂文珍、阪神・巨人、大助・花子が看板で、他に桂小枝、ハイヒール、まるむし商店で今のNGKとあんまり変わってないなと。ポケット・ミュージカルスがなしで、代わりにバラエティショー「40001回目のステージ」(演出 檀上茂、構成 栗田国人)で、平参平が主演で歌や時代劇コント。南喜代子、島田一の介、未知やすえらが出演。吉本新喜劇は監修が香川登枝緒、作・演出 檀上茂の「50・60は青二才」。平参平が座長で、花紀京、岡八郎、池乃めだかにゲストでコメディ№1が出演。漁師町出身の参平が、大阪に出てきて工事現場で働いていたが、同僚のとあることがきっかけで、また田舎に帰って行くお話し。先日BSよしもとでも放送されてましたが、初日から参平さんの体調が良くなく、収録の時も声がかすれていて、マイクを付けて舞台に出ていました。珍しく花紀京と坂田利夫がコンビで刑事だったり、前田五郎がヤクザの親分とか、まだ若手の内場勝則も出ていましたね。しかしまだこの時参平さん72歳なんですね。今のめだかさんの方が年上とは・・・。参平さんはこの公演のあと、3月上席なんば、4月上席うめだと出演。しかし4月下旬に交通事故を起こして入院。肝硬変から肝臓がんが見つかり、9月14日に肝不全で亡くなりました。

    うめだ花月 昭和61年2月中席
  10. 西武鉄道写真館その6(4/22号)
  11. 桜花~4/4 DD51 1109 サロンカーなにわ網干訓練
  12. 今日はED75機番シリーズNo.002のRe=リニューアル版 1004号機Chapter-2です。1999~2001年撮影の写真、国鉄色で頑張っていました。丁度今頃の時期;貝田を通過して行く1004号機です。桜がイイ感じ・・当時は4月の半分が過ぎたころの撮影でした。1999/04 東北本線(以下同様)貝田駅 3074レ白坂の”お立ち台”をコンテナ貨物列車を牽き連れて行きます。前面左右窓のHゴムグレーが濃いめなので、今一つアイラインが映えません😅。1999/07 豊原-白坂 3081レ偶然構えていた位置でナナゴー赤重連同士がすれ違いました。手前が1004+100、奥が91+107です。本命(手前)の切り位置が変わっちゃいましたが😅、何かミラクル感でした😁。1999/08 小鳥谷-一戸 3085レ/2072レ1004号機牽引のタンク貨物列車です。重連?と思いきや次位機は無動力の94号機でした。仙台から北へ向かう次無動は珍しかったような気がします。2000/05 平泉-前沢 5675レ歩み板が横幅一杯に伸び、ジャンパ栓も多い1000番台初期形、この時点で赤で残っていたのは1004号機と1015号機だけ、貴重品だったと思います。Chapter-1のパンダ塗装時代はあまり撮っていませんでしたが、一転して優先撮影の機番になっていました😁。2000/07 藤田-貝田 3083レコンテナ貨物列車の先頭で行きます。紅葉がいい具合でした。2000/10 目時-三戸 3051レ黒磯で直流機にバトンを渡し、北留置線へ引き上げる1004号機です。運転室の照明が白い..蛍光灯になっていたようです。2000/11 黒磯駅 3058レ牽引機雪景色がイイ感じでした。2001/01 平泉-前沢 3077レこの撮り方は..多分前ソが白かったんでしょう😅。1004号機の1End側;外板に凹みがあったようです。2001/01 豊原-白坂 3083レ3050番台の高速貨物スジなんですが、この頃曜日によって重単で行くことがありました。前運用から1004号機が入るのが読めたので、その気で後追いを狙ったと思います😁。2001/02 白河-久田野 単3055レ雪をべっとり付けて力走します。線路には雪が残っていませんが、3枚上と同じ列番ですが、この時の方がずっと寒かった記憶があります😅。2001/02 平泉-前沢 3077レChapter-2はここまで、Chapter-3へ続きます。最後までご覧いただきありがとうございました。   (Blog村)

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    ED75 1004 [機番シリーズRe002-2]
  13. 2024年4月6日(土)381系やくもを撮りに行った続き伯備・山陰遠征記⑤です。前日に伯耆大山-岸本間の大山バックで国鉄色やくも24号を撮った後、一度は帰路に付いていたのですが、翌日にDE15の単回があると教えて頂いたので、鳥取近くの道の駅で車中泊しました。翌朝、何処で撮るか悩みましたがやはり桜を絡めた矢田川橋梁に行く事にしました。まず朝のキハ47からです。2024.4.6 7:25 普通 豊丘行き 162D キハ47 鎧-香住PENTAX K-1 MarkⅡ+HD D FA 24-70mm SS1/1000 F5.6 ISO4002024.4.6 7:28 普通 浜坂行き 161D キハ47 香住-鎧PENTAX K-3 MarkⅢ+HD D FA★70-200mmPENTAX K-3 MarkⅢ+HD D FA★70-200mmこの時点ではDE15のスジは知らなかったので、毎回、停まっている香住駅を挟んで撮ろうとロケハンしていると、ばったり会った知り合いに今回は香住は止まらないと教えて頂きました。ありがとうございました。それならと一発目は矢田川橋梁に戻る事にしました。2024.4.6 9:27 単9853 DE15 1541 香住-鎧PENTAX K-1 MarkⅡ+HD D FA★50mm SS1/1600 F5.6 ISO4002024.4.6 単9853 DE15 1541 香住-鎧 矢田川橋梁https://ameblo.jp/penta-mx/entry-12849547374.htmlwww.youtube.com桜はまだ満開ではないようです。PENTAX K-3 MarkⅢ+HD D FA★70-200mm SS1/1600 F5.6 ISO640この後は東浜方面まで追っかけます。その様子は、伯備・山陰遠征記⑥に続きます。

    2024.4.6 単9853 DE15 1541 香住-鎧 矢田川橋梁
  14. 先般の法事で久しぶりに顔を合わせた下の妹が40年以上に渡る熱狂的な中森明菜ファンなのですがYouTube公式チャネルで配信中の動画が良いとやたら推すので神戸から帰宅後にさっそく麦酒を飲みながら観てみました。全盛期の曲目をJAZZテイストでセルフカバーした内容ですが良い意味の枯れたヴォーカル+クラシカルな伴奏に心打たれます。私的に80sアイドルは陽のSEIKOに対して陰のAKINAという構図でしたがどちらかというとAKINA推しでLPを全作買って擦り切れるほど聴いてました。もちろん当時の音源はまだまだ色褪せないモノばかりですが今回のセルフカバーはこれはこれでアリと確信しました。月並みな表現ですが、年を重ねて円熟味が増したというか若い頃は鼻についた渋みが年相応に進化したような印象です。まだまだ体調は万全ではないと聞いてますが元気になったら生ライブを是非聴きたいアーティストです。さて今回の鉄はまたまたやくもです。1017M やくも17号一本桜と緑やくものコラボレーション。バックショット恐らく381系にとっては最後の桜です。上り列車は立ち位置を変えます。1022M やくも22号期せずして新旧やくも競演となりました。備中川面-木野山にて

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    381系×273系 新旧やくも競演
  15. レモンケーキ「レゾンデートル」
  16.  昨日最後になってしまった白鬚神社はこんな境内になっていました。  近江最古の大社って書いてあります。 琵琶湖の地図も貼っておきましょう。 琵琶湖の面積は滋賀県の1/6位だそうで、半分くらい琵琶湖じゃないかと思っていましたが、そこまでではないようです。 滋賀県に一言どうしても言いたいのは案内看板が、公的な道路看板にしても私的な案内看板にしても少なすぎます 実は出発直前にカーナビが壊れて紙ナビで行くしかなくなったんですけど、案内看板があればなんとかなると思っていたんですよ。 でもね、例えば国道161号線走っていて各インターチェンジを降りるとどこへ行くかの道路標識が、どのインターチェンジでも行き先が「湖周道路」しか書いてないので、どの地区なのかさっぱり分からずUターンを何回も繰り返すハメに…。  白髭神社だって直前に湖の中に鳥居を見つけて急ブレーキかけて駐車場に入ったくらいですよ。 白鬚神社のそばにあった乙女ヶ池。最寄り駅は近江高島でして西暦650年頃から750年頃まで日本の古代史上二大戦乱の場になったと書かれています。 また織田信長のころに建てられた大溝城の外堀としての役割も果たしたとか・・・。 その中に奇妙な形態の橋が架かっていました。 太鼓橋の部分と平らな部分があるのはいいんですが・・・、 所々で奇妙にうねっているんです。 どうして直線にしなかったんでしょうか? どこにもこの橋のことの断り書きがありませんでした。 悩んでいる隙に湖西線を特急が爆走。 サンダーバードのようです。  乙女ヶ池を後にして少し旧街道を走ると地酒蔵元があり、早速中に入ってみることに 萩の露というお酒が中心みたいで、ここのお姉さんお薦めの酒を購入。 更に湖西を北上していき西浜というところに来ました(Uターン二回)。 マキノ駅が近いかな? 西浜から梅津まで1.2kmに渡ってこういった石積みが続いているそうです。 ここは琵琶湖の波をまともに受けそうな広い湖面が広がっています。 ということで波よけのために江戸時代に作られたそうで、現代のテトラポットのようなものなのでしょう。  単なる石積みも月日が経つと味わいが出るんです。 レイアウトにもこういった人工物を作るのも面白いな 一気に省略して夕方西舞鶴に到着。 この駅前は西舞鶴に行った方ならおなじみなんでしょうね。 駅には面白そうな車両が停まっていましたが本格撮影は翌日にしましょう。 信州から300km以上走ってお疲れです。 この日は駅近くのA●Aホテル。夕食は地元スーパーで買ってきた20%OFFのお惣菜つまみ。 同じくスーパーで買ってきたちらし寿司などで安く上げました。 お酒は「萩の露」で購入した「美里」 これは美里山倶楽部と被るお酒でしたので、酒屋のお姉さんのお勧めもあり文句なしに決めました。 精米歩合が80%と少ないんですが雑味がなくってスッキリした味わい。この精米歩合のためにお値段も720mL 1250円でお値打ちです。 その前にアドベリー酎ハイもいただきました。 翌日は早起きして西舞鶴駅にむかいましたこのブログが参考になった方ブログ村に戻る方はこちらのアイコンをクリック↓にほんブログ村

    琵琶湖を巡る旅~舞鶴まで
  17. 今回から全13回(予定)にわたり、「青ガエル」こと東急5000系(初代)を取り上げる連載「The “FROGSHIP”」を開始いたしますので、よろしくお付き合いのほどを。なお、当連載において東急5000・6000・7000の各系列に言及する際には、いちいち「初代」はつけません。5000系の登場は、当時の東急車輛製造(現J-TRECこと総合車両製作所。以下『東急車輛』という)の状況が深くかかわっています。東急車輛は、東急横浜製作所を前身とする鉄道車両メーカーで、「大東急」を構成した東急・京急・小田急・京王の4社が出資し、現在の横浜市金沢区にあった海軍の工廠を譲り受ける形で、戦後に発足しました。発足直後は終戦直後という不安定な世相も相まって多少の混乱もあったものの、昭和20年代半ばの朝鮮戦争特需があったこと、その後次第に世の中が落ち着いてきたことで鉄道車両の受注も増え、旧「大東急」の4社だけではなく、国鉄からも車両の受注が増えていきます。国鉄からはあの「湘南電車」こと80系電車やスハ43系客車、キハ10系気動車などを受注し、東急車輛は鉄道車両メーカーとしての実績を少しずつ積み上げていきました。しかし、当時の東急車輛はまだ新興メーカーに過ぎず、戦前から稼働している同業他社と比べると、受注実績や技術力などではこれら同業他社の後塵を拝していました。そこで当時の東急車輛製造の幹部は、なにがしかの技術力を示さなければ同業他社の間に割って入ることはできないと考えるに至ります。そのような状況下、東急電鉄はある車両の投入を立案します。車両メーカーとしての東急車輛も、新興メーカーとして既存メーカーに割って入るべく、乾坤一擲の大勝負とばかり、この立案に乗ることになりました。その「ある車両」こそ、「青ガエル」こと5000系。この車両の最大の特徴は、車体に限らず車両重量を極限まで軽量化したこと。そして在来の車両との混用を一切考えない、全くの新系列として設計されたこと。当時、昭和20年代後半の時点で、鉄道車輛メーカーと電機品メーカーは、戦時中の沈滞を取り戻すべく新技術の試作と導入に意欲を示していました。そのひとつが吊掛式からの脱却。昭和28年には日本初のカルダン駆動を採用した電動車として京阪1700形、営団地下鉄(当時)300形が世に出ていましたが、当然5000系にもカルダン駆動の採用が考えられていました。そして勿論、5000系最大の特徴である「超軽量車体」。これは航空機のボディの構造に範をとり、車体全体で強度を負担する構造を採用したもの(張殻構造)。従来の鉄道車両は、台枠をとにかく頑丈に作って、その上に車体を組み上げる方式でしたから、車体の耐久性は非常に高かった一方、重量が重くなりすぎるきらいがありました。これでは単位重量当たりの出力が小さくなりますが、だからといって吊掛駆動のままでは、電動機を大出力にするとばね下重量が重くなり路盤に与えるダメージも大きくなりますので、従来型の車体構造+吊り掛け駆動方式では、高速化には自ずと限界がありました。そこでカルダン駆動を採用することで、ばね下重量の増加という呪縛から解き放ち、さらに車体を軽量化することで、路盤に与えるダメージを大きくすることなく単位重量当たりの出力を向上させることが可能となります。さらに、このような「単位重量当たりの出力の向上」は、乗客数あるいは運転上の最高速度が同じであれば、消費電力量は少なく済むので、消費電力量の削減にも寄与することになります。またばね下重量など車両の重量そのものを抑えることで、路盤に与えるダメージも小さくでき、保線などのコストも抑えることができます。既にこのような車体構造の考え方は、西鉄の313系に端を発し、営団300形などでは部分的に採用されていますが、5000系はそのような考え方をもっと徹底したものとなっています。5000形の設計思想、今でいうコンセプトについては、当時の東急電鉄の車両部長だった田中勇が東急車輛製造の担当者に言ったとされる「何処のものにも負けない様な超軽量車を作ってくれ。寿命は10年くらいと考えて良い」という発言が、全てを物語っているように思われます。しかし流石に、当時の東急電鉄の社内では、5000系の開発・投入に懐疑的な見方をする幹部もいたようで、完全なコンセンサスが得られたわけではなかったようです。そのことを示す傍証が、昭和28年に東急がデハ3800を2両だけ投入したこと。この車両は「バス窓」と称される、上部嵌め殺し・下部のみ開閉可能にした側窓を導入するなど、車体の軽量化には一応の配慮を示してはいるものの、車体構造は従来どおりであり、なおかつ駆動方式は旧来の吊掛式と、戦前の技術の延長線上にある車両となっています。一説によると、デハ3800の導入は、5000系の導入がうまくいかなかったときの「保険」としての意味合いもあったとされていますが、それも頷ける話です。なお、デハ3800は、東急で最後に投入された吊掛駆動の新造車両となっています。デハ3800の投入の経緯に加えて、当時の東急電鉄の社内の「空気」が何となく読み取れるのが、田中と当時の部下であった白石安之とのやり取りです。白石は、田中に対し「この超軽量電車はあまり画期的過ぎて不明の点も多いので、もう少し在来的な考え方を入れたらどうでしょうか」と進言したのに対し、田中は「脱線や転覆をする電車では困るが、東急車輛が鉄研(国鉄の鉄道技術研究所)の援助を得てやっているのだから、お前があまりとやかく言うな」と返したという話が残っています。以下は管理人の想像ですが、田中以外の幹部から「あの車両は本当に大丈夫か」「あんなものを導入するとは正気か」などという冷ややかな反応が社内にあったのではないか、白石はそれら「懐疑派」の突き上げを食らってこのように田中に進言したのではないかと思われます。社内でのコンセンサスが得られていない状況は、現車が落成してからも続いていました。当時の車両課員であった金澤秀雄氏の記述によれば「この革新的な車輛新造計画は極秘に進められたため、部内でも、関係者間のコンセンサスがないまま元住吉構内にシートで覆われた姿で搬入されてまいりました」とのことです。そのような綱渡り的な状況ではあったものの、とにかく5000系は昭和29(1954)年に第一陣の3連が2本落成し、元住吉の車両基地に運び込まれます。そして5000系は、同年東横線でのデビューを果たし、デビューとほぼ同時に東横線、否東急におけるフラッグシップの座を不動のものとしました。その理由は、従来の車両と全く異なる風貌と、目にも鮮やかなライトグリーン単色のカラーリング。そして従来の車両と全く異なる、世にも静かな走行音。従来の車両とは何から何まで違いすぎる新型車両に、利用者や沿線住民は喝采を送りました。そして明らかになったのは、東急車輛の技術力の高さ。車両メーカーとしての東急車輛にとっても、5000系の誕生が同社をトップランナーに押し上げる原動力となりました。まさに東急車輛は、乾坤一擲の大勝負に勝ったことになります。次回は、5000系の構造その他スペックについて詳しく取り上げます。-その2に続く-【おことわり】・文中敬称略。・田中と白石の言動及び金澤の発言については、宮田道一・守谷之男・杉山裕治著「東急5000系と伊豆急100形」(アールエムライブラリー98・34復刻版 ネコ・パブリッシング刊)によりました。

  18. 1998年3月JR宝塚線-3
  19. 探索日 2017/12/31氷川駅(現奥多摩駅)と水根駅を結んでいた6.7kmの貨物線1952年11月開通、1952年12月16日運転開始1957年5月10運行終了正式には廃止されておらず、休止線として現在に至る前回は長大トンネルを抜けられず不完全な探索に終わったけど、今回は全線踏破をめざす『東京都水道局小河内線【2008】』探索日 2008/03/22氷川駅(現奥多摩駅)と水根駅を結んでいた6.7kmの貨物線1952年11月開通、1952年12月16日運転開始1957年5月10…ameblo.jp青梅線末端小河内線はここから奥へ続いていたあれは奥多摩工業氷川工場小河内線は奥多摩工業内を通過左、工場から飛び出してくる高架橋が見える第一氷川トンネル水根駅方口この先は工場の敷地内と思われるので突破は自重レールが残っているレールが残る日原川橋りょう上右奥にさっきの高架橋が見える上写真はあのアーチ橋の上第二氷川トンネル氷川駅方口施工 熊谷組 昭和27年トンネル内はなんかに使われていたようきのこ栽培か?レールは残されている待避所トンネル長は500mほどストロボで明るく写ってるけど、実際は真っ暗このトンネルを抜けるのが一つ目の難関出口到着第二氷川トンネル水根駅方口この奥にトンネル口がある道路化されているきのこ栽培所へのアクセス路になってたんやろ廃線跡から奥多摩工業を見る同じく奥多摩駅を見る中央に駅舎とE233系電車レールが現れる第三氷川トンネル氷川駅方口施工 熊谷組 昭和27年第三氷川トンネル水根駅方口橋梁右は「奥多摩むかし道」と名付けられたハイキングコース第四氷川トンネル氷川駅方口坑門上から氷川駅方面を見る上写真の場所はコンクリート橋上第四氷川 施工 鐵道建設興業 昭和27年岩盤が露出第四氷川トンネル水根駅方口すぐ次のトンネルに入る第一小留浦トンネル氷川駅方口施工 鐵道建設興業 昭和27年第一小留浦トンネル水根駅方口コンクリート橋第二小留浦トンネル氷川駅方口施工 鐵道建設興業 昭和27年第二小留浦トンネル水根駅方口コンクリート橋上第三小留浦トンネル氷川駅方口施工 鐵道建設興業 昭和27年第三小留浦トンネル水根駅方口『東京都水道局小河内線【中編】』探索日 2017/12/31氷川駅(現奥多摩駅)と水根駅を結んでいた6.7kmの貨物線1952年11月開通、1952年12月16日運転開始1957年5月10…ameblo.jp

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  20. ご訪問ありがとうございます。記事は憶測で書いてますので内容に誤りがありましたらコメント等でご指摘頂けると助かります。全国のJR駅が見たい時はこちら→☆ 第三セクター・私鉄駅が見たい時はこちら→☆皆さま、こんにちは!前回のブログで北陸本線・高岡駅の訪問記をUPしました。前回のブログもチェックくださいね。『【まったり駅探訪】北陸本線(現・あいの風とやま鉄道線)高岡駅に行ってきました。』ご訪問ありがとうございます。記事は憶測で書いてますので内容に誤りがありましたらコメント等でご指摘頂けると助かります。全国のJR駅が見たい時はこちら→☆ 第三セ…ameblo.jp当時はJR北陸本線の駅だった高岡駅。平成27年3月に北陸新幹線が金沢駅まで延伸した際に第三セクター化され、現在はあいの風とやま鉄道線の駅に変わりました。自分がここを訪れたのは10年前でまだJRだった時代です。当時はまだ、在来線の特急列車が頻繁に往来してましたっけ。まるで「特急街道」と呼ばれていたかつての東北本線を見てるようで、わずか1時間余りでしたが興奮しながら過ごしました。今回はせっかくなので、10年前の高岡駅の構内の様子をUPしちゃいますね。自分が駅を見る際に必ずやることでしたが、構内に留置されてる車両をチェックします。まずは保線用のモーターカーから。こちらはニチジョ(日本除雪製作所)製のHTR600Rではないかと。冬期は除雪ヘッドを装着して除雪車として活躍する万能機でした。最近か全国で数を減らし気味なホキ800もいましたよ。ホキ1259は昭和38年製。新製から61年が経過してるのですから何気にスゴイです。キハ47は東北地方で見ることが出来ない形式なので見てるうちに鼻息が荒くなりましたわ。ここからは国鉄形車両のオンパレードです。まずは普通列車の運用に就いていた413系電車から。昭和37年から製造が始まった急行形471系・473系電車を国鉄末期~JR移行直後、両開き2ドアセミクロスシートの車体に更新した形式です。ちなみに現車はトップナンバーのMcM'を含んだ編成なり。この編成、第三セクター化後にあいの風とやま鉄道に譲渡され、「一万三千尺物語」に改造された上で今も現役らしいですぜ☆赤地に白ラインの旧北陸色が浮いて見えてましたっけ。浮いて見えてる車両の旧塗色が好きなの、自分だけじゃあいませんよね?同時期に誕生した仙台地区の717系電車は登場時のグリーンライナー塗装から一度も変わらぬまま廃車になりましたが、北陸本線の413系電車は北陸色(赤地に白ライン)→新北陸色(白地に水色ライン)→北陸地域色(青一色)と、2度も塗装の変更があった形式でしたよ。こちらは国鉄形じゃありませんが、平成8年の誕生からわずか16年で消滅してしまった681系電車の北越急行色(2000番台車)です。貫通扉のギミックが合体マシン(知ってるかな?)っぽくてステキ。ホームに特急列車の停車位置案内がズラリと並んでました。この頃は485系電車も現役です。ただしJR西日本車ではなくJR東日本・新潟車両センターの車両。このカラー(上沼垂色)のE653系電車が今更ながら今月にデビューするっていうんですから驚きですね。足元に489系の乗車案内がありましたけど、急行「能登」は廃止済です。この案内、さすがに今は残ってないでしょうな。そしてそして…真打の登場です。大阪駅発札幌駅行きのトワイライトエクスプレスが7番線ホームに到着しました。鉄道好き以外の方にはわからんでしょうけど泣きそうです。興奮で唇がガクガク震えてましたよ。チビッコよ、近い将来に見ることが出来なくなるこの光景をよく目に焼き付けておくのだ。越後の本ズワイよりも、富山の紅ズワイよりも、越前ガニよりも…JR西日本のカニが大好きなワタクシ。構内に響き渡るディーゼルエンジンの音が堪らんのよね~富山名物のます寿しよりも…JR西日本のスシの方が大好きなワタクシ(しつこくてスマン)列車はやがて、甲高いホイッスルを鳴らしながらゆっくりとホームを後にしました。ブログの表題通り、「十年一昔」とよく言いますけど、高岡駅では10年前までこんな光景が日常茶飯事だったのです。それが今じゃ、定期列車はホームライナー(快速)と普通列車だけなのですから10年の月日はバカに出来ません。地元を走る仙石線用の205系3100番台の余剰車が廃車を目的に郡山に入場したというし、「今」をしっかりと記録しなくちゃね。アパホテル〈高岡駅前〉(全室禁煙)楽天トラベル最後の寝台列車トラベルガイド 完全保存版楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}関西発の名列車 山陽最急行からトワイライトエクスプレスまで (キャンブックス) [ 寺本光照 ]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}あいの風とやま鉄道線の駅巡り駅探訪記、旅情報を不定期に更新中。新着情報がすぐ受け取れるフォロワー登録をお願いします!

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