14SEP.
異星人 70 伊勢神宮の不可解
みんな元気ですか伊勢神宮の本当の姿聖徳太子は天平の時代に日本に新風を吹き込みました。その風はさわやかな希望と光に満ちていました。しかし世界は光と闇のバランスです。聖徳太子には裏の部分でどうしてもやらなければならないことがありました。それが日本における外国人の地位向上でした。恐らく太子はローマ人風の白人の風貌をしていたのだと思います。一方、同じ東洋人でありながら当時差別待遇を受けていた人たちが他にもいました。それが大陸から渡って来た帰化人の一団でした。帰化人は多くの有益な技術を日本にもたらしました。その代表格が秦河勝でした。太子は河勝と手を組みます。二人は当時の外国の諸事情に通じていました。この情報力は当時においては圧倒的な優位性と力をもたらします。話は変わりますが・・・当時の宮中では外国の事に詳しいと言うのはそれ自体が憧れであり、同時に力を意味しました。その外国とはまずは隋や唐の事でした。一番近くそして先進の大国だったのです。貴族がこぞって中国語を勉強したのは言うまでもありません。それが漢字です。仏教にとっても大きな追い風でした。ちなみに東京の下町浅草には浅草寺があります。一方は「あさくさ」でお寺の方は「せんそうじ」です。この違いは何から来るのでしょうか。浅草は日本古来からの地名です。お寺は仏教とともに日本にはいってきた中国渡来のものです。お寺の浅草寺を「せんそうじ」と呼ぶのはこのためです。話を戻します。当時の上級官吏はみな中国語が話せたとも言われています。教養とは漢字が読めることと同義だったのです。万葉集にはこのため中国語で解釈できる歌が多くあると言われます。やまと言葉に裏の意味を込めた歌もあるようです。さて荒海を乗り越えて、命に引き換えても遣隋使や遣唐使になり中国に留学することにはそれほどの魅力がありました。ちなみに当時の航海は非常に危険なものと思われていますが恐らく日本の航海技術はとても未熟なものだったと思われます。だから荒れ狂う東シナ海をわたり中国までたどり着くことが出来たのはおよそ半分にも満たなかったと言われています。まだ名もない若い優秀な人材が途中で失われました。しかし海のシルクロードを渡ってきたヨーロッパ人にとっては恐らく日本から中国に渡ることはそれほどの危険な仕事ではなかったのではないでしょうか。船の大きさや航海技術にも大きな彼我の差があったと想像します。話を戻します聖徳太子と秦河勝は外国の事情に関する情報力をもとにお互いの利益・目的のために仕事を分担します。太子は主に表の仕事、そして河勝は主に裏の仕事をします。形としては太子が名をとり河勝が実を取ったのです。太子は日本のために多くの実績を残します。河勝は当時の日本にとっては全く新しい技術やノウハウをもって太子の政治力の庇護のもと巨万の財力をたくわえます。同時に音楽・芸術の分野にも足跡を残します。この両者はお互いが必要だったのです。しかしこの両者の協力はそれだけではありませんでした。秦河勝は藤原氏の意向に沿う必要もありました。その巨万の財力で伊勢神宮を創建します。あの伊勢の地に日本各地を長い間放浪したアマテラスの安住の地を作ります。これはもちろんお話の中のつまり創造されたアマテラスです。本来アマテラスは二ギハヤヒの事でした。二ギハヤヒの天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまニギハヤヒのみこと)というフルネームの頭の部分をとってアマテラスにかぶせました。伊勢神宮に男神(おとこがみ)の気配はあるが女神の気配がないと言われる理由です。この伊勢神宮創建には非常に深い意味がありました。ここに聖徳太子と秦河勝の一つの目的の達成を見るのです。ちなみに伊勢神宮の石灯篭の6芒星は秦河勝に由来します。秦氏は直接的には中国からの帰化人ですがもともとはダビデを祖神とする古代ヘブライにまでそのみなもとをたどることが出来ます。ちなみに伊勢神宮で使われている暦は日本古来のものではなく、古代ヘブライの暦だと言われています。そして河勝の伊勢神宮創建には絶対に知られてはならない聖徳太子と秦河勝の陰陽師に繋がる大きな秘密と謎があるのです。続きはまたね伊勢神宮のダビデの星と16花弁菊花紋の石灯籠
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