
8JUN.
会わせてくれるとよ。慌てて来んでも良かからな
今日の東京は、一日曇り空。ニュースでは、今日から関東は「梅雨入り」とのことですが、それでも、心の中だけは、今日も快晴でありたいものですさて、今日もお参りの後は、法話を聞きましょう今日の御講師は、佐賀県鹿島市善徳寺の西河弘史師です。※青字は西河師の言葉の要約です。<本日のご讃題(テーマ)>十方微塵(じっぽうみじん)世界の念仏の衆生を 見そなはし摂取(せっしゅ)して 捨てざれば阿弥陀と名付け たてまつる 親鸞聖人(bonbu-koki意訳)東、西、南、北、北東、南東、南西、北西、上、下の十方の方角、それも小さな小さなところにいるような、つまりあらゆる世界にいる、苦しみ、嘆き、悲しむ私たちを仏さまは一人残らずご覧になり、摂取不捨、「決してあなたを捨てないから」と仰ります。その仏さまの事を、「阿弥陀様」と名付けて奉ります。<煩悩具足の凡夫>人間はおぎゃぁと生まれてから、全員が持っているものがあります。それが「煩悩」というものです。「煩悩」とは「自分の事を優先してしまう心」の事を言います。自分がこうしたい。自分がこう思う。自分が・・・・。自分が・・・・。自分が・・・・。でも、思うようには物事はいきません。(一切皆苦)その結果、怒ったり、愚痴をこぼしたり、どうしようもないことでも、嘆き、悲しみ、苦しんでしまいます。自分の思いが優先ですから、そりゃ、辛いですよね。でも、そういう私たちをご覧になって、煩悩に振り回されて生きる様子をみて、「これじゃ、いかん!」と立ち上がってくれたのがお経にある「阿弥陀様」と言う仏様です。 ある年の12月30日のことです。連れ合いに頼まれて、私はスーパーマーケットに「卵を2パック」を買いにいきました。流石に暮れの買い物ですから、駐車場もいっぱいで、レジを待つ行列も出来ていました。私はある列に並んだんですが、隣のレジを見ると、どうも隣の方が早そうです。他のお客さんはわんさか買い込んでいますが、私は卵を2パックです。会計はすぐに終わるんですから、さっさと買って、帰りたいのです。イライラして、私は隣のレジにさっと移りました。ところが、今度はさっき並んでいたレジが動き始めました。見ると、私がまだなのに、さっき私の後ろにいた人が会計を始めています。それも、私の方を見て、ニヤリと笑うのです。私はまた、イライラしてきました。まったくもう! 実は、これ、皆さんもこう言う事ありませんか。怒る。嘆く。悲しむ。愚痴る。そういう風に「煩悩が十分に身に染み付いていること」を「煩悩具足」「ただの人」だよと言う意味で、「凡夫(ぼんぶ:bonbu)」つまり、私たち、人の在りようを親鸞聖人は自分も含めて「人の本当の姿」のことを「煩悩具足の凡夫」と言い当てたのですね。それも、普段は理性を利かせて我慢をしているのですが、色々な「縁」に触れれば、何をしでかすか、わからないのも、また、私たちの性質なのです。縁に触れれば、何をしでかすか、わからない。他人を傷つけて・・・。自分を傷つけて・・・。そういう私たちを見て、立ち上がったのが阿弥陀様なんですね。<摂取不捨>私には妹がいるのですが、もう十年以上前のことです。妹が東京に就職をすることになりました。すると、私の父と母は、よく、佐賀から東京に用事を作って行っていました。そのうち、妹が大阪に転勤になると、今度は佐賀から大阪に用事を作っては、しょっちゅう出かけていました。近所のスーパーにちょっと・・・、ではありません。佐賀から、東京、大阪に、しかもしょっちゅうですよ。何故でしょう?それは、気になる我が子がいるからです。心配で心配で仕方がないのです。 私は二人の子供を授かりました。我が子が、遊んでいます。ところが、コケて、血が出るようなケガをして、大泣きをしています。そうしたら、私は「お~い、何だか大変そうだな。消毒してやるから、こっちに来いや~」なんて、のんきには構えません。泣いてる我が子。血を出してる我が子がいたら、猛ダッシュで子どもの所にいき、コケた子を抱き上げて、そのまま抱きしめたまま介抱していくと思います。いや、私だけじゃないです。大抵の親は、そうするんです。「こっちに来い」じゃない。「こっちが行く」のです。仏様も同じです。コケた私を「こっちに来い」とは呼んでいません。「こうしないと救わないよ」とも言いません。私がコケたら、すぐに駆け付けて抱きしめていくんです。これを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」と言います。摂取とは収め取ること。不捨とは、決して捨てないこと。つまり収め取って、抱きとり、決して見捨てない。誰をでしょう。私を、ですよ。あなたを、ですよ。仏さまはどこか遠くにいるんじゃありません。仏さまは臨終のときに迎えにくるのでもありません。今、生きている私やあなたのところにすでに来ているんです。その証拠ですか。今日も私も、あなたも生きてますよね。今日も、私も、あなたも生かされていますよね。<会わせてくれるとよ。 慌てて来んでも良かからな>平成27年12月のことです。私の祖父が往生しました。私の祖父は、お寺の前々住職。つまり、お坊さんなのです。さて、こう見えても、私は、おじいちゃん子です。おじいちゃんによく懐き(なつき)、おじいちゃんと手をつないでもらいながらあっちこっちに行きました。東京に来て、築地本願寺に来たことも覚えています。京都の本山にも、おじいちゃんと行かせてもらいました。そんな私も、京都で15年位、学校に行ったり、働いたりしていた時期がありました。普段は京都でしたが、それでも、お盆やお正月は佐賀に帰ります。大抵は2泊三日でしたが、おじいちゃんも私も帰省を大変楽しみにしていました。そして、私が家でゆっくりしたあとに帰る時ですが、帰る前にはおじいちゃんのところに行って、「これから、また京都に行ってくる」というと、おじいちゃんのセリフは毎回同じでした。「今度は、いつ帰ってくるとたい?」それから、もうひとつ、毎回、毎回同じセリフがありました。それがこれです。「そうか・・・。そしたらな、今度会うときまでにおじいちゃんのいのちあったらな、また、会わせてもらおうな。でも、もしいのちがなかったら、次はお浄土で会わせてもらおうな。お浄土でな、会わせてくれるとよ。必ず会わせてもらうとぞ。だから、お前は慌てて来んでも良かからな。慌てなくてもお前も必ず来るからな」 私は、お通夜の晩。この言葉を何度も思い出し、涙が止まりませんでした。このおじいちゃんの「毎回の言葉」おじいちゃんが往生したのは悲しいけれど、今、私の人生でこの言葉が私を支えています。私は、今は46歳ですが、やがてこの娑婆の縁が尽きる時、やがてこの娑婆でいのちが尽きる時、それは、またおじいちゃんと会える時なのです。また、会わせて頂けるお浄土がある。それこそ、阿弥陀如来の功徳でした。 私は今日で4日間の「お取次ぎ」をこれで終えますが、最後に私からお願いがあります。皆さんは、もし、自分のお子さんや近所のお子さんから、「死んだらどうなるの?」と聞かれたら、くれぐれも「死んだら何もなくなる」とは言わないでほしいのです。私たちは「煩悩具足の凡夫」ではあるけれど、それをご覧になって、阿弥陀様と言う仏さまが、「摂取不捨」決してあなたを見捨てません。そのように、仰っているのです。そして、また、お浄土で出会うことを「倶会一処(くえいっしょ)」と言います。みんなが同じお浄土に生まれ往くいのちなのです。例え、病気で亡くなっても、例え、事故で亡くなっても、例え、老いで亡くなっても、死に方問わず何も関係なく、お浄土で苦から解放されていくのです。それはすべてお釈迦様がお経を通じて私たちに教えてくれたことなのです。子供たちには「お釈迦様が言ったのだよ」と伝えて下さい。今は意味が分からなくていいんです。でも大人になって、辛いこともたくさん経験して、いつかわかる日がくるかもしれません。慌てなくてもいい。必ず私たちもお浄土に参るのです。そして、私たちはまた、お浄土で会うのですから。 ここからはbonbu-kokiが書いていきます。「摂取不捨」は「仏説観無量寿経」「倶会一処」は「仏説阿弥陀経」に出て来る言葉です。お釈迦様が説いたこととして、大切な仏さま観、大切なお浄土観だと思います。大阪の西教寺の御住職によると、この娑婆の縁尽きて、人が亡くなる時、人は何もなくなるのではなく、人はいなくなるわけでもなく、その瞬間肉体から解き放たれて精神からも解き放たれてパシっと。仏様に成るのだそうです。(往相回向)仏様と言うのはさとった方、と言う事です。そしてそこはお浄土という阿弥陀様の世界でも、この娑婆にもちゃんと帰ってきて(還相回向)今、まさに今。私の命に寄り添って私を生かしてくれる「ハタラキ」になってくれている。だから、お浄土でしか再会しないんじゃない。今、私のいのちとなって今、出会えていると言います。そのように私は聞いております。(如是我聞)今、来てるんですよ。仏さまが。これを喜ぶことを「南無阿弥陀仏」これを感謝することを「南無阿弥陀仏」というのですね。亡くなった方はもう仏さま。苦しんでないですよ。やがて亡くなる私もまた仏さまになります。そこで苦しさから解放されていきます。これが「さとりを得る」と言う事のようですよ。今日もお育て頂きました。今日もようこそのお参りでした。
龍神 18 歴史の必然 ニギハヤヒ VS 聖徳太子
みんな元気ですか聖徳太子のこと実はミカエルやガブリエルのような大天使はキリスト教だけの存在ではありません。あまり知られていないがイスラム教にも同じミカエルやガブリエル等の大天使達はいます。キリスト教やユダヤ教やイスラム教はヤーウェの神から派生しています。もともとは同じ神を頂く宗教です。人の意識がおそらく自分の都合でそれぞれの宗教に別けたのかもしれません。さて・・・先の章でご紹介したようにバール神はスサノオやニギハヤヒとおそらく深いつながりを持っていました。時代は下ります。一方聖徳太子はキリスト教の庇護者でした。彼が創建したとされる広隆寺は実はネストリウス派の古代キリスト教の教会だったという証拠がいくつかあります。下の写真は有名な広隆寺の弥勒菩薩像です。この菩薩は3位一体の印を結んでいます。下は同じ印を結ぶイコンです。どれも薬指が親指と印を結んでいます。見方によっては不自然な印です。この印の結びは決して偶然ではありません。これが3位一体の印です。弥勒菩薩像は隠れたキリスト教の象徴として作られているのです。聖徳太子は謎の多い人物でした。その実在が疑われているほどです。太子は秦河勝と深い親交を持っていました。この広隆寺は秦河勝の領地の太秦(うずまさ)に建立されていました。地震予知の松原照子さんは聖徳太子の風貌がローマ人に見えると霊視しています。ちなみに「太秦」とは当時の中国語で「ローマ」を意味します。バール神とキリスト教はすでに古代の日本では対立の構図にあったのかもしれません。なぜなら・・・スサノオ・二ギハヤヒは藤原氏により徹底的に封印されました。仏教対古来伝わる神道の覇権争いという解釈が一般的です。しかしその裏での真実は聖徳太子によって封印された可能性があるのです。聖徳太子は物部氏(ニギハヤヒと繋がる古代神道の代表)と曽我氏(中立派)、そして曽我氏と藤原氏(仏教擁護派)との戦いの後処理に常識を超える深入りをしています。さて・・・バール神はキリスト教では悪魔ベルゼブブとされていました。ベルゼブブは封印される十分すぎる理由があったのです。ここにも現代にまで尾を引く、世界の対立の構図を映した、古代日本の歴史の必然が見え隠れします。日本が世界のひな型と言われるもう一つの理由です。続きはまたね(聖徳太子像・・・ローマ人?)

令和から強くなっている龍神の神社

光輝く人類 ルミナスヒューマンは、新しい地球に出現します(。◕ ∀ ◕。)