
25MAY.
楕円の壁の内側で… 162
モク太監が何処かへ行ってから随分時間が経った。ー……暑いー サムノムの額から汗が流れ落ちる。 僅かに日射しを遮っていた木の影はすでに遥か後方へと移動していた。ーこのまま干涸らびて死んでしまえたらいいのに…ー 暑さでぼんやりとしながらそんな事を考える。〈おい、交代の時間だ〉〈やっとか…〉 聞こえた声にサムノムは顔を上げ清国の兵士に目を向ける。 また見張りの兵士の交代が来た。 辰の刻に出発して夕七つの鐘を聞いたのがかなり前だ、申の刻はとうに過ぎている。 本当なら今頃清国へ向かう船の上にいるはずなのに自分はまだ朝鮮の地にいる。ー世子様は…どうしてるかな…ー 最後に見たヨンの怒りとも悲しみともつかない苦しげな表情を思い出して胸が痛くなる。ー最後の最後まで私は…ー その時、ふっと日が陰り俯いていたサムノムの視界に兵士たちの靴が入り込んだ。「?」 顔を上げたサムノムの目の前に先ほど交代した清国の兵士が2人、並んでサムノムを見下ろしている。 その顔に浮かぶのは嫌らしい笑い。 サムノムはその2人の兵士に見覚えがあった。ーこの人たちは…ー 太平館に連れて行かれた時、門の見張りをしていた兵士たちだ。〈こいつ、ホント男に見えねぇな〉〈確かにこれだけ上玉なら太監様が目をつけるのも分かるってもんだ〉〈しっかし、いくら見た目は上玉でも男だぞ?〉〈まぁ、あの太監様が男に手をつけるとは思わなかったがな〉〈まだ未遂だろ〉〈そうだったな〉〈〈ははははは!〉〉 2人の兵士は何やら言葉を交わし笑っている。 清国の言葉が分からないサムノムは困惑しながら笑う兵士たちを見上げていた。〈なぁ…ホントに男かどうか確かめてみないか?〉〈……面白そうだな宦官のモノがどうなってるか見てみたかったんだ、無いんだろ?〉〈ああ、朝鮮の宦官は玉だけを切り落とすらしい、切り落とされたあと乳房が膨らんでくる奴もいるらしいぞ〉〈おいおい、ホントかよ!〉ー何? なんて言ってるの?ー 怯えた目で見上げるサムノムの姿はより一層男たちの苛虐心を煽る。 自分を見るその目には覚えがあった。 あの時のモク太監と同じ目だ。 身の危険を感じたサムノムは少しでも距離を取りたくて、縛られた手足を体に引き寄せた。 しかし兵士のひとりがサムノムに向かって手を伸ばしてくる。「!!」 身を捩ってその手を躱そうとするが、木に縛り付けられた状態では逃れる術はなく、男は下卑た笑い声を上げながら乱暴にサムノムの上衣の袷に手を掛けた。「嫌…っ」ー誰か…!ー 助けなど来ないと分かっていても恐怖から思わず声を上げぎゅっと目を閉じた。 が、男たちが呻き声とともに急に静かになり上衣に掛けられていた手が緩むのを感じ恐る恐る目を開けるとうつ伏せに倒れた男の項に短剣が深々と刺さっているのが目に入った。「?!」 もうひとりの兵士を見ると、そちらもその場に倒れている。 何が起きているのか理解できず混乱しながら顔を上げ辺りを見回したサムノムは目を見開いて息をのんだ。ーどう…してー目を向けたその先。 陽炎《かげろう》のように揺らめく夕陽を背に自分に向かって歩いてくる姿があった。 夢でも見ているのだろうか。 それとも、とうとう暑さで頭をやられたのか。 目の奥が熱くなり視界が滲む。 溢れそうになる涙を堪えながらサムノムは近付いてくるその人影をただ黙って見つめていた。***──時間は少し遡る。 古寺を後にしたユンソンは急いで屋敷に戻るべく馬を走らせた。「お祖父様!」 領議政の部屋に返事を待たずに扉を開けたユンソンに一緒にいた吏書判書が眉をしかめる。「随分と慌ててどうしたんだ」 ようやく使臣の歓待が終わり今日は宮廷全体が半日の休暇扱いで領議政らも屋敷で寛いでる最中だった。「モク太監が闇取引の現場を押さえられ捕まりました」「?!!」 領議政が目を見開く。「捕まったとはどういう事だ?!」 しかし、領議政より先に吏書判書が声を上げた。「………お前まさか…」 それに領議政が反応した。「いやっあの…っ」 冷や汗を流し、しどろもどろになる吏書判書を領議政が睨み付ける。「清国の使臣のする事には決して手を出すなとあれほど言った事を忘れたのかっ」 その言葉にユンソンは内心驚いていた。 祖父なら何かしら闇取引に一枚噛んでいると思っていたからだ。 ーアテが外れたか…どうする?ー どうにかしてモク太監の口を封じなければサムノムがまた危険に晒される。「ま、まさか捕まるなどとは夢にも思わず…で、ですが取引から私の名が上がるような事は決して…あ!」「なんだ?」「じ、受領書…!」「!!」「あ、や、しかしあれから私に繋がるようなことは…!」 しかし領議政は「参内する」と立ち上がった。「お祖父様っ」 どうするつもりなのかと問うユンソンに領議政は感情のこもらない目を向ける。「獄中で自らの罪を悔い自害するのはよくある事だ」 部屋を出て行った領議政の後を慌てて追う吏書判書を見送ったユンソンはホッと息をついた。 これでモク太監が余計な事を喋る前に消す事ができる。 それに加えモク太監の死はマ内官に更なる恐怖を与えることだろう。 長年モク太監の悪行を暴こうと準備をしてきたヨンには悪いがサムノムの秘密を知るヤツを生かしておくわけにはいかない。 ー“私の人” に…手を出そうとするからだー 大切なものを守るためならば手段は選ばない。 ユンソンは己の身の内に忌避する祖父の血が確かに流れている事を、改めて感じたのだった。

およねさん/虹の迷宮 第35章「闘馬の決意!」③

パグとおれとテレビ。27

サイドミラーの中の幽霊