27JUL.
【悟り】ブッダが指し示した煩悩即菩提の如来坐禅 ~自己を忘じた実感、体感などなくていい~
自己を忘じた実感や見性する体験がないそれで良いのです。今はまだ見性していない、モノや環境と一つになっている実感がないと、認識が落ち切らないといけないと、自己を忘ずる、見性する実感を得たいと今の今の自身の実物の様子からどうこうして運ぼうとするのが仏道における消滅すべき自己なのです。知識や話しで聞いた、対象のない宇宙一如の在り様に今はなっていない、これから修行して自他一如になるべきだと、そのようにやってしまうと、話しで聞いた自己を忘じた理想の在り様と、今の今の自身の現実の在り様との理想と現実を見比べてしまい、どこまでもそれが平行線を辿り、自己を忘ずる在り様を考えでなぞってしまい、今の自身から離れた、頭で描いた自己を忘じた在り様で在ろうとするのが、消滅すべき自己であり、今の今の自身の様子をどうにかしようと奮闘しているので、自己を忘ずる事が起きないのです。今の今の自身の実物の様子がどうあろうと構わないのです。今の今の様子が不安でいっぱいなら、それが事実の様子ですから、全身不安のままにさせておけばいいのです。今の今の様子が怒りでいっぱいなら、それが真理ですから、全身怒りのままで、そのままで居ればいいのです。今の今の自身の様子を否定し、不安をどうにかしよう、怒りをどうにかしようと、思考で図らってどうにかしよう、瞑想や音楽やシンギングボール、小道具や念仏を用いて不安や怒りを払いのけようとするのが消滅すべき自己の働きなのです。どんな在り様であれ、今の今の自身の様子を否定したり、問題にするものがいなければ、苦悩にはならないのです。自己を忘ずる実感がないと、今の今の自身の様子を否定していたら、自己を忘ずる事が起きないのです。自己を忘ずる実感は実際に自己を忘じてみない事にはハッキリしないのです。それを考え方概念で解かろうとするから、だから、認識以前の今の事実の様子から離れ、ブッダが指し示した道、真の禅からどんどん離れて行くのです。いったん道の実践に入ったら、自己を忘ずる理想なんて捨てて、全ての情報・知識から離れて、今の今の悟りを開いていない自身の様子のままで居る事に勤めなければ、実践にはなりません。単に今の今の様子のまま、坐の上にこの身を放って投げておくのみです。坐中、自然と自分を観ているのなら、それが本気で観察しようとやっていなければ、それがその時の今の実物事実の様子なのですから、そのままに居ればいいのです。しっかりと起きている意識がありながら、妄想が色々と出てきながら、人間関係の悩みの思いの内容が何度も出てきながら、自分から離れる事が起きるのです。ですが、自分から離れた様子を理想に掲げ、今の今の自身の様子を否定すると、どこまでも自分から離れる事が出来ずに同じところをグルグルと輪廻する事が生じてしまい、自分から離れる事ができなくなってしまうのです。煩悩即菩提煩悩が出ている今の自身の様子を否定していたならば、菩提には到達しないのです。煩悩だらけの様子に良いも悪いもないのです。どこまでも何かたくさん湧いてくるのならば、それがその時の菩提法身の在り様なので、それでいっさい何も問題がないのです。今のたくさん湧いているのを忌み嫌い、それでは何か違うと思ってしまい、思考が湧いてこないような今とは違う様子に運ぼうとする瞑想や念仏や音楽シンギングボウルなどの小道具を使い作為してどうにかしようと図るから、どこまでも自分から離れられないのです。手をつけないでそのままに居れば、自然と自分から離れ、その間の事はいっさい覚えていないし夢のようで思い出せない事が起きてくるのです。これから理想を掲げて、悟りを開くと決めてこれから理想に向かって実践するのではないのです。今の今の自身の様子に馳せ参じるのです。今の今の自身の事実の様子しかないのです。実物事実の様子のままに参じるのです。調身して座相を整えて、そのまま息しているだけであとは野となれ山となれ。単に今の実物のままで居れば、あとはなにもかも坐が導いてくれるのです。
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