
22FEB.
文化の片鱗
数百年も保存されていたシミのついたボロボロの生地は決してゴミじゃねぇんだな。こんなに鮮やかに蘇るとかスゲェよなぁ。保管場所がねぇからと破棄しようとする博物館。文化の片鱗を見れるものは捨てちゃならねぇよな
124.「ラジオ体操」をもう一度!
124.「ラジオ体操」をもう一度!【松本】大学を卒業して、そのまますぐに精神科に入局した。朝の病棟カンファレンスが終わると、精神科病棟の中庭を開放して、朝の「ラジオ体操」が始まる。 もちろん、研修医の私たちは全員参加だ。先輩の精神科医や看護師さんたちも、けっこう参加していた。 一日が、そこから動き始めることが、当たり前だった。 やがて、時が流れて、いつの間にか、私は、「ラジオ体操」に参加しなくなっていった。勤務異動があったり、忙しくなった、ということもありはしたし、病棟によっては、必ずしも、朝一番に「ラジオ体操」が始まるわけでもなくなった、ということもある。 しかし、個人的にも、各病棟的にも、時代の流れ的にも、少しずつ「ラジオ体操」の価値というか、重要度が低下していったのだと思う。 たかだか10分を割かなくなったのである。10分さえ作れないほどの忙しさや、重要なことなど、たいしてあるはずもないのに。 「ラジオ体操」参加は、若い精神科医の役目であって、年次が上がってくると、自然と卒業していくような雰囲気も、あったかもしれない。いったん参加しなくなると、途中で再開するのは、なんとなく目立つような、ちょっと恥ずかしいようなハードルがあったようにも思う(ただの独り相撲で、自意識過剰なだけなんですけどね)。 精神科医であろうが、誰であろうが、「自分」という枠、あるいは、「他者の評価」という枠から出ることが、いかに難しいか、ということでもあろう。 今になって、ずっと参加しておけばよかったな、と悔やまれる。「ラジオ体操」を通して、積み重ねられるモノもあったはずだからである。 そして、さらに時が流れて、最近同僚の精神科医と、以下のような話しになった。「対応困難な患者さんの対応に追われて、気が付くと、20年くらい前にあれほど激しい症状だった人が、今や60代、70代になっている。 新たな困難な人の対応に次々と追われている間に、職員にも若い人たちが増え、上記の人たちは、私たちの関心の中心からはずされ、いつの間にか、ひとくくりのオールドマン扱いになってしまっている。後回しというか、無難な平穏さ優先の、『毎日変わりなし』のオールドマン扱い。 精神科医療・看護において、たとえば幻聴、妄想の持続で入院生活が続き、60代、70代に至って、まだまだ老け込む年齢でもなく、体力もある人に、どんな対応や、治療的目標や、生活上の仮の柱がありうるのか?は、これまで、経験値もなく、テーマとして考えられたこともない領域だ」 最近、そういうことを考えるのさねー、どう思う?という話だった。 後日、その精神科医の同僚が、「あれから少し考えたんですが、自分もそういう年齢になってきているし、『まずは朝から、いっしょにラジオ体操をしませんか?』と、声をかけてみようかなと思います」と、私に話しかけてきた。 なんて素晴らしい、いい考えだろう。ゆるく、いっしょに「ラジオ体操」をしている光景が目に浮かぶようだ。参加してくれる人が多くても少なくても、続けていくと、柔らかい価値が生まれそうである。 朝の幹部会などに遅れないことを最優先させるよりも、「ラジオ体操優先!」の掛け声の方がはるかに美しい。 私も、機会があれば、参加して、始まりの、あの歌を、少し大きな声で歌ってみようかなと、思っている。最近テレビのCMで流れていたりする、あの歌である。 「新しい朝が来た、希望の朝だ・・・」 「ラジオ体操プロジェクト」と名付けて、心理師がイニシアチブを取って、病棟で取り組んでくれないかなーと、つい思ったりするが、たぶん無茶振りでしょうね?

ウソのような本当の話

何度も言ったのに