
15AUG.
秋田県に「八郎潟」が二つ?角館・青柳家の古地図で大発見!【秋田旅行⑤】
角館の武家屋敷,石黒家に続いて青柳家も見学しました。今回は見学記というより,展示の地図を見ると,秋田県に「八郎潟」が二つあることを発見した記事です。博物館の集合体の青柳家青柳家の入館案内入館のみの20分コースを選びました。500円。写真撮影は「よしなに」というのが難しいですが,🆗のマークがあります。角館歴史村・青柳家案内図母屋のお屋敷だけではなく,武器蔵,解体新書記念館,幕末写真館,秋田郷土館,武家道具館,ハイカラ館など,いろいろあります。武家屋敷というより,小さな博物館が集まった歴史村です。ただし,秋田犬記念館はなくなっています。同行の奥さん,犬苦手だから,まぁいいか。青柳家の玄関母屋の玄関。屋根が苔むしています。風情がありますが,劣化していると雨漏りしそうです。八郎潟が二つある!中に入って進んでいくと,古地図がありました。地図好きのマフォビア君,気になりました!橋本玉蘭斎(1868)『陸奥出羽国郡行程全図』注目したいのは,二つの湖。現在の八郎潟は「八郎大泻」で,現在の田沢湖は「八郎小泻」になってます。八郎潟が二つあります!!青柳家には,もう一つ古地図がありました。長久保赤水(1840)『改正日本輿地路程全図』(第5版)現在の八郎潟は「大方八郎泻」,田沢湖は「八郎泻」になってます。「大方」は何を意味するのか気になります。「大きい方」だったりして。田沢湖は「田沢の潟」や「辰子潟」とよばれてきた事実はあるようです。「八郎太郎」伝説があります。人から龍となった八郎太郎は十和田湖の主となるも修行僧に追われ,各地で戦いや力比べを重ねた末に八郎潟を生み出して永住の地としました。やがて田沢湖の辰子姫と結ばれ冬を共に過ごすようになったそうです。こうした伝説があるから田沢湖が八郎潟とよばれたかもと思いましたが,「八郎潟」とよばれてきた事実は確認できませんでした。八郎潟が二つあるのは,世紀の大発見!(かもね)伊能図よりも普及した赤水図地図の説明文江戸時代の日本地図というと,伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が正確に地形を描いています。しかし,徳川幕府に提出されたものの,幕府に伊能図の活用に対する展望がなかった(松尾容孝,2017)こともあり,一般の人が目に触れることはほぼありませんでした。長久保赤水は実際に測量したわけではなく,それまであった地図,地理書,旅人からの伝聞など膨大な資料を収集・解析して1774年に日本地図を一応完成させました。その後も修正を続け,1779年に大阪の出版社から市販されました。これがいわゆる『赤水図』です。『伊能図』の完成が1821年なので42年も前に『赤水図』ができていました。その後,何度も修正が行われつつ,明治初めまでの1世紀にわたって,『赤水図』は広く使用されました。謎は深まるばかりだ!この説明で「8回の再販」とありますが,文字どおりなら,最初の刊行を含めて計9回刊行されたことになります。ただし,ここでいう「再販」が何を指すのかは判然としません。赤水図とその原図・後継図のおもな変遷1774 日本輿地路程全図1779 改正 日本輿地路程全図(安永版;初版)1791 第2版(寛政版)1811 第3版(文化版)1834 第4版(文成版)1840 第5版(天保版)1852 増訂 大日本国郡輿地路程全図1871 増訂 大日本国郡輿地路程全図(再刻)(海田俊一,2017ほか)※発行年には異説があります1779年の安永版が初めて世に出たのですが,いきなり「改正」なんですよ。赤水が実際に関わったのは第2版まで。赤水の死後も,出版社などによって改定が行われました。1852年以降は,鈴木驥園が『赤水図』をもとに,名所旧跡などの情報を大幅に追加した地図を作成,1871(明治4)年版では,北海道のみならず,樺太や千島列島(カムチャツカまで)が記載されるようになりました。では,なぜ田沢湖まで「八郎潟」と書かれたのでしょうか。赤水のミスなのか,参照した資料が間違っていたのか,版木作成時に取り違いが生じたのか,よくわかりません。それにしても,長久保赤水は「並々ならぬ執念」(海田,2017)で地図を完成させました。地名の表記にも相当,気を遣っていたはずです。・赤水が田沢湖を「八郎潟」としたのはなぜか・二つ「八郎潟」があることに疑問を感じなかったのか・100年近くの間,なぜ田沢湖(㵼)に修正されなかったのか二つの八郎潟の謎は深まるばかりです!

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