15JAN.
プロ野球ファンやめましょうか②~パレルギー~
パ・リーグ出身のカープの選手? さて、問題です。他球団からカープに移籍した選手で最も活躍した日本人選手はだれでしょう? このクイズに、ほとんどのカープファンが異口同音に答えるであろう。「そりゃあ、江夏豊に決まっとろうが!」 筆者も異存はない。 では、さらにクイズを続ける。 ならば、純粋のパ・リーグ出身の選手では? 即答できるカープファンがいるだろうか。南海ホークス(現・ソフトバンクホークス)から来た江夏、元はと言えば阪神タイガース出身。スターという点では、かつて大毎(現・千葉ロッテマリーンズ)ミサイル打線の中軸だった山内一弘も阪神を経てのカープ入団(1968)である。 のっけから荒唐無稽なクイズで申し訳なかったが、実は出題者である筆者が碩学のカープファンから正答をご教授いただきたいのだ。筆者にはある疑念がある。カープはパ・リーグの選手と「水があわない」、いわばパ・リーグ・アレルギー(略してパレルギー)があるのではないかと…。 江夏との交換トレードで入団(1981)した日本ハムのエース・高橋直樹(通算169勝)は、カープに在籍した2年間でわずか2勝。日ハムの優勝に貢献し、パ・リーグでもMVPに輝いた81年シーズンの江夏とはあまりにも対照的だった。 何度もひきあいにだして恐縮であるが、水谷実雄との交換トレードで阪急(現・オリックスバファローズ)から入団した加藤英司は2度の首位打者獲得などの実績はみる影もなく、打率2割6分1厘・10本塁打という平凡な成績で、わずか1年で球団を去っている。かたやその年(1983)に水谷が大車輪の活躍でパ・リーグ打点王(114打点)を獲得したことにどれだけのカープファンが臍(ほぞ)を噛んだことか。 ボヤきを続ける。3度の盗塁王を獲得するなど、赤ヘル機動力野球の「申し子」高橋慶彦を放出(1989)してまで獲得したロッテの高沢秀昭の赤いユニフォームでの活躍はどうだったであろう。実働1年半で2割5分3厘、本塁打6本。1988年のパリーグ首位打者にしてこの有様だ。 90年代、長らく正捕手を務めた西山秀二(南海から87年に移籍)や、球界屈指のユーティリティープレーヤーに成長しながら巨人に移籍、最後は広島の地で惜しまれつつこの世を去った木村拓也(95年、日ハムから移籍)など、一部の例外は確かにある。しかし、その例外もカープが「一から育て上げた」育成の成功例だ。樽募金もむなし… カープの育成力は球界屈指といえよう。しかし、なぜ他球団(特にパリーグ)から来たビッグネームをうまくつかいこなせないのか。 カープファンが「よそもの」に冷たいのだろうか? 決してそのようなことはあるまい。わが父は山本浩二のような大スターも好きだったが、いぶし銀のような地味な選手も好きだった。カープ劣勢の最中、代打がアナウンスされる。「おッ、代打ショーガキじゃ。ありゃあええ仕事するけぇのう!」 正垣宏倫(1977~80在籍)、阪急から移籍してきた「代打の職人」を父は妙に崇めていた。 これはわが家の些末な例であるが、カープファンが「よそもの」出身の選手を熱烈に歓迎したもっとも顕著な事例がある。小鶴誠の移籍であろう。 1950年に51本塁打を放ち、松竹ロビンス(セ・リーグだが)のリーグ優勝に貢献するなど「和製ディマジオ」とよばれた小鶴は当時、藤村富美男(阪神)と並ぶ大スター。市民はこのキラ星招聘のため、樽募金を実施。移籍(1953)が現実のものとなったとき広島の街は沸きかえったという。 その後、それなりの活躍をみせた小鶴も、1958年に「チームの若返り策」の名目の下、首脳陣より戦力外通告をうけた。まだまだ現役を続ける自信のあった小鶴は球団に不満をぶつけたという。その時のセリフがすべてを語っていた。「この球団は広島閥が強すぎる!」 実際、当時唯一の生え抜きスタープレーヤーだった白石勝巳(広陵中出身)が監督就任(選手兼)するにあたり、「やりやすくするための配慮」だったという声が当時から聞かれた。小鶴の発言はこの球団の体質を言い尽くして余りある内容だった。くどいようだが、樽募金で自腹を切り、小鶴を迎え入れたのは地元ファンである。球団は一体どなた様のものなのだろうか。広島閥、カープ閥から離れよ 冒頭のクイズである。「パリーグから来たゆうたら、大下剛史がおろうが!!」 生粋のパリーガーで優勝にもっとも貢献したという点ではまさに大下(1975~78在籍)の名は外せまい。1966年、駒沢大学から東映フライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)に入団。水原茂監督の下、張本勲・大杉勝男らと打線の中軸として活躍。75年にカープ移籍後、走守にわたってチームをけん引。不動の切込隊長として、初優勝の立役者の一人となった。 74年オフ、球団は日本球界史に残る徹底的なチーム刷新を断行。日本球界初のメジャーリーグ出身監督としてジョー・ルーツが大舵をふるった。チームカラーを燃える闘志の赤色にチェンジ。「負けグセ」が染み付いたチームに活をいれるため、強烈な個性のムードメーカーを必要とした。そうしたルーツ監督のお眼鏡にかなったのが大下だ。移籍初年にして主将の立場を任されている。 ただ、当の本人は安芸郡海田町出身の広島商業卒というバリバリの広島閥。元々奔放な東映のチームカラーがあわなかったともいう。同じ広島商業出身で後に監督に就任する三村敏之との1・2番コンビで、ますます緻密な広島型野球がチームに根付くことになる。 カープのプレースタイルにケチをつけたいのではないが、今シーズン(2014)をふりかえってほしい。5月まで快進撃を続け独走状態だったカープの大ブレーキとなったのがセ・パ交流戦。9勝15敗、勝率3割7分5厘の惨状だ。今年に限ったことではない。通算成績4割1分3厘(2014年現在)。この鬼門をなんとか克服しなければ「優勝」の2文字はみえてこない。 このチームの雰囲気の「何か」がパ・リーグの球団につけこまれやすいのではないか?ならば、パ・リーグの野球を知り尽くし、パ・リーグへの苦手意識を払拭できるスタッフや選手が必要なのではないか?いないならなぜ外から獲って来ないのか? 広島東洋カープ現オーナーは先代オーナーの遺志を受け継ぎ、「監督・コーチは生え抜きに拘(こだわ)る」の球団方針をとってきた。 邪推であればおわびする。オーナー一族はじめ、首脳陣が気心の知れた連中とヨロシクやっていたいだけの「生え抜き」というのなら、諫言(かんげん)したい。 「もぉちぃとパ・リーグに勝てる人材つれてきんさいや!!」
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