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  1. 母親たち
  2. そこになにがあるのさ
  3. 鶴岡公園の近く鶴岡カトリック教会天主堂フランス人のパピノ神父の設計で、日本人大工の相馬富太郎が棟梁となって建築したと言われている1903年(明治36年)に建てられたヨーロッパ中世紀頃のロマネスク様式をもつ教会で、1979年(昭和54年)から国の重要文化財に指定されている高さ23.7メートル、正面の幅10.8メートル、主棟奥行き23.75メートルの木造瓦葺のバジリカ型三廊敷きロマネスク様式の建物で、東北地方ではこの様式最古の建物であるフランス人ダリベル神父の全財産と寄付により明治36年(1903)、庄内藩家老屋敷跡に建設。地球を抱いた、マリアさま1903年に天主堂ができた記念にフランスノルマンディー州ドーバー・ラ・デリヴランデのデリブランド修道院から寄贈された「黒いマリア像」で、ノートルダム・ド・ラ・デリヴランデ聖堂にある黒い聖母像の複製として、フランスで作られた、木の芯に石膏を被せたものである。昭和52年(1977年)にフランス国立学術研究所ドベルク美那子女子によって黒い聖母と鑑定された。日本にある「黒いマリア像」はこの一体のみである初代主任司祭ダリベル神父の手紙には「聖母マリアのご像は私の国ノルマンディーから来ました。ノートルダム・デ・ラ・デリブランド或はノートルダム・ラボラトリエといい、日本語で御助けの聖母であります。よく御助けを願うとき、きっとかなえられます。私はこのマリア様のところに幾度も行きました。日本に来る前にそのご像の前でミサをあげてノルマンディーを出ました」と述べられている。なぜマリア像の顔が黒いのかはいくつかの説があるが、旧約聖書のソロモン雅歌には次のようにある。聖ルカによる原肖像画のマリアの顔が熟した小麦のように栗色であったという。イスラエルの娘たちよ私はケダルの天幕のようにサルマハの幕屋のように黒いけれども美しい私の焦げた色に目をとめるな私は陽にやけたスペインのモンセラでは、黒いマリア像に祈りを捧げると、願い事が叶うと云われています黒い聖母 - Wikipediaja.wikipedia.orgここも、毎年訪れています ぜひともお越しくださいませ寄付箱がありますのでよろしくお願いいたします

    黒いマリアさまは、お助けの聖母♥
  4. 今日0430日の散歩 5,397歩
  5. いずも
  6. 若葉の下で
  7. 茶畑と富士山(4)
  8. 和歌山城から1キロほど刺田比古神社へ刺田比古神社【さすたひこじんじゃ】刺田比古神社は延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の産土神として岡の宮の名で知られている。御祭神は神武御東征のさいに御活躍した道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐弖比古命をお祀りしている。佐弖比古命(狭手彦命)は百済救済のさいに武功をあげ、その武功により岡の里の地を授かったという。古来より岡の地は人が住み、道臣命は岡の里の出身とされる。『続日本紀』にも片岡の里出身の大伴氏が登場し、昭和7年には境内南西側で古墳時代後期の古墳岡の里古墳が発見されていることからも、その由緒をうかがうことが出来る。一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられている。佐弖比古命(狭手彦命)より世々岡の里を采邑し、佐比古命二十世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した。里人はこの地を開始経営し給うた神として、その神徳を仰ぎ産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬した。大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀が始めて岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬した。里人の崇敬も厚く社殿等頗る壮観を極めたが、南北朝の騒乱など度重なる兵乱に遭い、古文書や宝物を悉く失い、社殿も荒廃するに至った。嘉吉年中に氏子等が再興し、国主(くず)神社と呼び崇敬した。天正年中、豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神として尊び、大伴の後裔岡本左介を社司とした。豊臣秀長は城代桑山修理亮重晴に社殿修造を命じ、岡本左馬助家長を神官とした。文禄三年、神社を本来の鎮座地たる岡の里(現在の御鎮座地)に移した。その後浅野幸長が本国を領するも、本城鎮護の神として変わらず尊宗した。元和年中、徳川南龍(頼宣)公が紀州入城すると、城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献した。更に領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた。二代城主清渓(光貞)公以後は産土神として崇敬し寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し、松生院別当職を解き唯一神社となし、新たに神官邸を社の傍に寄進して奉仕を厳にした。其の後名草郡岡村にて社領を寄付され、神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任された。殊に八代将軍有徳(吉宗)公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となったことから、吉宗公より特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と敬神され、享保年中名草郡田尻村(現和歌山市田尻)に二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。これより年に壱万度の国家安泰の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々三年に一度上東し将軍に拝謁し、代替、継目等のさいは江戸にて拝謁する例となった。よって氏子の崇敬益々厚く神徳弥栄にて、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月九日の戦災に遭い、社殿、宝物、古記録すべて焼失したが、御神霊のみ安泰であった。その後氏子等の敬神により現在の復興となり、崇信日々に広く神威赫々である。和歌山城の建つ虎伏山の南にある「岡山」と称する丘(台地)の東麓に鎮座境内入口には鳥居が東向きに建っており、そこから石畳の参道がまっすぐ伸びています手水舎丸い鉢に柄杓…そして…竹雰囲気はサイコ~拝殿拝殿は銅板葺の平入切妻造に向拝の付いたものこの拝殿はRC造で、全体が桃色に塗られているのが特徴的御祭神道臣命(みちおみのみこと)道臣命は大伴氏の祖先神なんよ天忍日命の世の孫にあたるとか神武天皇の御代に朝廷の軍事をつかさどり、神武天皇の御東征のさいに武功をあげられたとかまた最初に神事を執り行ったことでも知られてるんやって『古事記』では、皇軍が宇陀(現在の奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志)の地に至ったとき、その地の兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)は抵抗し、天皇の使いである八咫烏を矢で追い返したさらに兄宇迦斯は天皇に従うふりをして御殿を造り、踏むと圧死するばねを仕掛け皇軍をだまし討ちにしようとしたとかしかし弟宇迦斯がその策略を告白し、道臣命と天津久米命(久米氏の祖)とが兄宇迦斯を追い詰め、兄宇迦斯は自らの仕掛けにかかり死んでしまう『日本書紀』は道臣命の御偉業を多く伝えている『日本書紀』で道臣命は日臣命(ひのおみのみこと)の名で登場日臣命とは「太陽の臣下」の意とされてます神武天皇即位前紀戊午年6月、日臣命は八咫烏の導きにより、久米氏(大来目)を率いて、兵車で道を開き、皇軍を宇陀まで進められた神武天皇はその武功をお称えになり、道臣命(導く忠臣の意か)の名をお与えになった同年8月、反逆を企む兄猾(えうかし)を追い込み、自滅させる『古事記』では大伴氏と久米氏は同等に記されているが、『日本書紀』では大伴氏が久米氏を率いたことになっているんよ時代が経つにつれ両氏の勢力が変化したことを示していますのちに大伴氏は久米氏とともに軍事を掌るが、久米氏はその没落とともに久米部として大伴氏に率いられるように同年9月、御東征軍は高倉山に至るが、国見丘の八十梟帥(やそたける)によって男坂、女坂などの要害を抑えられていた神武天皇は祈誓(うけい)の夢に、天神のお告げを受けられ、天香山の土で祭具を作り、丹生の川上で天神地祇をお祭りになり、戦勝祈願をされましたこの時、神武天皇は高産皇霊命の神霊の憑人(よりまし)を務められ、道臣命が斎主(潔斎して神を祭る役)を務められました同年10月、国見丘の八十梟帥を破り、道臣命は忍坂邑に大きな穴ぐらを作って八十梟帥の残党を誘い込み、全滅させたこれらの武功により、神武天皇2年2月の論功行賞で道臣命は築坂邑に居所と宅地を与えられ、神武天皇の御寵愛を受けられたという大伴氏の起源大伴氏は天孫降臨のさいに天孫ニニギノミコトとともに天下りされた天忍日命(あめのおしひのみこと)を始祖としている天忍日命とは「天上界の威圧的な霊力」の意で、皇室に早くから従属した有力氏族と考えられてます大伴佐弖比古命(おおとものさでひこのみこと)大伴佐弖比古命・狭手彦命などの表記がされてます道臣命の世の孫にあたる大伴金村の子と伝えられているんだとか金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明天皇の5代に仕えた大連で、継体天皇の御即位を実現させた忠臣として知られてます『日本書紀』によると、宣化天皇2年(537年)10月1日に、新羅の任那侵略をうけて大伴金村の子磐と狭手彦命に任那救助の勅命が下される磐は三韓防衛のため筑紫にとどまり、狭手彦命が任那を鎮められ、また百済を救済された。さらに欽明天皇23年(562年)8月には大将軍として数万人の軍を率いて高麗を討たれ、多くの宝物を天皇に献上社の言い伝えによると、これらの武功により、岡の里を賜ったとされてますちなみに『肥前風土記』や『万葉集』には、狭手彦命の悲恋が伝えられているんよ狭手彦命は高麗出兵の前にとどまった松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女オトヒメ(『万葉集』では松浦サヨヒメ)と結婚高麗出兵のための別れにさいし、狭手彦命は餞別として鏡をお贈りにしかしオトヒメは悲しみに耐えられず、岬の先で狭手彦命の船にむかって手を振り続けたこのときに餞別の鏡が落ちたというこのことから、その岬を袖振の峰、鏡の落ちた地名を鏡と呼ぶようになったとかこの悲恋は人々の琴線に触れ、『万葉集』に以下の和歌が伝えられています遠つ人松浦佐用比賣夫恋に領巾振りしより負へる山の名山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山の上に領巾振りけむ萬代に語り継げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用比賣海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣行く船を振り留めかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用比賣(万葉集 巻五より)ご利益出世・開運狛犬ここの狛犬も厳ついね小林稲荷神社御祭神:宇賀魂命稲荷社御祭神:宇賀魂命弁財天社御祭神:市杵島姫命春日社御祭神:建甕槌命・伊波比主命・天児屋根命・比売命弁財天社は元々は天嬪山(和歌山市岡公園内天妃山、別名・弁財天山)に祀られていましたが、和歌山城築城の際、城を見下ろす位置にあったため当地に遷座されたんだとかその後、明治になって元の天嬪山に再興されています天満社御祭神:菅原道真公祓戸社御祭神:瀬織津姫命・速秋津姫命・伊吹戸主命 ・速佐須良姫命楠龍発達社御祭神:楠龍発達大神大黒社御祭神:大己貴命〈大国主命〉大己貴命(大国主命・大黒さま)この神社は、ある時代まで御祭神とされた大己貴命をお祀りしています当神社は奈良時代からこの地に鎮座していますが、度重なる戦乱に遭い南北朝時代には社殿・神宝を悉く散逸してしまいましたその後嘉吉年間(一四四一~一四四三)に氏子らの手によって再興されましたが、神名さえも失われていたため、岡の地にある「岡の宮」と称し崇敬したそうです境内にある多くの末社は、その当時民間で信仰されていた神々を持ち寄って祀った跡と考えられます人々は多くの神々を祀り、国を守る神社の意味をこめて「国主神社」と呼ぶようになりましたここから大国主命を祭神とする伝承が生まれたようですその後、和歌山城の氏神として城主の崇敬をうけ、多くの寄進、修造が施されたんやってその修造のさい、境内から「刺田比古神」と刻まれた神宝が見つかり、『延喜式』に載せられた古社であると判明しましたそして元禄年間に、本来の社名「刺田比古神社」に戻し、大伴道臣命、大伴佐氐比古命を祀る神社と改められたそうですしかしながら、江戸試合の書物『紀州名勝志』などには、大己貴命を合祀したともあり、ある時代には大国主命を祭神としてお祀りしていたこと間違いないようです竹のオブジェ中に電球を入れるみたいになってました夜…見てみたいなぁ大物主命御祭神:大物主命金毘羅社御祭神:宇須売命稲荷社 御祭神:宇賀魂命神馬この神馬は八代将軍 徳川吉宗公から寄進された白馬をかたどったものとか正徳六年 紀州和歌山城主であった徳川吉宗公は将軍に就任のしらせを受けます享保六年 吉宗公は将軍就任の感謝をこめ、産土神である当社に黄金装飾の太刀と神馬を寄進されたんだとかこの神馬は吉宗公の最初の任地越前国鯖江産の名馬で、吉宗公が幼少からかわいがっていた一頭だったといいます吉宗公の拾い親でもあった神主の岡本周防守長諄は、この神馬を大切にしました神馬が天寿をまっとうした後 この馬をしのんで面影を木彫の像に刻み、社頭の厩に納めたと伝えられます昭和二十年の戦災により、当社は社殿や宝物を焼失しましたが、この神馬だけは焼失をまぬがれましたこのことから開運・厄除の神馬として以前にもまして人々の崇敬を集めています平成八年に現在の姿に修復したんやってご利益交通安全・開運厄除・出世開運吉宗公の社領寄進状吉宗公の直筆なんやって通常御城印ですめちゃご年配の神主さん…字に愛嬌を感じますね月替わりの見開き御朱印能登復興特別御朱印小学校6年の女児が描いた能登の海岸の絵に大伴家持が能登の美しさを詠んだ歌を書いた御朱印なんよ奉納料は500円で、収益は全額被災地へ寄付されてるんですって岡公園にある紀州徳川神社に1989年(平成元年)に徳川昌子(株式会社徳川)、今村勇により創建されたと境内の石碑より推測できるが、それ以外の由緒は一切不明社号標の横に「八大龍王(はちだいりゅうおう)」と書かれてあったり、石の仏像などが置かれていましたので、神仏習合の影響の強い神社ではないかな「八大龍王」は仏法を守護する八体の龍王(龍神)で、水神や雨をつかさどる神とされているそうです木蓮モクレンの花言葉は「自然への愛」「崇高」「持続性」ですモクレンは必ず、上に向いて花を咲かせますその様子が、自然や空に春がきて花を咲かせることができる喜びを歌っているようにみえるため「自然への愛」という花言葉がつけられましたモクレンという名前は、蓮の花の形に似ているのが理由とか「崇高」という花言葉は、蓮の花が仏教の中では崇高な花とされているのが由来となっていますモクレンは地球に恐竜がいた時代から自生していたことが地層から発見されてるんだとか人間が誕生する前から生き抜いてきたことから「持続性」という花言葉がつけられましたスターダスト☆レビューの木蘭の涙・・・歌詞が大好きで昔…よく歌ったなぁ・・・可愛いおじいちゃん…って感じの弘法大師様顔…でかくない?陸奥宗光像明治百年記念事業として、昭和46年8月24日、この岡公園に建立天保15年(弘化元年)7月7日本市に生まれた陸奥宗光伯は、外務大臣として明治21年に日本とメキシコの間に初めての平等条約を結びました同条約改正を糸口に、幕末以来不平等条約を交わしていた欧米露諸列強十五ヵ国すべてとの不平等条約を改正し、外務大臣として尽力した勲功により伯爵の位と旭日大綬章を授かりました明治時代の日本外交の一大難局を乗り越えた陸奥宗光伯の才腕は「剃刀(カミソリ)大臣」と言われ、今も語り継がれています蒸気機関車「C57119」昭和14年11月12日に完成し、大阪や鹿児島などを廻り、昭和34年5月8日和歌山機関区に配属となったC57形蒸気機関車を展示してましたぁ紀勢線(当時の紀勢西線)と和歌山線を延べ917,369.2kmにわたって走り続け、昭和47年3月14日に役目を終えました初走行からの総走行距離は2,564,698.8kmで、これは地球の赤道を60回以上廻った距離に値するやって市街電車321形321号昭和38年に完成し、廃線まで活躍した市街電車岡公園には、日立製作所笠戸工場(山口県)で製造された7両のうち1両が保存されてました鋼鉄製車体の定員80名(着席定員32名)と当時としては大型の車両で、コイルバネ式の台車を使用しているため、乗り心地はよかったそう廃線後、ほとんどの車両が処分されたため、現存するのは、海南市室山団地の公園内にある321形322号とこの車両のみとなってるんやって弁財天社(別名 弁財天山)を守る神様として人々に崇敬市杵島姫命はとがでをした時に天照大神の息からした神で、とともに三女神と呼ばれ、古くから航海安全の神として信仰されました古地図を見ると、天妃山を含む岡の里、現在和歌山城虎伏山などを除き、和歌山市内の大部分が海やったとかおそらく海上交通の盛んな岬にあった航海安全の古社だったんやね天正十三年(一五八二)豊臣氏が紀伊国を統一し、和歌山城を建てた。築城のさい、弁財天社は城を見下ろす位置にあることを忌み、和歌山城の鎮護社でもあった刺田比古神社(岡の宮)の境内に遷座現在も境内末社として祀られています和歌山県和歌山市片岡町2-9南海線和歌山市駅から歩いて10分くらいの所にある1953年(昭和28年)創業の老舗食堂 山為食堂さん和歌山に来たからには和歌山ラーメンを食せばと・・・元々はうどんやそばを提供する食堂としてスタートしたが、途中から中華そば(和歌山ラーメン)の提供を始め、徐々にラーメンの方が人気になったそうなんよ現在は和歌山ラーメン屈指の人気店として平日でも行列ができるほどです和歌山ラーメンは豚骨醤油スープにストレートの細麺、具は豚バラのチャーシューとメンマ、青ネギ、ナルトではなくかまぼこがトッピングされるのが特徴地元では「ラーメン」と呼ぶより「中華そば」と呼ぶ方が親しまれているんですチャーシューメン 1250円和歌山ラーメンは大きく分けて、澄んだ醤油スープの「車庫前系」と白濁した濃厚な豚骨スープの「井出系」の二つに大別されるんですって昭和初期に当時繁華街だった路面電車の南海和歌山軌道線の車庫前駅の周辺に中華そばの屋台が多く集まり、中でも「丸高(〇髙)」という屋台のラーメンが人気を集め、他の屋台も「〇髙」の味を模倣するようになっていった。この系統が「車庫前系」と呼ばれました全国的な知名度が高い「井出商店」も、創業当時は「車庫前系」と呼ばれる澄んだ豚骨醤油スープだったが、あるとき閉店間際の煮詰まったスープを飲んでみたところ、まろやかでコクがあって美味しかったので、最初から豚骨を長時間炊いて、脂とスープを乳化させたこってりしたスープに切り替えたところ、他にはない味わいで人気店となったんやって1998年元日に放送されたTVチャンピオン「日本一うまいラーメン決定戦」で「井出商店」が優勝したことで、和歌山ラーメンの存在が一気に全国区で知られるようにそのため、他県民には和歌山ラーメンというと「井出系」の黄土色のこってりした豚骨醤油スープをイメージする人が多いが、現地では「井出系」は少数派になるんだとかこちらの山為食堂は「車庫前系」にも「井出系」にも属さない独特な立ち位置スープの材料となる豚骨は、落として商品になってから1ヶ月~2ヶ月の新しい国産豚骨にこだわり、羽釜で2日間かけて炊いてるんですまったりした濃厚な口当たりと、粉砕された豚骨ガラの骨粉のざらつきも残る舌触りで、他の和歌山ラーメンとは一線を画した独自の味わいを作り出してましたラーメンのスープを炊くのに「寸胴」と呼ばれる大きな深鍋を使うお店が多いが、老舗ではこちらのように羽釜を使っているケースも羽釜の場合は、かまどをしっかりと組んでそこに羽釜をはめ込むため、熱効率が良くエネルギーロスが少ないのが利点なんやってさらに底部が平たい寸胴と異なり、羽釜の場合は底部が半球状になっているため、釜の中での対流が起こりやすく、グツグツ煮込んだ濃厚なスープを取っても、臭みが飛びやすいという構造上の利点もあるんだとか麺はストレートの太麺でもっちりしたコシのある食感細麺に変更することもできるんよ和歌山市内にある寿麺業合同会社より仕入れているそうですトッピングはチャーシュー、かまぼこ、青ネギ紅白の渦巻き模様のかまぼこは「千代巻」という紀州名物のかまぼこで和歌山ラーメンのお店でナルトの代わりにトッピングされることが多いんやってホロホロに煮込んだ豚バラ肉のチャーシューは味がしっかり染み込んでライスのお供にもぴったりほとんどのお客さんが中華そばと一緒にライスを注文するのも納得やね漬物は和歌山名産の「紀ノ川漬け」(たくあん)で、濃厚なスープをさっぱりとリセットしてくれる名脇役ですよ和歌山市駅から550m和歌山県和歌山市福町12

    たくさん共感されています

    刺田比古神社   (和歌山県  和歌山市)
  9. パンジー、ビオラからサフィニアへ。ガクアジサイも花をつけ始め…
  10. 下野市 天平の花まつり 2024.04.19 八重桜見頃
  11. GW3日目の探鳥。今日も近場をぐるぐる・・・。朝はタートの散歩を兼ねてため池へ夜露で草が濡れていたのでタートもびしょびしょになってしまった・・・スギナについた水滴はお気に入りアイテムのひとつカタツムリエナガの撮影はむずかしい・・・ベンチで休憩中のタート息子とタート実はこんなに小さいんだよ小さなカエル、みーつけたあれ?全然探鳥じゃないじゃん・・・河口でやっと探鳥開始!メダイチドリが3羽いた。なんか長いものを引っ張り出しているよ~きれいな青い眼元の婚姻色のダイサギ天気が悪くてきれいな青に撮れなかったけど・・・遠くのテトラにチュウシャクシギが・・・。近づくと逃げてしまうのでこんな遠くから撮るしかなかった遠いなぁ・・・チュウシャクシギの飛翔っていうか、近付き過ぎてやっぱり飛ばしてしまった昼食は『ことりカフェ』のオムライスランチデミグラスソースもいい味だったし、色々小鉢が付いてて美味しかった最後はキビタキ。やっとまともな姿を捉えることが出来たよ~きれいな声で鳴いていたこの後、天気予報通りにぽつぽつ雨が降り出して撤収息子の帰省のお土産は出張先の長崎で買ってきたカステラ今日の歩数は、8,574歩。雨で早々に撤収したらか伸びなかったなぁ・・・

    GW3日目の探鳥
  12. まだ 4月なのに・・・暑い 暑いばかりで、すみません。真夏でも 涼しい 山荘で 生活していると、このところの 下界の 夏の 暑さは考えられない暑さですが、まだ 4月なのに・・・* 不手際で、前日(4/29)の記事を消してしまいました。いいね!  コメントを下さった方、スミマセン !!4/29 の記事では、地元の[藤まつり]の前日で、藤のお花を見て歩きました。普段は、山荘生活なので [藤まつり]なんて、何年ぶりでしょう。待ち合わせていた、次女を 駅で拾ってランチでした。その後は いつもの あちこちお買い物でした。(笑)次女が帰った翌日・・・ ↓[山荘長期滞在仕様]の、“雑草対策” で コンクリートになって、植物もずいぶん減ってしまった 狭いお庭ですが・・・普段 誰もいない 家でも 季節が変わると、お庭の お花も変わります♪ちょうど[みかん]の花が咲いていて、早いものはもう小さな実になっています♪辺りに、とっても イ〜イ香りが漂っています♪ ↓[みかん]といえば・・・もうずいぶん前に、[信州りんご]が生っているのが とてもキレイで 写真を撮っていると、信州 上田市在住の友人が「りんごなんて、珍しくも無い・・・」と言うので「埼玉には、みかんの木は たくさんあるけど、りんごの木は無いから珍しいのよ♪」すると友人が「みかんが木に生っているのは、見たことが無い・・・」と。(笑) 埼玉県の 自宅界隈では、冬の彩りとしてもキレイなので、みかん・ユズ・キンカン 等の[柑橘類]の木は、住宅街のお庭に よく植えられていて、珍しく無いのです。もちろん、りんごの木は無いです。(笑)もう、かなり葉が茂った 終わりの[八重枝垂れ桜]のお花が、少しだけ残っていました。 ↓花柄は、全部キレイに取ってサッパリしました。大株になった[オダマキ]の花数がスゴいです。 これも、だいぶ種になって 終わり際です。 ↓バラの蕾が だいぶ大きくなって、少し 色付いてきました。 以前は、64種類あった お庭のバラは、山荘に長期滞在をするようになって、この1種類だけ残して(たまたま残っている) 全て処分しました。咲いたところを 見たいですねぇ~。↓[ジャーマンアイリス]は、存在感が(大)です。 ↓オリーブ にも蕾が たくさん。 ↓埼玉の自宅へは、又 しばらく来ないので、全体を 短く・小さく切り詰めます。 ↓又々、お庭のゴミが出たので、翌日 ゴミを捨ててから 山荘へ帰ります。

    埼玉:[みかん]の花咲く お庭・・♪ 
  13. 奄美大島ビッグツーでお買い物 銀座のママのGW✨鹿児島(奄美大島)・宮崎・LA
  14. 今年の5月は、冷たい雨降る、寒い一日として始まりました。タンスの整理を兼ねて、もう着る予定がない半袖シャツ等を、リユースショップに売りに行きました。全部で8点。その内、1点は、値札(約¥5000)が付いたまま。つまり一度も着ていない、お出かけ用の白いブラウス。他のも、着たのは、ほぼ一回位という、ぱっと見真っ新、きれいな状態の物。まあ、全部で100円位になれば「御の字」と思っていたのに・・・・なんと、たったの8円古いので「エコ買取=海外で再利用、再資源化」とのこと。現実は、甘くはなかった。 バス代の足しにもならなかった認識の甘さに、泣く泣く重い足取りで、コメダにランチに。お兄さんがテーブルに並べてくれた昼コメプレートは、置き方が、上下逆さまでしたサンドイッチが、あっち向いている状態ヘンだと思わないのかな~ 私には、一目見てオカシイのに。外に出たら、思った以上の寒さ身も心も震えました帰宅後、携帯にお知らせが~"Fantasy on Ice 2024"羽生君を始め、城田優さん等、そうそうたるメンバー私、ステファン・ランビエルも大ファンなのですこれは、是非、見に行かなくちゃ今回も、映画館でライブビューイングをやるというので、さっそく抽選に申し込みましたそして、5/11(土)のMusic Fairには、「レミゼ」でマリウスを演じた、山崎育三郎さんと、海宝直人さんらが登場すると5/3(金)からは、BS11で「ホテリアー」が始まるし、悲しい事ですが、「徹子の部屋」では、先日亡くなられた、あの桂由美さんのお姿を。「亡くなる4日前に収録した、桂由美さんの在りし日の姿をお送りします」とのことです。

  15. 今日はママ友とお茶
  16. 昨日、斗蔵山に行きましたのは埋金法の実践でした!埋金とは土の中に埋めて、隠しておく金「うずみがね」の事で基本、地下埋金ですわたしが最初にこれを知りましたのは台湾出身の、今は亡き開運ハーリーさんでした開運ハーリーさんの場合皆様が購入した埋金セットを送付していましたが中には「自分では実行できない」という方がおりその方に関してはハーリーさんが埋金するという方式を採っていました埋金を始められた年は東南方向でわたしの住む宮城県は、地図でわかります通り湾がえぐれており距離がありませんでしたですのでハーリーさんにお願いしていましたが待てよ!この埋金は、自分の足を運び実行しなければ埋金した方位が自宅から、違ってしまう!そう思い、翌年から距離が採れましたので自分で実行することにしました埋金法は、九星気学で実行される方の生年月日からその年の最高日を割り出し埋めるものです開運ハーリーさん亡き後たまたま岐阜県の風水堂、岩津先生と知り合いになりまして先生から毎年、埋金セットを購入して実行しました||| 風水堂 |||feng-shui88.jp岩津先生は風水鑑定で現在、テレビやラジオにご出演もされていらっしゃいます「イヤシロチ開運法」でも有名なんですサイトでご覧くださいこの先生のセミナーには通わせていただきましたもし、埋金法を実行されてみたい方はお問い合わせフォームからお聞きください埋金の鑑定とセットは50、500円ですまた、ネットでは「まいきん堂」というサイトがありましてまいきん堂- 埋金オンラインショップあなたの運命は今からでも変えられます。 中国最古の秘術が導く、幸せへのステップ。それが最強の開運法 『 埋金 ( まいきん ) 』です!貴方がご自身の宿命運を知って開運法を行うことにより、後天的に運勢を発展・開運にしていく事が大切です。埋金を通じて皆様にご加護がありますように。まいきん鑑定士 岡 美秀maikin.jp鑑定料とセットで20、000円ですどちらにお願いするかは皆様の判断にお任せいたしますただし埋金法はその方のその日の、その方位のその埋める時刻内に必ず、山に行き埋めてくる事です毎日、お伝えしています「八雲院」さんでその日の埋める時間の前の時刻で家を出てその場所に行き山に入って、埋める時間に埋めてきますですから準備は必ず、必要です庭で使うようなハンディースコップや軍手など持っていかねばなりませんしその日まで、まだ時間がありましたら必ず、その場所に一度行きまして目星をつけてくることも大事なことです(行き当たりばったりだとどこにしようか迷い、時間内にできなくなるから)今回、お願いするのが遅れ急な実行でしたが地図を見てピンときました行き当たりばったりでした例えばその日が、平日で仕事の関係で出かける事ができなければ実行は無理です休みを採らねばなりませんしその日がたまたま身内が亡くなったなど忌日がありますとやはり、実行できません購入したはいいけどその日に実行できるかはこれまた運であり、縁なのです鑑定とセットの料金が格安であればこの値上がりの世の中ありがたい事ですがどちらにお願いするかは皆様のお考え次第わたしが、なぜ岩津先生にお願いしようかと思いましたのはその埋金の仕方にあったからなんです非常に簡素化しており開運ハーリーさんと似ておりわたしの思うところの考えと同じだったからなんですただし、高価です🤣💦だからこそ「寅の日お財布さまの感謝祭」お財布さまの整理整頓でお財布さまの中身のうち少しずつ貯めて毎年の埋金に備えたからなんですたぶん、皆様は貯蓄の意味で貯められていたと思いますがわたしは「埋金の備え」のためだったんですだから、岩津先生にお願いしていたんです埋金セットを販売される方はその鑑定に関しては間違いはないと思いますのでどちらにお願いするかは皆様のご判断です今回、わたしの方位は自宅から角田市の斗蔵山にありました柴田町にある、仙台大学角田市に入りますと角田宇宙センターがありここから、展示室に行けますブレました~シラサギが横切り滝のようなヤマフジこれが、斗蔵山です道なりにどんどん入りますと駐車場があります駐車場から霊験の道を歩きます山道は、枯葉の堆積場所もありスポーツシューズトレッキングシューズでお越しください私の大好きなイカリソウの花も咲いてましたマムシグサチゴユリ振り返り近道の道は、かなりな急登下を行きます延齢草石段を選ぶか、緩やかに周るか主人は、周りたいということで野球膝なのでチゴユリの花右に折れて登ります斗蔵山神社、斗蔵寺です山フキ原種の山フキ白いタンポポと日本タンポポご住職さんが教えてくださいましたありがとうございますまずは、斗蔵山神社につづく斗蔵山に決めた理由斗ー 一升の10倍、闘う勝負を競う、寄せ集めるの意暦では、動土大吉寄せ集めたものを蔵(ぞう)する山埋金する時は地名とか、名前とか深読みするといいと思います

    斗蔵山登山① 実は【埋金法の実行】でした!
  17. 雨だと、お出掛け意欲も失せます。キレイな景色が見られないから。ここは、どこへ行くにも 美しい景色が もれなく付いてくる所なのです。1日中 雨で、 気温も低いです。とは言え、これでも今年は気温が高めです !!  例年は、4月末まで雪が降る 北軽井沢・嬬恋界隈ですから。 ↓山荘前の道路。 ↓傘をさして、お庭を歩きます。 全体的には、まだ冬景色のようですが・・・よく見ると、お庭に 小さな新芽が出始めています。大好きな “芽吹きの季節” がやって来ました♪  ↓ ↑ タラの芽が、日毎に大きくなるようです。お庭に 何種類かある、モミジの 一番大きな【新芽】です♪ ↓雨に濡れた、大好きな[苔]がとてもキレイです♪ ↓テラスの手すりに、埼玉の自宅から持って来た、お庭で摘んだ パセリ・ミント・サラダ菜を、飾りながら食べていますが・・・ 枯れ葉ばかりの中で、違和感があるくらいの 鮮やかな[緑]です。(笑)  ↓数日前、《火鉢》で[大豆]を煮た時に[小豆]も煮ました。 ↓途中で、色々に 分けます。ぜんざい用・トーストに乗せる用・ 多めの煮汁と小豆は 寒天で固めて デザート用に♪ブランチに[粟餅]を焼いた “ぜんざい” です。 ↓近くに 別荘をお持ちの Nさんから、電話です。「チョッと寄らせてもらってイイ?」とのことです。今年、初めてお会いする Nさんは、昨年 やっちゃんの ブログに反応して、声を掛けてくれてからのお付き合いです♪今、山荘に滞在中に、お友達 付き合いを させて頂いている “ほぼ全員の方” が、〈やっちゃんのブログに反応して〉先方から声をかけて下さった方々です。 (軽井沢の両親みたいな友人たち・上田市在住の音楽家の友人 以外 )電話を切ってから、しばらくしてみえました。お元気で、良かったです♪小豆と、小豆の煮汁を 寒天で固めた[水羊羹]的な。生クリームとフルーツで、チョッと オシャレしました♪ ↓甘さを かなり控えてあるので「あまり甘くなくて、美味しい♪」と。自分で煮ると、こういう加減が出来るのです♪お部屋は 20℃に暖房していて、コタツがあるので、暖かいです♪足を温めていると、身体全体が暖まります♪昔から《頭寒足熱》って言いますからね。少し冷える こんな日は、ポットウォーマー にポットを載せて。楽しい おしゃべりタイムでした♪Nさん、今年もよろしくね♪ここでは、[春]が新年のご挨拶です。

    山荘: 【芽吹き】の季節 ・ Nさん 今年もよろしくね・・♪
  18. 【2】より続く。そう、現場ではとっくに気づいてた。あそこに見えるは…そう、先日ご紹介したシュールレアリスティックな盆栽である。こんなとこにいたんですな。彼(彼女?)が鎮座してる場所の奥にはささやかな砂防堰堤があって、「昭和52年度 治山施設 滋賀県造林課」という銘板があった。この道界隈で具体的な年代を示すものを見たのは、結果的にここだけだった。で、この写真。先般の記事では使わずにあえて温存しといたんだが、これ、この日撮った写真の中で一番気に入ったな~。さて、進軍再開。「変な道」は、ここへきてにわかに、根期の入った廃道の様相を呈し始めた。しかしながら、歩くのには全く問題なし。コンディションは上々だ。この辺で現在位置を確認してみたら…ちょうど真ん中あたり…いや、真ん中は過ぎたかな?ここで初めて見つけたのが、路肩のコンクリ遺構。排水溝ではないかと思われるが、それにしちゃちょっと幅広すぎか?ではしばし、写真のみで。状態に細かいグラデーションを繰り返しつつ、車道幅員だけはずっと確保された路盤。果たしてこの道は、いつ頃まで車を通していたんだろうか。【4】に続く。

    比叡平への最短ルート車道訪問記【3】(滋賀県大津市山上町~京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町)
  19. 伊東市(A001)のマンホールカード配布場所
  20. 1/700巡視船れいめい