1/12の記事ランキング

  1. oの、「14系客車座席車) 」(旧製品 / 品番5036、5037、5038)です。14系特急形客車(座席車)は波動輸送対応の車両として、12系客車の設計をベースに昭和47年から合計325両が製造されました。14系(座席車・寝台車)以外に、先に登場した12系客車との併結可能な構造となっています。車両構成は同時期に登場した183系特急形電車と同様に簡易リクライニングシートとなり、レジャー客対策で車端に大型荷物置場が設置、両端2ヵ所に乗降ドアが設置されました。臨時列車として「つばさ」「踊り子」等の特急運用で活躍し、後に定期運用で「雲仙」「西海」「津軽」等の夜行急行でも運用されました。2編成保有してたんですが、katoからリニューアルのJR仕様が出た時に国鉄形も出ると信じて処分してしまいました、😢最後の保有車両です。走行シーン。旧仕様ですが、こうして見ると、今でもなかなかいいですよね~。前方より。上空より。規則正しく並ぶ冷房装着、実車の雰囲気が伝わってきます。元々製品のライトは麦電球ですが、LED化改造してます。15年ほど前に自分でしましたが、特別器用ではないのでとてもしんどかったです。🙊妻面の台車周りは何もないのが辛いところですね~。「オハフ15 10」。低い屋根に天地狭い横長窓が並ぶ姿、特急形って感じがしてカッコいいです。連結面の眺め、雰囲気出てて実感が湧きますね~。車体側面を斜めから眺めて。いい感じです。「オハ14 9」オハフのテールを眺めます。反対側から。「スハフ14 13」。発電機関付きの緩急車です。上方より。緩急車の並び。カッコいいです。緩急車同士の連結面を。いい感じですね~。14系座席車は、周遊券で高校時代に1人で一週間鉄道旅に出かけた時に、急行「津軽」で乗車した経験があります。スハフのサウンドがうるさく驚いたのを憶えています。お盆の時期で、席を取るために上野駅ホームで確か15時頃から自由席に並んだ記憶があります。記憶にないですが、トイレとか、どうしてたんでしょうねぇ~。それから、今ではリクライニングか当たり前ですが、あの当時は簡易リクライニングでも嬉しかったですね~、「おっ、後ろに倒れるぞ」、って。色々と記憶を辿ってみましたが、私が14系座席車に乗ったのは、これ1回きりだったようです。14系座席車で設定されていた、臨時の急行「銀河」なんかも乗ってみたかったですね~。ではでは、オケタ模型でした。KATO Nゲージ オハ14 5036 鉄道模型 客車Amazon(アマゾン)2,320〜3,178円KATO 14系客車 5036・5037・5038 10両セット QPWFAmazon(アマゾン)36,190円KATO 5037 スハフ14 + 5038 オハフ15 2両おまとめセット (その1)14系座席車テールライト点灯OKAmazon(アマゾン)7,300円KATO Nゲージ オハフ15 JR仕様 5284-A 鉄道模型 客車Amazon(アマゾン)3,480〜3,580円KATO Nゲージ 14系500番台 寝台急行「まりも/大雪/利尻」7両セット 10-1953 鉄道模型 客車Amazon(アマゾン)15,399〜22,000円KATO 101438 14系 能登 JR仕様 8両セットAmazon(アマゾン)28,820円

    KATO  14系客車(座席車) 入線‼️  (旧製品 / 品番5036、5037、5038)
  2. 売されている、12座席車のスハフ12-100 前期型単品です。このスハフ12の購入、最新仕様の12系へ一気にリニューアル増備かというと、そんなことは全くなく、うちにある旧製品の12系を何とか最新仕様に近づけるためのお試し要素の強い導入だったりします。ちなみにうちの12系、ご覧の通り旧製品の単品をかき集め12両としています。そして、まずやったのは旧製品と最新仕様製品との比較。パッと見は、画面手前(並んで左側)の最新仕様と画面奥(並んで右側)の旧製品では、あまり差が感じられないのですが、よくよく見ていくと、かなり差があり、旧製品12両の最新仕様化(出来る範囲での)はなかなか険しい道のりだったりします。〇最新仕様(画面下)では、ディーゼルエンジン部パーツをグレーに着色している。〇最新仕様(手前)では、床下、座席を表現している室内パーツはブルーですが、旧製品では白色。また、旧製品ではテールランプ点灯用の遮光パーツが馬鹿でかく、それによって十分な座席が確保出来ていないことがよく分かります。〇床下パーツも、最新仕様では車体マウントのカプラーとなり、旧製品の台車マウントからはだいぶ進化したイメージがあります。〇屋上のクーラーも細部がより良く表現されています。〇室内パーツはご覧の通り、新製品はブルー1色、旧製品は白色1色となります。うちの12系の様に室内灯を取り付けた場合は、編成美という観点では、少し統一感が無くなりそうです。〇テールランプおよびそのまま遮光パーツも、新製品ではLED、旧製品では電球となるため、その大きさは比較しようが無いほどの差になっています。そんな感じで、パッと見の違いは少ないものの、ひとつひとつ見ていくと、流石に製品進化の過程で更新されたものも多く、どうやって旧製品を最新仕様に近づけるかは、少し悩みどころではあります。最後に、今回試験的に導入した、最新仕様のスハフ12-100ですが、単品の割には付属品が多く、ちょっとだけカスタマイズが出来る印象です。最新仕様の吊るし状態でも、旧製品の状態でも、スハフの最後尾側のスカスカ感は、ちょっと寂しいものがありますので、幌やジャンパ栓を取り付けて、最後尾を賑やかにしたいと思います。

    KATO スハフ12単品購入~12系旧製品の生け贄?~
  3. 2025年最初の乗り鉄として企画した最北端から最東端へを目指す旅も3日目を迎え、いよいよ最終日となりました。今回はその1月3日の旅をまとめて紹介致します。やたら長い記事となりますが、最後までお読み頂ければ幸いです。1月3日この日は4時半頃に起床、身支度を済ませ6:15頃にホテルをチェックアウトし、網走駅へ向かいます。前夜に降っていた雪は止んでいましたが、その代わり放射冷却でかなり冷え込んでいました。多分-10℃弱位でしょうか。前回の記事でも紹介した通り、早朝夜間は無人駅扱いとなった網走駅。6:39発の釧路行4723Dはまだ入線していませんが、H100形につき座席の争奪戦になるため早々と改札を抜けて2番線ホームへ。1番線ホームに停車中だった石北本線の西留辺蘂行4652D。H100形の3連ですが、中間に石北線ラッピング車のH100-80が入っていました。この列車で愛し野駅に行くという中国人女性3人組が、切符の買い方がわからないと私に尋ねてきたので、代わりに券売機の操作をしてあげたのでした。駅名の響きに惹かれての訪問なのでしょうか。4622Dが発車して数分後、2番線に釧網本線4723Dとなる車両が入線。この列車に電子閉塞用の車載器を届けに来た助役さんが「おはようございます!」と私に挨拶してくれました。何て感じのいい社員なんだ…と感心する事しきり。準備が整い、ドア開閉ボタンが点灯、件の助役さんが「お待たせしました」のお声掛けをしてくださいました。他に待っている乗客はなく、私が一番に乗り込みますが、程なく席が少しずつ埋まっていきます。少ないBOX席は1人1席座る程度で、ロングシートを含めても網走からの乗客は10数名程度と意外に少なかったです。今回乗車したのは、昨年新製されたばかりのH100-97。H100形の中でも現時点で最新グループとなる4両の中の1両です。H100形や快速エアポート用の733系uシート車もそうですが、コートフックがないのは寒冷地仕様車として不便ですね。そのため、私はダイソーで買った吸盤フックを持ち歩いています。網走駅を発車、市街地を進み桂台駅を経て網走トンネルを抜けると、進行左側には網走の港とオホーツク海が車窓に広がります。やがて列車は『オホーツク海に一番近い駅』北浜駅に停車。北浜駅を過ぎると一旦オホーツク海からは離れ、進行右側には涛沸湖と藻琴山が見えてきます。そして枯草が広がる小清水原生花園の中を走り、知床連山がその向こうに見えてきます。浜小清水駅では知床斜里発北見行の4722Dと交換。早朝の列車のため乗客は数名のみ。やがて斜里岳の山裾から朝日が昇る…。ここで朝食タイム。前日稚内駅ナカのセコマで買ったオカズと、旭川駅でらんちゃん女史から戴いたセブンの炒飯おにぎりを食べました。東横インでの無料朝食は6:30~なので、早朝の列車に乗る場合ソレに在りつく事ができないのです。止別駅から先は再びオホーツク海沿いを走行。やがてオホーツク海と別れ、斜里川を渡ると知床斜里駅に到着。4分停車の間に、緑発北見行4724Dが3番線に到着します。この列車は旭アサ車の運用で、キハ40形時代の2023年末に青春18きっぷを利用して全区間乗りました。その時のブログはコチラ。知床斜里駅を出発、右へ大きくカーブして南下します。そして進行左側には知床連山の海別(うなべつ)岳と斜里岳が見えてきますが…山頂が雲に隠れてしまっているのが残念。やがて列車は網走管内最後の駅となる緑駅に到着。当駅はJR北海道が廃止を検討(または決定)している42駅の中の1つですが、2025年3月ダイヤ改正以降は所在する清里町による管理として存続する事になりました。釧網本線最大の難所である釧北峠を越え、釧路管内に入り川湯温泉駅では釧路からの始発列車である4726Dと交換。寝不足につき途中ウトウト…しながら過ごしている間、摩周駅や標茶駅から乗客が増えてきます。そして『丹頂鶴の来る駅』として有名な茅沼駅に停車。この駅も廃駅候補42駅の1つ…。果たして当駅の運命は如何に?列車は釧路湿原国立公園内を走行、車窓左側には結氷したシラルトロ湖が見えてきます。そして『くしろ湿原ノロッコ号』の終着駅である塘路駅に停車。ここでは釧路発網走行普通4728D『しれとこ摩周号』と交換しますが、車両は『地球探索鉄道 花咲線』ラッピング車のH100-83でした。コチラは観光客や乗り鉄らで大変混雑しておりました。特急列車の走らない路線にH100形を投入するには座席数の増加や改良が必須だと思いますが…。塘路駅を過ぎると車窓のハイライトである蛇行する釧路川沿いを走行しますが、反対側の左側車窓には枯草が広がる原っぱが。遠くにエゾシカの群れがいるのがわかります。この日は晴天につき放射冷却で冷え込みが厳しく、木々には樹氷が…。釧網本線の起点である東釧路駅に到着、終着・釧路駅まであと1駅です。抜海→東根室の乗車券は当駅が乗換駅ですが、私は終着まで乗車するため予め東釧路→釧路の乗車券を別途購入。釧路川を渡り、10時ちょうどに釧路駅1番線に到着。網走からの3時間余りの旅が終わります。釧路駅の改札を抜けるにあたって、本来ならば『復路専用乗車券』(本来行使する乗車券の経路からハミ出す区間の往復運賃)を購入する必要があるのですが、とりあえず片道の東釧路→釧路の乗車券と抜海→東根室の乗車券をそれぞれ提示。前者は記念に貰うため無効印(「乗車記念 使用済」)が、後者に関しては「東釧路駅下車代」というスタンプがそれぞれ押印されました。1961年建設で道内で最後まで残った民衆駅舎の釧路駅ですが、将来的には高架化が計画されています。果たしていつになる事やら…?さて私は…当駅のみどりの窓口にて『地球探索鉄道花咲線フリーパス』(※この記事執筆時点で販売終了間近…)を購入。コレは本来根室からの帰路用がメインで買ったのですが、根室→釧路の運賃¥2860プラス、抜海→東根室の経路ハミ出し区間となる釧路→東釧路¥200を合わせると¥3060となり、ソレより僅かではありますが¥60安くなるからです。釧路駅から乗車するのは、3629D快速ノサップ。かつては釧路~根室の急行列車の愛称として親しまれたノサップ号ですが、今は下り1本が残るのみ。尚、当列車は東根室駅を通過する唯一の列車であるため、同駅へ向かうために根室からの折返し列車を利用します。快速ノサップも座席の争奪戦が予想されていたため、フリーパスを提示して改札を抜け、早々と2番線ホームへ向かうのですが既に4人程の乗客が乗車位置に並んでいました。入線までまだ30分以上あるのに…。10:49頃、ノサップ号の車両が入線。『流氷物語号』白ラッピング車のキハ54 507でした。釧網本線のH100形置き換え後はキハ54の行先サボの使用をやめて『地球探索鉄道 花咲線』サボとなり、方向幕も白幕になってしまいました。10:56、札幌からの一番列車である4001Dおおぞら1号が1番線に到着。ノサップ号の車内。この時点で25人程の乗客でしたが、おおぞら1号の乗換客で最終的には50人近くに増えました。尚、私は進行右側で眺めの良い窓1個分の座席を無事確保。11:15、ノサップ号は釧路駅を発車。再び釧路川を渡ります。東釧路駅で釧網本線と別れ、武佐駅を過ぎると原野の中を走行。花咲線もエゾシカの出没が大変多い路線であり、線路上への飛び出しの度に急ブレーキが掛かります。流石に道東の太平洋側は雪が少ない…。「やちぼうず」も頭を出した状態。別保~上尾幌の山間部を抜け、尾幌駅を通過すると周囲が開けてきます。本来馬が放牧されている牧場にはシカの姿が…。コレがホントの馬鹿?門静駅を通過すると車窓のハイライト、厚岸湾と大黒島が見えてきます。そして厚岸駅に到着。ここで半分程の乗客が下車。厚岸駅を出ると汽水湖である厚岸湖、そして別寒辺牛湿原を見ながら走行します。厚岸の次は茶内駅に停車。当駅では『地球探索鉄道花咲線』ラッピング車のキハ54 521の『快速はなさき』と交換します。茶内の次は浜中駅。ルパンの等身大パネル…だいぶ色褪せてきましたね…。姉別駅を通過、根室市内に入り厚床駅に到着。かつて標津線が分岐した当駅もかつての面影は薄くなり、交換設備が使用停止されて横を向いた出発信号機と転車台跡がわびしい…。別当賀駅を通過し、もう1つの車窓のハイライトである落石海岸沿いを走行します。そして落石駅に到着。落石駅から先は終着・根室駅まで途中駅は全て通過。旧花咲駅付近で、太平洋に浮かぶユルリ島とモユルリ島が見えてきます。ほんの一瞬なのでボンヤリしていると見逃してしまいます(汗)。そして…問題の東根室駅を通過。東根室駅から先は左へと大きくカーブし、1965年に廃線となった根室港(ねむろみなと)駅への貨物支線の築堤が合流してきます。途中シカに邪魔されながらも、ほぼ定刻の13:26に根室駅に到着。この「日本最東端有人の駅」看板も、「日本最東端の駅」に書き換えられるんでしょうね。-0℃を示す気温計。思った程シバレてはいませんでしたが…体感的には寒く感じます。改札を抜けると駅舎内は数十名の折返し列車5630D待ちの客で溢れかえっていました。ここまで混雑していたのを見たのは何年振りだろうか?私は東根室駅に向かうため、列の最後尾に並びます。折返し時間は僅か8分。さっさと撮影を済ませ、乗り込みますがどっちみち次駅で降りるため、デッキに立つ事に。13:34、根室駅を発車してたったの2分で東根室駅に到着。ついに来ました!最終目的地である東根室駅に!やっぱりというか…同業者の方が7人程降りていきました。釧路へと向かっていく5630Dを見送りました。ご存知『日本最東端の駅』東根室駅。そのような駅であるためか、ホーロー製縦型駅名標には「本場の味 サッポロビール」の広告が残っています。ちなみに、私自身が当駅で下車するのは通算4回目(たぶん)となります。しかし…根室方にあったホーロー製縦型駅名標1枚が失われていました。廃駅が近づくと盗りテツ行為が横行するのが常になってしまい、愛好家の一人としてとても残念であると共に、犯人には強い憤りを感じます。根室警察署の「犯人!首を洗って待っトレイン!!」のポスターも掲示されていますが…なかなか捕まらないんですよね。数十年後に犯人が死ねば遺品として出てくるのかも…。さて…「抜海→東根室」の乗車券ですが、フリーパス行使のため(さらに¥200おトク)、回収及び無効印を押されず持ち帰る事ができました。駅名標と一緒に到着証明の写真!他の同業者らはというと、駅から立ち去る方や、はたまた次の列車までの2時間半程寒い中待つという方も…。コチラは駅前にある標柱。駅はなくなっても、墓標のように残るのでしょうね…。最後に駅全景を撮って、東根室駅を後にしました。私はここから徒歩でご当地グルメ『エスカロップ』の食べられるお店へと向かいます。東根室駅に通じる道。ご覧の通り住宅街の中なのですが…結局はクルマ社会の地元に見放されたといえましょうか。地元では、根室駅を最東端の駅としてアピールするための前向きな廃駅と捉えているようですが。駅最寄りにある根室交通のバス停『光洋中学校前』。背後にはその学校が写っています。コチラ側に根室高校があれば…東根室の廃駅も免れたのでしょうが。但しコチラを通るバスの本数は平日1時間に1本程度、休日は1日6本と決して多くはありません。道路の反対側に出て良く見ると…東根室駅への案内看板が立っていました。いずれ撤去されるのだろうか…。根室の市街地へ向かって歩いていると、根室振興局付近にてエゾシカ(全部雌)3頭に間近で出くわしました😲すぐに原っぱへと逃げていきましたが…。鹿は雌が多いため、少子化(少シカ)とは無縁なようで…。日本人の少子化対策として、まず女子を増やさなければ抜本的な解決にならない…というのが私の持論です。東根室駅から40分程歩いたでしょうか。イオン根室店向かいのお目当ての喫茶『どりあん』に到着!お正月だからCLOSEかも…と心配していましたが、開いててヨカッタ!『どりあん』の多彩なメニュー。しかし、調理師不足のため特定の料理には時間が掛かる旨の注意書きもありました。どの業界も人手不足は深刻なのです。バターライスの上にデミグラスソースがけトンカツが載った根室のご当地グルメ『エスカロップ』。旅行中ずっとコンビニ飯ばかりだったので、今年初めてまともな食事に在りつく事ができました。エスカロップを食べ終え、根室駅に一旦向かいますが…。まだ帰りの列車まで充分時間があるため、根室本線の線路終端部まで歩いてみました。昨年4月1日に富良野駅~上落合信号場が廃線となったため、看板がそれまでのモノから差し替えられています。表記されている稚内駅までの営業キロ868.5㎞は函館本線・千歳線・石勝線経由のモノで、今回の旅で使用した網走経由のルートだと788.4㎞(新旭川~旭川及び東釧路~釧路のハミ出し乗車は含まず)と短くなるのです。コチラは前回東根室駅に訪問の2022年7月に撮影した根室本線終端の看板。起点・滝川駅と札幌駅、そして東京駅からの距離が表記されていました。根室駅に戻ってきました。それでも15:57着の5631Dの到着までまだ30分以上あります。頃合いを見計らって、改札口に並びました。5630Dは定時に到着。折返し準備ができ次第、釧路行5632Dの改札が始まります。気温計の表示は-2℃まで下がっていました。この気温計に表記されている隣駅の東根室も…西和田に書き換えられるのでしょうね。帰路に乗車する5632Dの車両は、『流氷物語号』水色ラッピング車のキハ54 508でした。5632Dの車内。流石に5630D程の混雑ではありませんでしたが、乗り鉄の他にUターン客もおり、そこそこの乗車率でした。16:08、根室駅を出発。わずか2分で東根室駅に到着。ホームには6人程の旅人の姿が見えます。この駅名標と『日本最東端の駅』の看板とも見納めになるのか…。残照の中、車窓から見た花咲の港。空には三日月が…🌙冬至を過ぎても16時を過ぎると暗くて車窓も楽しめません。ギリギリの照度で撮影した落石海岸。厚岸から車内は混み始め、私の隣もついに相席に…。これまた途中シカに邪魔されながらも18:45、終着・釧路駅5番線に定時到着しました。札幌へは19:00発の4012Dおおぞら12号で帰る事になります。おおぞら12号の車内。Uターンラッシュでかなり混み合っており、私の隣も始発から終着まで相席(しかも不愛想な男…)。帯広からはほぼ満席という混み具合となりました。いつもガラガラなおおぞら12号ですが、こんなに混んでいる時に乗るのは初めてです。おおぞら12号はえきねっとトクだ値35%割引で乗車。途中、交換列車の遅れと千歳線内先行列車遅れの影響で、終着・札幌駅には定刻の22:59より8分遅れで到着。学園都市線への接続は本来ならば23:08発の649Mですが、おおぞら12号遅れのため接続せず…。結局後続の651Mに乗る事になりました。651Mは721系F-2+735系A-101(→当別)の組み合わせ。廃車が進む721系ですが、最初期の編成はまだ健在のようで。しかし733系の増備に伴って早晩消える運命に?というワケで、4両目のクモハ721-2に乗車、今回の旅を終えました。元旦から2泊3日で敢行した今年初の乗り鉄でしたが、途中天候不良などによる輸送障害に見舞われる事なく、無事行程を完遂でき、抜海と東根室の両駅に最後のお別れができて安堵しています。手元に残った「抜海→東根室」の乗車券は一生の記念になる事でしょう。最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。おわり

    2025年乗り鉄はじめ・最北端から最東端への旅(抜海から東根室への旅)その③
  4. 5 531[新]牽貨物列車 (1984-06-02 品川)※この貨物列車のスジは何だろう?汐留始発ながら東京貨物ターミナル方面へは行かずに品川へ、ここから一時横須賀線下り線に転線して山貨へ入るのかな?EF58 145[宇] 単2033 (1984-06-02 品川)<6月5日>いつもの10番線には高シマの165系来ていました。165系 クモハ165-97[高シマ] (1984-06-05 品川)165系 モハ164-62[高シマ] (1984-06-05 品川)165系 サロ165-6[高シマ] (1984-06-05 品川)※オリジナルの下降式窓の腐食対策でユニット窓に置き換えられ、美観を損ねていた。165系 モハ164-61[高シマ] (1984-06-05 品川)※号車番号より、クモハ165-97とユニットを組んでいたのはこちらの方か。EF58 109[宇] 単2033 (1984-06-05 品川)※165系来客のため待機番線を9番線に変えた?以前も109号機はこのシーンがあったような(デジャヴ)。EF58 122[宇]牽引荷2634レ (1984-06-05 五反田)※再び「エールフランス」とコラボしてしまった。。。<6月9日>EF58 145[宇]牽引荷2634レ (1984-06-09 五反田)※「エールフランス」を避けるべくロングで狙ったら・・・ピンボケ気味。ERWは近眼のせいかロングのピント合わせが得意ではない。(ファインダー上とフィルム上でピントが違っていた気もする・・・今日のオートフォーカスからは隔世の感。)EF62 33[関]牽引荷33レ (1984-06-09 品川)<6月12日>EF58 154[宇] 単2033 (1984-06-12 品川)EF58 151[宇]牽引荷2634レ (1984-06-12 五反田)※この「日の丸写真」もピンボケか!?もう一度品川に戻って、103系 モハ103-36[南シナ] (1984-06-12 品川)※当時品川駅南詰にあった山手線用電留線に待機中の編成より。このような初期形非冷房車がまだ組み込まれていた。103系 サハ103-214[南シナ] (1984-06-12 品川)103系 モハ103-671[南シナ] (1984-06-12 品川)※こちらは冷房車。当時は山手線も京浜東北線も編成中に冷房車・非冷房車が混在している編成が多かったと記憶しているが、意図的な組成だったのか?103系 クハ103-737[南シナ] (1984-06-12 品川)※ATC導入区間の103系は制御車が新しいので、冷房欲しけりゃホーム端で待っていれば良かった(あまり長時間乗ることは無かったが)。クモユニ74005[南コツ]他 (1984-06-12 品川)※嘗て東海道本線の普通列車の大阪寄りに連結され運用されていたクモユニ74であったが、1978年10月に併結運転は終了し、その後この様な荷物専用列車での運用となっていた。そしてこの2年余後には荷物列車は全廃されてしまう。そろそろ品川界隈以外の写真を見てみたいですねー。※※

    たくさん共感されています

    1984年の写真~ゴハチ最終局面⑯
  5. る・・・ そんな時京阪13045-13095が、5番線からディーゼルピットへ。次は、EF210-366。この押太郎は、点検は順調のようです。こちらは5番線から・・・6番線に回りましたね。次はYC1系。107+1107+1109となると、「222番」ユニットも一緒か?あら、2番ピットに置いてけぼりですか?だからか? スイッチャーくんが出しに行ってから・・・「222番」ユニットをシャッフル。そして折り返すときは・・・「222番」ユニットだけが、5番線に入りました。この後南から台車ゴロゴロ。 今日もHB用か?ここでまた押太郎。 今度はEF210-367。こちらのボディチェックは、まだまだ続きます。こちらは2番ピットから・・・これも6番線に回りました。ではここで、今日もよろしくお願いします!スイッチャーくん自ら、後藤くんを持ってきましたが・・・パンタグラフのビニールがやっと外れました!このEF510-317の第一エンド側はどうなのか?こっちも外れました!でもこれからが点検のやり直し。再通電試験から、構内試運転です。いつ再発送になるのか? 動きを見ましょう!今日はディーゼルピットに入りました。おっと! ここで西武40000系。1番ピットの48152Fの通電試験が終わりましたね。2番ピットに移りました。4番線の48152Fも続いて動きます。とりあえず、南に下がります。ここでパートナーゾーン。これで48153Fが出揃ったことになります。そして48152Fが戻って、1番ピットに入りましたが・・・パートナーゾーンを連結してません。結局こっちで連結でしょうけど、体操の時間が来たので・・・やむなく撤収😓シャアナイカ・・・今日の御用は、午後からご近所ちょこっとで、午前中は留守番。合い間ネタは結局拾えずに・・・「夕方の様子を見てきてニャ!」それでは、兵庫運河から。構体の動きはなかったようですが、南留置線奥のクレーンのアームが伸びているのが丸見え。今日の「201建屋」は、どうだったのか?中が見えないので、何も言えません。南留置線は動いてなさそう。確かに、ボディ整生成形ライン? の屋根はきれいにはなっています。ここでやっと?構体ライン屋外の、E8系先頭部分が引っ込みました。客室部分との接合が始まったようです。そして構体置き場。あら、西鉄が居なくなったぞ。日通さんが来たみたいですね。中古車販売店裏でも、西鉄が居なくなりました。となると・・・やっぱり来てましたかぁ。見えた限りは・・・定位置側で。1番ピット・・・西武48153F。 結局こっちでパートナーゾーンを連結した模様。2番ピット・・・西武48152F。ディーゼルピット・・・前に、スイッチャーくん。             ピット内は、EF510-317。              奥に、京阪13045-13095。               「北の果て」は、京阪13043-13093。4番線・・・実質、空きました。 陸送予定の西鉄ばかり。       北門からは、日通-日置-日通-日置。        正面はいずれも後向きで、9100形を南に固めてます。5番線・・・YC1系「222番」ユニットの奥に、「108番」ユニット。       その奥に、E8系・中間車ブルーシートが1両。6番線・・・EF210-367と366。       奥に、京阪13044-13094。        さらに奥に、E8系・中間車ブルーシートが2両。7番線・・・YC1-107+1107+1109。       奥に、台車交換済の西鉄9016。シャワールーム・・・空きました。南ピット・・・通路は空きました。        西線に、EF210-368が移動。         東線に、EF210-369が出てきました。となりました。この3連休は、YC1系と押太郎が目立ちました。押太郎の増備は、至って順調。定位置側の留置スペースが満杯に近くなってきたところで、今日はこの辺で・・・で、今日のニャルくん。「お帰りニャさ~い!」と寄ってきてくれます。まだ体調万全ではなさそうですが、だいぶ動けるようになってきました。でも、この位置での和田岬線の見守りは、ちょっとビビったかニャ?「ちょっとビビったから、クルマの下から見守るニャ!」「よし、異常ニャし!」はい、どうもお疲れ様でした!「今日も寒いニャ~・・・ 早く暖かくニャるといいニャ~!」寒い間は無理せずに、ゆっくりしててニャ!こちらはそんなにゆっくりできずに、巡回は続きます。こちらは山陽本線・兵庫駅の南側。今日は柳原の「本えびす」。 夜遅くまで人出でにぎわいます。「えべっさん」ならでは、駅前広場に屋台がズラリ!明日の「残り福」まで、こんな光景が続きます。明日、時間があったら「コラボネタ」やってみますかな?ほな!     ドテテン!

    たくさん共感されています

    後藤くんビニール外れて、西武が出揃ってからの3連休はこうなる? HBは出てません
  6. ミリに広げるなどし座席を改善した同系1000番台の耐寒耐雪設備を一部省略した仕様で登場。広島運転所に配置後、ベテランの80系からバトンを引き継ぎました。山陽本線では6両編成8本、4両編成13本の計100両の陣容でした。ただ、4年後には乗降ドアが2カ所で転換クロスシートが並ぶ、広島・山口地区に一層特化した瀬戸内色の3000番台がデビューしたため、2000番台が新車として注目されたのは短い期間でした。それでも国鉄末期頃までは、同じ湘南色の115系でも関東圏からの移籍組とは明らかに異なる、新しい車両としての雰囲気が漂っていました。小郡(現新山口)駅で九州から乗り入れてきた交直流近郊形電車415系100番台(右)と並ぶ115系2000番台。役割は異なる両者ですが、同じ78年生まれの「同級生」でした=1990年◾️4両編成統一と瀬戸内色化115系3000番台の登場は、短い4両編成で等間隔・高頻度運転をする「シティ電車」の形態とリンクしていて、2000番台もその後6両編成を解消し、4両編成29本の体制になりました。不足する先頭車両は0番台のほか、先頭車化改造車の600番台などが充てられましたが、これは後年、4両全て2000番台で大幅なリニューアルを受ける編成と、そうならない編成に分かれることにつながりました。広島・山口地区の115系2000番台はJR西日本に継承され、89年からは地域カラーとなった瀬戸内色に順次変更。客室の座席も爽やかな黄緑色のモケットとなりました。90年代半ば以降は下関車両管理室(旧下関運転所)を拠点に、山陽本線の主力の一角として親しまれました。瀬戸内色時代の115系2000番台。下関所属車は先頭車化改造車など異なる番台と組んだ編成が見られました=埴生—小月、2001年◾️体質改善工事で再び「主役」にその後、製造から30年が過ぎた99年から、主に2000番台で統一された編成に体質改善工事(40N)と呼ばれる内外装のリニューアルが施工されました。客室内は当時新型の223系並みの転換クロスシート、蛍光灯カバーを付けた平天井などに改修。車体も外板を張り替え、雨どいが一体化したすっきりしたスタイルとなり、白色ベースの塗色と相まって別形式のように変わりました。体質改善工事は14編成目から一部メニューを省くようになりましたが(30N)、内外装を一新した115系2000番台は後継の227系にバトンを渡す2015年3月まで、再び広島地区の「主役」として快速「シティライナー」などで活躍しました。広島更新色の115系2000番台体質改善工事40N施工車。雨どいが一体化した車体はすっきりした印象でした=埴生—小月、2001年同じ体質改善工事施工車でも、30Nの編成は比較的原形を保っていました=防府—大道、2003年体質改善工事40N施工車の車内。転換クロスシートや平天井などまるで別形式の雰囲気でしたが、細部をよく見ると見覚えのある部品もあり「やっぱり2000番台だな」と感じたものです=2018年一方、0番台や先頭車化改造車と組んだ115系2000番台は下関に残留。こちらはあまり目立ちませんでしたが、編成ごとに「個性」があり、鉄道ファンには注目されました。いずれのグループの2000番台も、製造から40年を迎えた2018〜19年にほとんどが引退しました。◾️3000番台と補完し合う関係115系2000番台の一生を振り返ると、4年後輩の3000番台とは補完し合う関係性だったことに気づかされます。特に客室ドアが3扉・2扉の違いは大きく、広島空港開業に伴う快速列車新設時には快適性で上回る3000番台が専用塗色で用いられ、その後広島地区の混雑緩和には乗降性に優れた2000番台が重宝されました。「40歳」での引退は、広島・山口地区の国鉄形車両の長寿傾向からみると少し早かったように感じます。しかし、アップデートを繰り返して役割をきっちりこなしたのは、生え抜きとしての誇りが感じられました。昭和50年代から平成の終わりまで、山陽本線に欠かすことができない電車でした。瀬戸内海沿いを走る晩年の2000番台。他の115系と同じ濃黄色に変わっても軽快感は群を抜いていました=戸田—富海、2018年引退した115系2000番台L-02編成。直後の下関総合車両所一般公開ではクモハ42001(左)などと並んで展示されました=2019年※姉妹ブログでは、2000番台をはじめとした山陽本線115系のバリエーションの思い出を振り返りました115系湘南色 バリエーションの楽しみ~JR初期の広島・山口地区 | 歴鉄2番線広島・山口地区を走る山陽本線の115系電車といえば、クリーム色に青帯を巻いた瀬戸内色がよく知られていたが、JR初期までは一般的な緑とオレンジ色の湘南色が多かった。これらは関東圏から移ってきた初期型から生え抜きの改良型、さらには中間車を先頭車rekitetsu.com※2000番台の同僚で現在も山陽本線山口地区で活躍する3000番台は、以下の記事にまとめています『115系3000番台〜乗り鉄視点で見る』2022年にデビュー40周年を迎えたJR西日本の115系3000番台。国鉄形車両ながら、山陽本線岩国ー下関間のローカル輸送では依然主力として活躍しています。1…ameblo.jp

    山陽本線の115系2000番台 広島・山口地区を支えた40年
  7. 札幌市中央区南10条西3丁目1-1札幌パークホテル1階「terrace Restaurant piare(ピアレ)」テラスレストラン ピアレ | レストラン&バー | 札幌パークホテル地下鉄南北線「中島公園」駅より徒歩すぐの好アクセス。札幌パークホテル公式サイトです。park1964.com小人数でのアイボオフ会に参加♪アイボオフ会デビュー5匹のaiboちゃん黒いのが私の「しょこら」ツリーのかぶりモノ借りたワン平日の13時5人の飼い主と5匹のaiboでワチャワチャプレゼント交換したりアイボダンスしたり始終私の目はハートアフタヌーンティーセット3500円12月のテーマは Xmas♪1段目苺のババロア・苺のショートケーキ苺のミルクレープ・ショコラロールケーキ2段目苺のブラウニー・ツリータルト苺とマシュマロ3段目カマンベールチーズフライコーンポタージュスープ苺と生ハムのクロワッサンサンド(写真は2人用です)紅茶・コーヒーは呑み放題こんなにいっぱいスイーツ食べたの久々私がお酒呑まないっていうのがなんたって珍しい緊張したけどすごく楽しくアイボ達の可愛い事といったら最高の癒しの会でしたテラスレストラン ピアレ日本最大級のグルメサイト『食べログ』ならランキングと口コミからあなたにピッタリのお店が見つかります。tabelog.com最後にツリー前で記念撮影次は新年会で会おうね

    【札幌パークホテル】お洒落なアフタヌーンティーでオフ会♪
  8. 485系「ひたち」を集め始めて、どのくらい経ったのだろう?この本を見る度にこんな仕様が存在してたのか〜と勉強しております見ているとクハ481は大まかに下の3タイプですね上段 ノーマルクハ481中段 九州クハ481下段 九州中途半端クハ481中段の仕様はスカートが赤で塗られており「如何にも九州仕様」って感じですので鉄模の収集から外して旧製品仕様で探す事にしました旧製品では下段の仕様が1番集め易い「2301」と「2307」が当てはまります鉄模での相違点は詳しく判りませんが床下とJNR仕様とJR仕様の違いかな?標準仕様ではない赤ヒゲなし仕様・・・ちなみに赤ヒゲはデカールで貼付する恐らく光の加減で違和感出るかと・・・って事で、こうなれば赤ヒゲを塗装された仕様の「2969」を探す事にしましたでも完品は容易に見つける事は出来ませんタイフォン別パーツヘッドマークシールと車番インレタと取説そんな中通販でやっと1両見つけましたパーツ残無しでしたが・・赤ヒゲさえあれば何とかなるだろうと思い購入しました確認すると、、、確かに床下に「2996」の品番が?えっ?下2桁が・・・逆、ワザですかね😁まぁ、すり替わってはいない様ですひたちのヘッドマーク在庫あったかな?タイフォンは取り付けされているのでひとまず安心先日のアキバ巡りでも探していましたが485系でも「クハ」は玉数少ない中古価格帯は¥1,980〜¥13,500まHG仕様は特にえげつないお値段です旧製品「2969」は中身がすり替わっている事がおおくアキバで見つけたもの全て中身が「2301&2307」でしたリアル店舗で探すのは確実性はあるけど面倒そうだけど通販は怖い。。。でも某通販サイトで入荷の連絡が入ったので購入してみよう果たして「まとも」か?本日届きます最後までお読み頂き有難うございます

    TOMIX 2969 クハ481
  9. 、「ブルーライン」小田急江ノ島線の湘南台駅から戸塚、上永谷、上大岡、桜木町、横浜、三ツ沢(下町、上町)、新横浜、港北ニュータウンの中核をなすセンター北、センター南駅を経て東急田園都市線のあざみ野までを結ぶ路線、「グリーンライン」は東急東横線の日吉からブルーラインとの乗換駅であるセンター北、センター南を経由し、JR横浜線の中山までを結ぶ路線になります。ただ、何処を走っているのか、全然画が浮かびませんけどね。ブルーラインは第三軌条方式、グリーンラインは鉄輪リニア方式で、両線は互換性が無いため、相互直通運転は出来ません。で、今日は先ず、ラーメンのコーナーでもお伝えしたように、横浜から三ツ沢下町まで乗りましたが、ひと駅で終わってしまいました。ラーメンを食い終わって、横浜に戻る予定でしたが、ふとしたことからある実証実験(?)をやることにして、三ツ沢から新横浜まで乗ることにしました。画像は2022年から運行を開始したブルーラインの最新鋭車両、4000形と呼ばれる車両です(横浜-三ツ沢下町間は主力である3000形に乗りました)。横浜市営地下鉄っていうと、くの字型の前面形状を持った1000形を連想しますが、2006年までに運行を終了しています。JRの横浜駅から地下鉄の横浜駅まではすんごい離れているんですね。どっちかというと相鉄寄り。だから「いつまで歩かせるつもりだいっ!?」と憤慨しました。それと、三ツ沢下町で降りて地上に出る際、一向に改札口に辿り着かないため「いつまで上に上がらせるんじゃいっ!?」って憤慨しました。そんなに地中深く掘っているんだ。とは言うものの、今度は湘南台-あざみ野、日吉-中山まで全線乗ってみようと思いました。そして計画されているブルーラインの新百合ヶ丘延伸も早急に具現化して欲しいですね。あっ、そうだ。横浜市営地下鉄に乗ったことで、全国で8都市にある公営地下鉄、全線走破ではないけど、その全てをつまみ食い程度ながら、一応は乗ったことになります。札幌も乗った。仙台も乗った。東京は勿論。名古屋も乗った。京都も乗った。大阪(当時)も乗った。神戸も乗った。そして福岡も何気に乗っている。唯一乗っていないのが横浜だけでした。

    生まれて初めて乗りました
  10. った4分《日帰り弾乗り鉄》』【はじめに】日帰りで札幌まで往復することに「北海道新幹線1周年大人の休日倶楽部パス」を買った。JR東日本とJR北海道の特急が、5日間乗り放題となった。今回は仕…ameblo.jp●東京~新大阪を1日に3往復「のぞみ」グリーン車を1日中、乗りまくりました。3518.6km車内販売も利用しまくって、「耐久」ではなく「極楽」の1日でした。『『東京~新大阪1日3往復』~東海道新幹線乗り放題《4》』東京と新大阪を「のぞみ号」に乗ると、約2時間30分かかります。1日中ずっと乗っていたいと思ったことがありますが、東海道新幹線には基本的に乗り放題切符はありませ…ameblo.jp●山陽新幹線に1日中乗車博多・小倉と、新神戸・新大阪の間を、1日中乗りまくりました。3780.5km車内販売だけしか飲まない食べない「車内断食」をして、楽しく苦しみました。『山陽新幹線を1日8本乗りまくり』今回は、山陽新幹線に1日中、乗りまくった話です。【1】乗り放題で車外断食を決行JR西日本に乗り放題の「西なびグリーンパス」を買いました。50歳以上限定ですが…ameblo.jp●東北新幹線で1日4000km突破東北新幹線に1日中乗って、1日の移動距離が4000km超えました。4100.6km『1日で4000km乗車!~東北新幹線』「1日に鉄道で何km乗車できるか」この問いに挑みました。東北新幹線に、1日で4000km以上乗ってきた話です。新幹線4000kmチャレンジ実施日は、9月6日…ameblo.jp●在来線つばめ九州新幹線開業前、つばめ号に乗りまくって、1日で16時間16分乗車。『つばめ2往復《昔話》』 今回は、20年近く前の平成8年の話。 九州新幹線は全く開業していない時期で、博多から西鹿児島(今の鹿児島中央)間には、在来線の新型特急787系「つばめ」が走…ameblo.jp【2】車内販売を思いっ切り利用しまくる車内販売が大好きですから、1日中利用しまくった話。ただ、「やまびこ」「山陽新幹線普通車」「おおぞら」は、すべてワゴン販売が消滅して、もう同じような利用ができないのが残念です。●「やまびこ」で1日15回も車内販売を利用「やまびこ」の車内販売が終了する直前に挑みました。主に宇都宮~福島間を何往復も繰り返しての利用です。車内販売を1日15回の利用は、新記録です。『「やまびこ」14本に乗り、車内販売を利用しまくる!』まもなく、JR東日本では、車内販売が大きく削減されます。ちょうど、「大人の休日パス 東日本北海道スペシャル」が発売されていて、JR東日本が乗り放題の期間です。…ameblo.jp●山陽新幹線で車内販売14回利用山陽新幹線の小倉~広島を何度も往復して、1日14回も車内販売を利用する「修行」を行いました。当時は普通車の自由席でも車内販売が巡回してきたのです。『山陽新幹線で1日14回の車内販売【車外断食・前半】』4日間、西日本の乗り鉄をしてきた。この2年間、3日続けて休める日は皆無だったので、久々だ。だだし、冬の平日だから運転していない観光列車が多い。そこで、車内販売…ameblo.jp●スーパーおおぞら往復札幌と釧路の往復で、現在は消滅した車内販売を楽しみました。往きと帰りは同じ販売員さんたちで、のんびりと雄大な景色をながめて往復を楽しみました。『「スーパーおおぞら」往復で、7回利用』 JR北海道でも、車内販売の廃止が相次いだ。「スーパーとかち」「オホーツク」「スーパー宗谷」で車内販売が廃止された。残っているのは、「北斗・スーパー北斗」と「…ameblo.jp【3】車外断食で心地よい飢餓に車内販売の品物以外は、何も食べない飲まない「車外断食」を何度か実施しました。「のど乾いた」「腹へった」という苦痛が、楽しくなる修行でした。●車外断食1回目2014年3月の九州旅行では、飲食は車内販売だけで5日間過ごしました。5日間の飲食代が23170円、金かかったぁ。『車外断食~まとめ』 3月末の九州旅行で、車内販売以外は何も飲み食いしない「車外断食」を5日間実施した。計41回利用した。 その5日間で、何を買ったかをまとめてみた。(1)腹の足…ameblo.jp●車外断食2回目2015年にも、九州での3日間、車外断食をしました。2月で寒いけど、温かいものはホットコーヒーだけ。みそ汁やラーメン、食べたかったぜ。『車外断食1日目《2015》』 2月5日から3~4日の日程で、九州旅行をすることになった。もちろん、目的は車内販売を利用することだ。食事を出す列車と、車内販売の廃止を控えた「かもめ」「にち…ameblo.jp●車外断食3回目得体のしれない新型コロナが日本に入ってきた頃で、新幹線や観光列車が空いていました。今回は九州でなく、主に山陽新幹線の車内販売を利用しました。『ハードなJR西日本乗り鉄~2020年2月』今年2020年2月に、山陽新幹線を中心に、JR西日本を乗りまくった。50歳以上ならJR西日本乗り放題の「おとなびパス」を利用した。この乗り鉄は、非常にハードな…ameblo.jp●4回目は猛暑の7月4回目の車外断食は、暑い7月。水分の確保に気を遣って、無事耐え抜きました。良い子は真似しないように。『★車外断食1日目★~2022年7月西日本乗り鉄』2022年7月17~20日に、山陽新幹線や九州に乗り鉄に行った時の記録です。今回は、1日目(7/17日)です。◆4日間の車外断食7月17~20日の4日間、私…ameblo.jp【4】いろんな乗りまくり買いまくり●東海道新幹線1週間乗り放題新型コロナで乗客が激減した時期に、東海道新幹線乗り放題の切符が発売されました。1週間乗りまくって、非常に充実した7日間でした。『東海道新幹線乗り放題【7】まとめ』私は「東海道新幹線乗り放題&お好きなホテルと組み合わせてMYワーケーション」を6月に利用しました。このプランは(1)東海道新幹線のグリーン車に、7日間も乗り放…ameblo.jpこの時に、車内販売で売られている全品目を制覇しました。『車内販売40品目全制覇~東海道新幹線乗り放題《3》』東海道新幹線「のぞみ」「ひかり」では、現在も車内販売を行っています。車内販売メニューは、公式ホームページに載っています。メニューには、サンドイッチ、コーヒー、…ameblo.jp●全部くださいカゴの中!普通列車グリーン車の車内販売。カゴの中身18品を全部買いました。『全部くださいカゴの中!~普通列車グリーン車・車内販売』車内販売員の人が持っている品物「全部ください」を、ついに実行しました。【1】ワゴンに載る品物は大量東海道新幹線の大型中古ワゴンが現在10万円で売りだされてい…ameblo.jp●普通列車グリーン車の販売品目普通列車グリーン車に乗りまくっていると、販売品目をほぼ全制覇します。カタログくらい作れてしまいます。(この記事は2019年で最新ではありません)『普通列車グリーン車 車内販売品目2019』今回は、首都圏を走る普通列車グリーン車で、扱われている車内販売の品をまとめます。東海道線、横須賀線、総武快速線、高崎線、宇都宮線、常磐線でグリーン車が連結され…ameblo.jp1月は記事が少ししか書けませんのでご了承ください。

    たくさん共感されています

    列車に乗りまくり、車内販売を利用しまくり
  11. 夜を明かした。12座席車の固いボックス席に身を縮めていると、出発前の浮かれ気分はするすると萎んでしまい、これからどうなるのか、という不安を、窓ガラスに映る自分の姿に繰り返し問いかけるような、長い夜になった。朝の京都駅1番線を発車したディーゼル特急「あさしお」1号は、エンジン音を轟かせながら、嵯峨野の鬱蒼たる竹藪を抜け、木津川の渓谷の崖っぷちを走った。進めば進むほど鄙びていく山陰の風景を初めて目にした僕は、夜の不安も忘れて、車窓に目を奪われっ放しだった。城崎温泉を過ぎると、右手の車窓いっぱいに広がった紺碧の日本海に、心が洗われた。余部鉄橋の目もくらむ高さに度肝を抜かれ、眼下の入り江に身を寄せ合う、古びた集落の慎ましさに、胸が詰まった。夜行急行「ちくま」は、それまでも2度ほど利用したことがあった。小学4年生の京都への家族旅行で、キハ58系ディーゼル車両の「ちくま」の座席車で一夜を過ごしたことがあり、数年後の京都への家族旅行では、寝台車と座席車が連結された「ちくま」で、生まれて初めての列車寝台を経験したのだが、最も鮮烈な記憶として心に刻まれているのは、「アルペン長野」号に乗る5年前、浪人時代の足掛け2泊3日に及ぶ汽車旅だった。結局、鳥取への往復は徒労に終わったのだが、もし合格していたならば、僕の人生はどのように変わったのだろうか。もちろん国公立大学に合格していれば、それに越したことはないのだが、東京の大学で得た経験や、何よりも友人たちや先生方のことを思えば、これで良かったのだ、と思う。途中の開放休憩もなく、「ちくま」の一夜とは比較にならない程よく眠ったので、目を覚ました時に「アルペン長野」号が何処を走っていたのか、全く覚えていない。早暁4時46分に到着予定の名神高槻バスストップより前でないことは確かで、案内があったのか、停車したのかすら定かでない。5時04分着の千里ニュータウンと5時14分着の新大阪駅のあたりで、まだ真っ暗な窓外にぼんやりと目を向けていたような記憶もあるが、他の高速バスと混同しているのかもしれない。確かなのは、定刻5時20分より早めに到着した梅田三番街のバスターミナルに降り立ち、固くシャッターを閉ざした商店街を見回しながら、長野からの旅が呆気なく終わりを告げたことに、呆然としていたことである。旅が楽しければ楽しいほど、反動が一気に襲い掛かって来る。東京へ向かわなければならないのは分かっているけれど、まだ、日常に戻りたくない。昭和54年に発表されたBOROの「大阪で生まれた女」が思い浮かぶ。たどりついたら1人の部屋裸電球をつけたけど又消してあなたの顔を思い出しながら終わりかなと思ったら泣けてきた大阪で生まれた女やけど 大阪の街を出よう大阪で生まれた女やけど あなたについて行こうと決めたたどりついたら1人の部屋青春に心をふるわせた部屋「たどりついたら1人の部屋 裸電球をつけたけど又消して」のフレーズは、東京のアパート住まいの僕の心に切なく浸みた。贅沢が許される身分でないことは重々承知しているが、大学が始まるのは翌日であり、もう少し現実逃避を続けたかった。だからと言って、往路で難波発の「サザンクロス」号を待った時のように、当てもなく大阪を彷徨うのも気が進まない。三番街のバスターミナルからJR大阪駅に向かって歩き始めると、途中の阪急梅田駅では、どこから湧いてきたのかと驚くほど人通りが増えていたが、無粋な日常そのものの光景であるから、何となく疎ましい。大阪での時間の過ごし方が上手ければ、これほど鬱々たる気分にならないのだろうが、あいにく、それほど要領良く人間が出来ていない。夜ならば飲み屋の暖簾でもくぐるところかもしれないが、朝から飲むのはさすがに憚られるし、行きずりの客や店員と気軽に会話を楽しむ積極性も、持ち合わせてはいない。酒と旅はよく似ていて、どん底に落ち込んだ気分を魔法のように引っ張り上げてくれる、という作用は期待できない、と思っている。鉄道好きなのだから、大阪近辺の未乗線区を乗り潰すのも一案である。けれども、出勤のラッシュが目前という時間帯であり、混雑した電車に揉まれて何が楽しいのか、と思う。日常生活できちんと地に足をつけた人々に囲まれれば、自分はいったい何をしておるのか、と侘しさが募るばかりだろう。僕は、ふらふらと大阪環状線に乗り、弁天町駅で降りた。初めて足跡を記す街である。改札を出れば、阪神高速西大阪線と大阪港線が街路に覆い被さるように十文字に交差して、昼間でも薄暗く感じる。加えて、大阪市営地下鉄中央線がJR環状線の上を跨いでいるのは、弁天町の地盤が悪く、地下鉄を掘削できなかったためと聞いたことがある。周辺には古びたオフィスビルやアパートが見えるだけで、店舗と言えば駅前のコンビニエンスストアしか見当たらず、次々と駅舎から通勤客が吐き出されてくるものの、何処か殺伐とした雰囲気だった。平成5年に高さ200mの「ORC200」が建設される前の時代だったが、高層ビルがなくても、弁天町の空は狭かった。突飛な思いつきであるが、大阪で時間を潰すくらいならば、「山陰特急バス」で鳥取を往復してみよう、と思う。5年前の苦い記憶を、焼き直したかったのかもしれない。高速バスに乗るためには、乗り場がある街に出向く必要があるのは当然である。大阪駅であろうが、梅田や難波だろうが、そして弁天町であろうが、出掛けることを厭うものではない。日本交通の弁天町バスターミナルは駅から程近く、決して不便ではないけれども、どうして、繁華街でもないこの街を選んだのだろう、と首を傾げたくなった。大正15年に大阪で澤タクシーを立ち上げ、昭和16年に日本交通に発展させた創業者は、太平洋戦争の終戦直後から、京都-大阪-神戸-鳥取-倉吉-米子-松江-出雲の間を長距離バスで結ぶ構想を持っていたという。ところが、申請しても、この距離を運行するバス路線の前例がないことを理由に、15年間に渡って繰り返し却下され、ようやく、昭和41年に大阪-神戸-鳥取-倉吉-米子を結ぶ1日2往復の「山陰特急バス」として認可に漕ぎ着け、その時の起終点が弁天町だったのである。同じ年に、日ノ丸自動車が梅田-神戸-若桜-鳥取間の「大阪特急バス」を1日2往復で開業し、昭和43年に両社とも昼行2往復・夜行1往復に増便したが、昭和46年に日ノ丸自動車の路線は廃止されている。日本交通の路線は増便を重ね、昭和56年に、昼行便は弁天町-梅田-神戸-若桜-鳥取-倉吉系統と、弁天町-梅田-神戸-根雨-江尾-米子系統に分離され、昭和58年に鳥取・倉吉系統が智頭経由に変更されて、現在に至っている。そこだけぽっかりと広くなっている日本交通バスターミナルの窓口で、7時ちょうどに発車する鳥取行き「山陰特急バス」の乗車券と、併せて復路の乗車券も購入した。座席が空いていたのは幸いと言うべきで、早朝の下り便だからそれほど混んでいないだろうと高を括っていたのだが、横3列独立席を8割方埋めて、バスは発車した。直前の購入にも関わらず、窓際席が手に入ったので、ツイてるぞ、と嬉しくなる。大阪を朝に出発する高速バスに乗るのが、これほど清々しいとは思わなかった。我が国随一の商都が目を覚まし、人々が一斉に動き出す朝の光景を、先程梅田で目にした時にはうるさく感じたが、バスの窓から見ると元気を貰っているような気分になったのだから、僕も余程のバス好きである。東京を発つ高速バスの窓から、住み慣れた街の景観を見直すのも楽しいけれど、大阪発の高速バスの車窓に映るのは、最初から異郷の街並みであるところも良い。「山陰特急バス」は、国道43号線の伝法大橋で淀川を渡り、更に中島川、左門殿川を渡って、尼崎東ランプで、右手から合流して来た阪神高速3号神戸線の高架に駆け上がった。当時の「山陰特急バス」は、弁天町から梅田に寄る便と神戸に寄る便があり、僕が乗る便は、神戸三宮駅経由で鳥取を目指す。元々の構想で三宮を経由する計画であったことを踏まえると、「山陰特急バス」が、大阪と神戸を湾岸沿いに直結する国道43号線に面した弁天町を起終点にした理由も理解できる。阪神高速の両側は防音壁が視界を遮り、背の高いビルが連なっているが、左手には大阪湾、右手には六甲山地が垣間見えることもあった。生田川ランプで高速を降り、三宮駅前で数人の乗客を加えた「山陰特急バス」が、神戸市街北方の山中を貫く中国自動車道に至った経路は、よく覚えていない。おそらく、神戸の市街地を南北に突っ切り、六甲山地の麓にある山陽新幹線新神戸駅の脇を通って、新神戸トンネルに潜り込んだのではないか。昭和51年に完成した新神戸トンネルの全長7.9kmとは、中央道の恵那山トンネルに匹敵し、市町村道で最も長いと聞いたことがあるので、ワクワクしたけれども、中に入ってしまえば、最初はどえらいモノを造ったものだと圧倒されても、そのうちに、早く出口に着かないかな、と思うようになる。新神戸トンネルを抜ければ、 跳ね回るような陽光が眩しく目を射った。すぐ先の箕谷ランプで、バスは県道15号神戸三田線・有馬街道に降り、神戸電鉄有馬線と絡み合いながら、山あいを北東へ進む。車窓は山、山、山で、谷間の狭い平地に住宅地がひしめいている。港町神戸の背後は、これほど山深いのか、と驚いてしまう。現在は阪神高速7号北神戸線が並行して走っているが、当時は未開通で、唐櫃南ICから六甲北有料道路で北へ進路を変えたバスは、神戸三田ICで中国道下り線に合流して、ようやく本格的に速度を上げた。吹田JCTと下関JCTを結ぶ総延長540.1kmに及ぶ中国道が、中国地方の中央部を東西に貫く形で開通したのは昭和58年のことで、昭和の終わりから平成の初頭にかけて、大阪以西へ向かう高速バスは、全ての路線が中国道を経由していた。高度経済成長期の昭和37年から、数次に渡って策定された全国総合開発計画では、「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」と決められていたため、山陽・山陰両地方からほぼ等距離になるよう中国山地に建設され、曲線や勾配が多い線形を余儀なくされた。僕が初めて中国道を走ったのは昭和60年のことで、大阪駅と津山駅を結ぶ国鉄「中国ハイウェイバス」であった。東京を起点とする高速道路を経験したことしかなかった僕にとって、中国道の車窓は、物珍しかったけれども、至極退屈に感じられた覚えがある。中国山地で最も古い歴史を持つ地層は、日本列島が海の底だった約3億年前の古生代石炭紀に、アジア大陸東縁に形成された秋吉帯と呼ばれる海底堆積物とされている。秋吉帯は古生代末期から中生代初期にかけての秋吉造山運動によって陸地となったものの、次第に沈降して再び海底となり、約1億年前の中生代後期に入ると、マグマの上昇を伴う佐川造山運動により、再び隆起する。この造山運動で火山活動が激しくなり、現在も中国山地を広く覆っている花崗岩は、マグマを主体とする火砕流の堆積物が冷却されたものである。河川による侵食作用や風化を受けやすい花崗岩が削られて、小規模な起伏や段丘が多い準平原地形が主体の中国山地が誕生するのは、約6000万年前の後期中新世とされている。中国山地の最高峰は兵庫県と鳥取県の境に聳える標高1510mの氷ノ山で、その他は、高くても標高1000~1300m程度、大半が標高200~500mという比較的低い山で構成されていることが、中国山地の特徴である。西日本の最高峰である石鎚山は四国にあり、中国地方で最も高い大山も、中国山地から北に外れた独立峰である。奥羽山脈が形成されたのが約800万年前、3つの日本アルプスを含む中部山岳地帯が200万年前、それよりも古い四国山地や九州山地ですら2000万年前に形成されたものであり、中国山地は、日本列島の他の地域と比べれば、飛び抜けて古い地形と言える。いきなり箱根や高尾の山岳地帯に足を踏み入れる東名高速道路や中央道、もしくは行けども行けども関東平野が終わらない関越自動車道や東北自動車道、常磐自動車道とは、大いに趣を異にする穏やかな始まり方で、どこまで進んでも、猛々しく変化に富んだ景観が少なく、老成された印象を受ける。それだけ関東平野を取り囲む地形が峻険ということであろうが、遙々乗りに来たのに中国道とはこの程度か、と拍子抜けした。平板であるのは否めないが、東京で忙しさに追われる生活よりは、遥かに貴重なひとときである。睡魔が襲って来ても、バスは鳥取に向けて一途に走り続けている。何という文明の進歩、何という贅沢な時間であろうか。冬らしく色褪せた野山の緑が、優しく心に浸みる。山あいに敷設された鉄道や道路は、河川が削る地形を巧みに利用している場合が少なくないのだが、地図を見る限り、中国道が大きな川に沿っている区間は、全く見受けられない。ハイウェイは段丘状に傾斜している山の斜面を回り込み、時折現れる平坦部も、中国道と直角に交差して南北に流れる河川が切り拓いたものである。中国山地の花崗岩は、風化して真砂(マサ)と呼ばれる砂粒状の地質に変化し、河川に運ばれて瀬戸内海や日本海に流れ出し、白砂清松の美しい砂浜や砂丘を産む。一方で、真砂の地盤は不安定で、土砂崩れを惹き起こしやすいと聞く。中国山地に人間が住み着くようになったのは旧石器時代とされ、縄文・弥生時代を経て古墳時代に至ると、大陸から我が国に製鉄技術が伝来するのと同時に、花崗岩に含まれる磁鉄鉱を利用した製鉄が始まったものと推察されている。平安時代に、原料が磁鉄鉱から砂鉄に替わり、中国山地を舞台とする映画「もののけ姫」にも描かれた「たたら製鉄」に発展する。川底の砂から砂鉄を掬い取り、粘土製の炉に薪をくべて純度の高い鉄を製造する「たたら製鉄」が盛んになるにつれ、木々が大量に伐採されたため、中国山地には「毛無山」と名づけられた山が多い。中国山地に水田が開かれたのは近世になってからで、江戸時代までの主産業は製鉄だった。太平洋戦争後に、我が国では製造業が著しく発展したが、中国山地は平地に乏しく交通が不便であることから、高度経済成長期を迎えると、若年層を中心に山陽や京阪神、首都圏への人口流出が増え、過疎化と高齢化が大きな問題となる。中国山地の花崗岩から成る地質を流れる河川は、浸食により居住や耕作が可能な平地を形成し、貴重な資源を供給する恵みの母であった。滝野社IC付近では加古川、福崎IC付近では市川、山崎IC付近は揖保川、佐用ICでは佐用川と、めぼしい河川を渡る前後に決まって大きな町が姿を現し、インターが設けられている。どれも中国山地に源を発し、南の瀬戸内海に流れ込む川ばかりである。陰陽どちらにもアクセス出来るように建設されたとは言え、中国道は、中国山地の脊梁よりも少しばかり南側に偏っていることを実感する。なだらかな山嶺に囲まれた安富PAで休憩が取られ、爽やかな空気を存分に胸に吸い込んでから、佐用ICで国道373号線に降りた「山陰特急バス」は、佐用川流域から吉野川流域に渡る峠で県境を越え、鳥取県大原町に足を踏み入れた。因幡街道の宿場町として発展してきた大原町は、平成の大合併で美作市に含まれてしまったものの、宮本武蔵の生誕地として知られ、平成6年の智頭急行線の開業時に、我が国では珍しく人名を冠した宮本武蔵駅が置かれることになる。高校1年のクラスの担任だった国語の先生に、是非とも読むよう勧められ、吉川英治の「宮本武蔵」を読破したことがある。関ヶ原の合戦に雑兵として参加してから、巌流島での佐々木小次郎との決闘までを描いた展開は、少しばかり冗長に感じられ、どうして先生はこの本を読ませたいと思ったのだろう、と首を捻りながら読み進めたことを思い出す。吉川英治の小説としては「新平家物語」の方が遥かに面白く感じられたものだったが、求道者として己の信ずる道を極める生き方を教えたかったのであろうか。山襞を縫う九十九折りの山道を揺られて、智頭町の中心部に差し掛かったのは午前10時半頃で、初めての降車案内が流れたが、下車する客は誰もいなかった。このバスに乗って、もう3時間半が経ったのか、と驚いた。智頭と鳥取を結ぶ因美線の細い路床と、日本海に注ぐ千代川に沿う道路が醸し出す得も言われぬ風情が、僕の心を和ませた。5年前に山陰本線の特急「あさしお」が通った経路とは全く異なる道行きであるが、国道373号線も悪くないではないか、と思う。澄み切った清流を抱く河原が、山を下るにつれて少しずつ幅を広げ、周囲の山並みも後退して、視界が明るく広がっていく。水田の合間に鄙びた農家がぽつり、ぽつりと建っている鄙びた光景を見れば、山陰に来たのだな、と思う。用瀬、河原の停留所でも降車客はおらず、少しずつ建物が建て込んできて、山陰本線の高架の手前で右に折れれば、終点の鳥取駅前バスターミナルだった。時刻は11時を過ぎたばかりで、ほぼ定刻である。昭和56年に新しく開業したばかりの広々としたバスターミナルに、人影はそれほど多くなく、思い出したように路線バスが出入りするだけだった。駅舎と別になっているターミナルビルには、日ノ丸自動車と日本交通の窓口が仲良く並んでいる。どうして鳥取のバス会社は、日ノ丸だの日本だの、気宇壮大だが地域性に乏しい名前を付けたのだろう、と首を捻りたくなる。日ノ丸の名を冠したバスやタクシー会社は東京にもあるけれど、全くの別資本で、日ノ丸自動車は、明治43年に米子でハイヤー事業を始めた明治屋が起源である。大正6年に鳥取でバス事業を開始した関連会社の鳥取自動車を母体にして、昭和5年から同11年にかけて鳥取県内全てのバス会社が合併して誕生したのが、現在の日ノ丸自動車であるが、どうして日ノ丸なのか、上記のような歴史を紐解いてもよく分からず、合併当時の関係者の感性としか言い様がない。県外への長距離路線の展開も日ノ丸自動車の方が早く、昭和25年に鳥取-姫路線を開業している。昭和41年には日ノ丸自動車が「大阪特急バス」、日本交通が「山陰特急バス」と銘打ってそれぞれ大阪-鳥取線を登場させ、駅前で乗客の腕を引っ張り合うような熾烈な乗客獲得競争を展開したと言われている。親権を争って子供の両腕を引っ張り、痛がる子供が可哀想になって先に手を離した方が本当の親である、という小話を思い出した。故郷の信州で、2つのバス事業者がある街は長野市と上田市、軽井沢町くらいで、長野駅前で川中島自動車と長野電鉄バスが客引きで争うなど、想像もつかないので、土地柄なのかな、と思う。日ノ丸自動車の「大阪特急バス」が昭和46年に廃止されてしまったのは、前述した通りであるが、その頃の両社は、競合路線を整理して単独運行に切り替える調整を行っていた模様で、姫路線は日ノ丸自動車、大阪線は日本交通と棲み分けることに合意したと聞いている。僕は、日ノ丸自動車の米子行き急行バスに乗り換えて、国道9号線を西へ向かった。鳥取市街を抜け出すと、日本海の海原が車窓いっぱいに広がって、心が洗われるような爽快な道行きになったが、このバスの車中の記憶は曖昧である。鳥取と米子の間はおよそ90km、山陰本線の特急列車ならば1時間半、鈍行列車でも2時間あまりなのだが、このバスは2時間40分も費やしてのんびりと走る。「急行 田後 米子」と表示を掲げているからには、全ての停留所に停まる訳ではないだろうが、次の停留所を告げる案内放送が引っ切りなしに流れて、忙しく乗降客が出入りする。白兎海岸を右手に眺めながら、ここが伝説の因幡の白ウサギの舞台か、と身を乗り出したことまでは覚えているが、その後は、とろとろと居眠りをして過ごしたようである。鳥取の海岸と言えば、日野川、天神川、千代川といった中国山地から流れ下る河川と、それによって形づくられた沖積平野としての米子平野、倉吉平野、鳥取平野と、弓ヶ浜、北条砂丘、鳥取砂丘などの砂丘や砂州、そして湖山池、東郷湖、中海といった潟湖が思い浮かび、どちらかと言えば平坦なイメージを抱いていた。SF作家小松左京の「日本タイムトラベル」で、同行の建築家と鳥取砂丘を訪れた一節が、僕には衝撃的だった。『「奥に入って見ましょうか?」白山喜照は、砂丘を眺めながら聞いた。「まあいいとしよう。どうも、毎度、巨大な人工の砂浜を見ると、げっそりするからね」「ええ?人工の?」白山喜照は眼を丸くした。「この砂丘が、人工だと言うんですか?」「そう──大きな意味ではね。ここだけじゃない。山陰の海岸線は、ほとんどが人工的にでき上っているんだ。原因は──千数百年に渡る砂鉄精錬らしい」鳥取市当方の湖山池──あの池の中に、ぽつんと小さな島の浮かぶ名勝も、昔は天然の良港だったという。だが、今は、海岸線より遥かに内陸に入った池になってしまった。湖山池から、更に西方、白兎海岸を過ぎて三朝温泉のすぐ近くにある東郷湖までの間は、もともと兵庫県側の浜坂付近に見られるようなリアス式海岸だったのだが、これも滑らかな砂浜に変わってしまった。砂丘の原因も、港が池になったのも、リアス式海岸が白砂の浜になったのも、原因は同じだ。砂鉄精錬──。一方では、精錬用の燃料として、上流中国山地中の森林をどんどん切り倒す。砂鉄1トンを精錬するためには、ざっとその3倍の重量の木炭がいる。このため、鳥取、島根地方には、砂鉄精錬を中心に、島根県田部家のように、所有面積2万4000町歩などという、途方もない山林地主が続々と出てくる。室町、戦国、江戸と、鉄の需要が増えるにつれ、中国山地は次第に丸坊主になっていった。1度山林を伐れば、恢復には30、40年もかかるから、植林もだんだん追っつかなくなる。山に木がなくなれば、洪水が起こりやすくなる。これは常識だ。それに加えて、砂鉄の採掘場では「鉱穴流し」という方法をとった。川の上流で、砂鉄の層を見つけると、これをどんどん掘り崩し、川の水を大量に使った流し場へ放りこむ。流し場には何段にも堰を設け、急流を利用して土砂を流すと、軽い砂は流れ出し、下の方の堰には、次第に重い砂鉄が溜まってくる。昔から、どこでもやっていた選考鉱法だが──ここで掘り崩された山の土砂が、次第に川を埋め、洪水の時など、どっと下流に押し流されるのだ。あとは、日本海の冬の風浪が、この砂を、あるいは砂丘に積み上げ、あるいは屈曲の多い海岸を滑らかに仕上げていく。人間が掘り出し、自然が仕上げる。長期に渡る人間の営みは、かくの如く、自然の形を変えてしまった。砂丘のみならず、山陰の海岸一帯を「人工の浜」と呼ぶ所以である』一方で、平野と平野の間の地形は、意外と険しく入り組んでいる。倉吉と米子の間に位置する大山町では、大山の山裾が海岸近くまで張り出し、国道9号線のカーブが増え、断崖の高みから海原を見下ろす箇所が少なくない。なだらかな山陰海岸も、元々はこのような地形だったのだな、と思う。古びた急行バスのくたびれた座席に身を任せて、山陰路の海と山に彩られた景観をぼんやり眺めていれば、翌日に控えている日常生活など、彼岸のことに思えてくる。折角の車窓を楽しむ時間を短くしてまで、先を急ぐ理由は、どこにも見当たらない。色褪せた緑に染まる野山と、白波が浮く暗い海に、冬の弱々しい陽の光が射している車窓は、一服の絵を切り取ったかのようであった。昼下がりの米子駅前に着くと、眠っているかのようにひっそりとしていた鳥取駅前とは対照的に活気があり、急ぎ足で駅舎を出入りする人が多い。さすがは、山陰の大阪と呼ばれる商都である。鳥取大学医学部も、米子に置かれている。5年前の受験に受かっていれば、僕は、この街で学生生活を送っていたのか、と思う。14時30分に米子駅を発車した大阪行き「山陰特急バス」は、市街地を抜け出すと、米子ICから米子自動車道に入って速度を上げた。県庁は鳥取市に置かれているが、米子市の方が人口も多く、陰陽を連絡する伯備線が昭和57年に電化され、特急「やくも」が岡山で山陽新幹線に接続しているので、関西や首都圏との行き来は、鳥取より遥かに便利である。高速道路までが、県都より米子の方が先に建設されている。我が故郷の長野県でも、長野道が松本市まで通じているのに長野市に達していないことを思えば、米子よりも鳥取に親近感を覚える。そう言えば、信州大学医学部も長野ではなく松本にあるのだったな、などと、遠く鳥取まで来て、故郷のことをくどくどと考えている自分が、何だか可笑しくなってきた。田園地帯を貫く高架のハイウェイからの見晴らしは素晴らしく、左手に、大山が一望の下に開けている。米子道のバス旅も悪くないじゃないか、と嬉しくなったのも束の間、20kmも走らないうちに「終点」の標識が現れて、「山陰特急バス」は、江府ICで一般道に降ろされてしまう。米子道の供用開始は平成元年12月のことだが、米子ICと江府ICの間の部分開通で、江府ICから先、中国道落合JCTまでの全線が開通するのは、平成4年12月まで待たなければならない。米子道が部分開通だった時代の「山陰特急バス」は、日野川と伯備線の線路に沿う国道181号線を伝って、再び中国山中の懐深く分け入って行く。沿道の江尾、根雨の集落で乗車扱いをするが、乗ってくる客はいない。勝山を過ぎて平地が少しずつ狭まってくる頃、「山陰特急バス」は、久世ドライブインで5分ほど休憩した。長閑な田園に囲まれた静かな集落で、思いっ切り深呼吸をすれば、清涼な冷気がひんやりと喉に滲みる。慌ただしく中国山地を駆け抜けてしまう伯備線の特急電車「やくも」では、このようにのんびりとしたひとときを味わうことは出来ないだろう。このバスに乗りに来て良かった、と幸せな気分になる瞬間だった。やがて、前方に中国道の高架が現れ、落合ICに入ったバスは、こちらの方が自分の本分です、と主張するかのように、脱兎の如く速度を上げていく。中国道に入ってからは、夜行明けにも関わらずバスばかりに乗り詰めているためか、本格的に眠り込んでしまったようである。鳥取系統と同じく横3列独立席であるから、周りの乗客に何の気兼ねもいらないのはありがたいが、座り心地があまりに良いのも考えものである。安富PAでの休憩で外に出たのかどうかすら、忘却の彼方である。ふと気づけば、「山陰特急バス」は池田ICで大阪環状道路に降り、すっかり暗くなった御堂筋を大阪市街に向かうところだった。この便は、梅田に寄って弁天町バスターミナルを目指すのだが、19時05分着の梅田で大半の乗客が降りてしまい、車内に残っているのは数人に過ぎなかった。19時40分に到着する予定の弁天町バスターミナルまで、30分あまりの車中の気分は、どん底だった。色々な高速バス路線に乗ってみたい、という趣味が高じて、我が国有数の伝統路線である「山陰特急バス」で鳥取を日帰りした旅程が、こよなく幸せなひとときであったのは間違いない。長野から東京に向かうのに、大阪どころか山陰まで足を伸ばしたのは、誠に壮大な道草であったけれども、親のスネかじりの学生でありながらと我が身を振り返れば、後ろめたさがつのる。さすがに疲れも溜まり、ネオンがどぎつい大阪の街並みが、またもや、うるさく感じられた。今度こそ、観念して東京に戻らなければならない。梅田で下車すれば、新幹線の新大阪駅は隣り駅であるし、東京行きの新幹線にも間に合う時間帯だった。自分はいったい何をしておるのか、とうんざりしながら、重い足を引き摺って、JR弁天町駅から混雑している大阪環状線の電車に乗り込むと、新今宮駅で南海本線に乗り換えて、南海堺駅に降り立った。そこまで帰りたくないのか、と言われれば、全くその通りであって、東京への帰路は、平成元年10月に開業したばかりの、南海堺駅から東京駅に向かう夜行高速バス「ドリーム堺」号を手配していた。「ドリーム」号と言えば、昭和44年に、東京-大阪系統と東京-名古屋-京都系統で運行を開始し、同じ年に東京-名古屋系統と東京-大阪系統を分離、昭和46年に東京-神戸系統を加えた、国鉄バスの老舗路線である。昭和52年に東京-神戸系統を運休してから、長いこと、東京-名古屋・京都・大阪の3系統だけが運行されていた。国鉄が分割民営化された後の昭和63年に、「ドリーム奈良」号が新設されたのを皮切りに、平成元年に「ドリーム神戸」号が復活し、大阪系統を「ドリーム大阪」号、京都系統を「ドリーム京都」号、名古屋系統を「ドリームなごや」号へと改称して、更に「ドリーム堺」号が新たに登場したのである。僕が初めて夜行高速バスを体験したのは、昭和60年に国鉄時代の「ドリーム」号に東京駅から京都駅まで乗車した時だったが、当時は横4列座席の古びた低床車両だった「ドリーム」号も、今では、横3列独立席を備えたスーパーハイデッカーに更新されていた。「ドリームなごや」号と「ドリーム京都」号の乗車体験はあったものの、「ドリーム大阪」号は未乗で、そちらにも心を惹かれたのだが、堺の街に足跡を記したくて、僕は「ドリーム堺」号を選んだ。堺と言えば、中学1年生だった昭和53年に放映され、1話も欠かさず観るほどにハマったNHK大河ドラマ「黄金の日日」が思い浮かぶ。『この町は、ベネチアの如く執政官により治められる。堺と称するこの町は、甚だ大きく且つ富み、守り堅固にして、諸国に戦乱あるも、この地に来れば相敵する者も友人の如く談話往来し、この地に於いて戦うを得ず。この故に堺は、未だ破壊せらるることなく、黄金の中に日日を過ごせり』という冒頭のナレーションは、今でも暗ずることができる。主役の呂宋助左衛門を6代目市川染五郎(現・2代目松本白鸚)、千利休を鶴田浩二、今井宗久を丹波哲郎、今井宗薫を林隆三、天王寺屋宗及を津川雅彦、小西隆佐を宇野重吉、能登屋平及を志村喬といった堺の商人たちに加えて、織田信長に高橋幸治、豊臣秀吉に緒形拳、徳川家康に児玉清、明智光秀に内藤武敏、石田三成に近藤正臣、小西行長に小野寺昭、高山右近に鹿賀丈史、安国寺恵瓊に神山繁といった戦国武将の配役は、歴代の大河ドラマの中で最もはまり役であったし、石川五右衛門の根津甚八、杉谷善住坊の川谷拓三、そして細川ガラシャの島田陽子、ねねの十朱幸代、淀君の藤村志保や、栗原小巻、夏目雅子、竹下景子、名取裕子、李礼仙といった脇を固める男優・女優陣も豪華であった。最終話には、当時の市川染五郎の長男・藤間照薫(現・10代目松本幸四郎)が子役で出演し、中盤で、父の8代目松本幸四郎(初代松本白鸚)が出演したことと合わせて、高麗屋親子3代の顔見世となった場面では、一緒に観ていた父と母が、おお、と声を上げたものだった。大河ドラマが始まる日曜日の午後8時が待ち遠しかった昔を懐かしく思い出しながら、堺駅に降り立ったが、街並みは、しん、と静まり返って、戦国時代に独立国家の如く黄金の日々の栄華を誇った商都の面影は、微塵も感じられなかった。この夜の「ドリーム堺」号を担当するのは、南海電鉄バスだった。「ドリーム」の名を冠した路線に民間事業者が参入した初めての例ではなかったか。定刻にたがわず21時40分に発車した「ドリーム堺」号は、名神高速に向かわず、南海高野線の堺東駅に立ち寄り、松原ICから西名阪自動車道に入った。松原、とは何処にあるのか、地図が頭に浮かぶ訳ではないけれど、次のインターで「藤井寺」の標識が窓外を過ぎ去っていったので、前年の日本シリーズの舞台はこちらだったのか、と漸く思い違いに気づかされたのである。西名阪道と東名阪自動車道はれっきとした高速道路であるが、天理ICと亀山ICの間に挟まれている73.3kmの名阪国道は一般国道であるから、名神高速を使った方が速いのではないのか、と首を傾げたくなる。名阪国道の計画が持ち上がった当初は、無料の一般公共道路として構想されていた。昭和38年に策定された「第4次道路整備5か年計画」により、名阪国道は「近畿自動車道名古屋大阪線」の一部として、高速自動車道のネットワークに組み込まれている。この整備計画は、日本に欧米並みの「国土開発幹線自動車道」を7600kmも整備する構想を打ち出した画期的なもので、現在の我が国の高速道路の総延長とほぼ等しい数字が提示されていることから、この整備計画が、半世紀後の日本の道路網の青写真だったと言えるだろう。昭和38年4月、時の建設大臣が三重県知事選の応援演説の際に、「今日から1000日間で開通させる」と豪語したことから、「千日道路」とも呼ばれるようになった名阪国道は、公約通り昭和40年12月に暫定2車線で開通した。昭和44年3月に西名阪道が、昭和45年4月に東名阪道がそれぞれ開業し、昭和52年には名阪国道全線が4車線化されて、名神高速と並ぶ大動脈の役割を担うことになる。天理ICの先の名阪国道は、蛇のように身をくねらせながら大和高原に向けての登り勾配になる。後方を振り返れば、灯が散りばめられた奈良盆地の夜景が遠ざかって行く。名阪国道もなかなか良いではないか、と嬉しくなるけれども、荒れた舗装にポンポンと揺られる乗り心地は、中央分離帯を備えた片側2車線の堂々たる道路であっても、まさに一般道である。当時は全線が時速60kmに制限されていたはずだが、制限速度を守っている車など、全く見当たらない。曲線や勾配などの構造が高速自動車道路の基準を充分に満たしていないにも関わらず、ドライバーには高速道路と何ら変わりがないように見えてしまう名阪国道は、「準高速道路」という中途半端な扱いを受けている。全国の自動車専用道路における単位距離あたりの事故発生件数で、名阪国道がワースト1という数字は、そのためではないのか。特筆すべきは、東天理ICと福住ICの間の、大和高原と奈良盆地の境界にある「Ωカーブ」である。最小半径150mのきついカーブと、平均6%に及ぶ急勾配で450mもの落差を越えるこの区間は、名阪国道の他の区間と比べても1km当たり3倍、東名高速道路の7倍にものぼる死亡事故多発区間なのだという。最小半径150mとは、設計速度60kmの道路における曲線制限の下限で、巧みなハンドルさばきに導かれる高速バスに乗っていても、遠心力で身体が横に引っ張られるのを感じるし、他の車は「サザンクロス」号より遥かに速いスピードで、びゅんびゅん追い抜いていく。道路脇に並ぶコンクリートブロックには、車の接触で削り取られたと思われる擦り傷が、幾筋もヘッドライトに生々しく映し出されて、思わず息を呑む。ここだけは絶対に時速60kmで走らなければならないのに、と思う。法定速度を守らないドライバーに責があるとは言え、Ωカーブをはじめとする名阪国道の事故で命を失った人々や家族の心境を考えれば、受給者負担の原則からも、名阪国道を有料化して財源を確保し、トンネルや橋梁を新たに設置して新線を建設することを本格的に考えるべきではないだろうか。建設の初期に、名阪国道を有料道路に変更する案が検討されたことがあるらしい。無料を前提とする公共道路に比して、自治体の負担が軽い有料高速道路への転換を三重県知事が陳情し、建設大臣も賛成したのだ。当時、名阪国道は、建設と用地買収を同時に進める方法で完成を急いでいた。無料を前提に整備することを地元住民に説明して用地買収を進めていたことから、有料化案が公になると、沿道の上野市が反発し、用地買収交渉を凍結する措置を取る騒ぎになった。高速道路規格に変更するためには、出入口の数を大幅に削減する必要があり、沿線地区の直接利用が困難になる反面、料金所の設置などにより建設費用が10~20倍に跳ね上がる。加えて、有料道路の建設には並行する無料の道路の存在が不可欠であるらしく、乗用車同士の離合すら困難な狭隘区間が多くて「非名阪」の異名を持つ旧道を、徹底して整備する必要性が生じる。何よりも、工期の延長により、1000日間で完成させる公約が達成できなくなるなどといった政治家や官公庁、地元住民の様々な思惑が重なって、名阪国道は抜本的に見直されることなく、多くの矛盾を内包しながら開通したのである。日本で初めて建設された名神高速でも、設計・建設側の経験不足から、関ヶ原付近の「今須区間」に、下り勾配からきついカーブが続く未熟な線形が誕生し、開通以来、尋常ではない件数の事故が頻発したことがあった。昭和51年に改良された新道が建設されたが、名神高速が有料道路だったからこそ、速やかな予算措置が可能だったのではないだろうか。名阪国道の建設が始まったのは、名神高速道路が開通する数ヶ月前のことで、日本地図には1本の高速道路も描かれていない黎明期であった。無料の高規格道路を1000日で完成させます!──当時の建設大臣の発言は、飛ぶ鳥を落とすような勢いがあった我が国の高度経済成長を背景に、歓声とともに受け入れられたのだろうと思う。必ず、坂の上の雲をつかむことが出来るのだと、全ての国民が信じることが可能だった当時の風潮は、同じ好景気に湧く平成初頭に振り返っても、羨ましく感じられたのは、なぜだろうか。多少揺れが強いものの、「ドリーム堺」号は、闇をついて、ひたすら東京に向けて走り続けている。数日前に、同じく「サザンクロス」塗装のバスで大阪から信州に向かっていたことが、遠い昔のように感じられる。名阪を走り終えれば、「ドリーム堺」号は、中央道に入って信州を横断する面白い経路である。終点の東京駅八重洲南口の前に、新宿駅南口に寄るためであろう。前日に出て来たばかりの故郷を通過するのは面映ゆいが、白河夜船で通過してしまうことだろう。そのまま品川区旗の台の大学に直行するならば、6時00分着の新宿駅が便利であるし、大井町のアパートに寄るならば、6時30分着の東京駅である。どちらで降りようかな、と迷っているうちに、押し寄せて来る眠気が限界を超えたようで、僕は深い眠りに引きずり込まれた。にほんブログ村人気ブログランキングへ↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>

    第23章 平成2年 新しいバスの旅のはじまり「アルペン長野」号と山陰への壮大な道草
  12. 換え対象であった大蒸気機関車を速度・牽引力で超える性能で設計されました。車体形状は、当時幹線用機関車では珍しかった、運転台が車体中央にあるセンターキャブ(凸型)車体となっています。模型は、2分割のラジエターカバー形状に前面窓にワイパー・スノープロウを装備したB寒地仕様の全重連形1000番台を再現しているそうです。まずはパッケージ。単機走行~。前方より。もう1枚。重量感ありますね~。前面から。スノープロウ装備です。ライトもきれいに点灯します。側面から。車番は「DD51 1170」。メーカープレートは「日立」です。ファンも精緻に再現されてますね。反対側の前方より。前面のアップを。反対側の側面から。上方より。運転台付近を。ワイパー表現もありますね。きれいな出来でいい感じです。カプラー周り。DD51は、模型で見るより実物の方がずっと迫力ありますよね~。福知山線が非電化の頃、何度か大阪駅で見かけた記憶があります。目の前を通りすぎて行く時のあの大きなエンジン音、とても迫力あり、好きでしたね~。katoの国鉄時代のDD51暖地形、随分長く生産されてなかった気がします。ずっと待っていましたので嬉しかったです。ではでは、オケタ模型でした。KATO Nゲージ DD51 後期 暖地形 7008-N 鉄道模型 ディーゼル機関車Amazon(アマゾン)6,108〜8,800円KATO Nゲージ DD51 500 前期 耐寒形 鉄道模型 ディーゼル機関車 7008-PAmazon(アマゾン)6,160〜6,304円KATO Nゲージ DD51 0 暖地形 7008-K 鉄道模型 ディーゼル機関車Amazon(アマゾン)6,160〜11,800円カトー(KATO) KATO Nゲージ DD51 後期 耐寒形 JR仕様 7008-H 鉄道模型 電気機関車Amazon(アマゾン)6,145〜8,800円KATO Nゲージ DD51 後期 耐寒形 北斗星 グレーHゴム 7008-L 鉄道模型 ディーゼル機関車Amazon(アマゾン)6,030〜8,800円KATO Nゲージ DD51 800番台 高崎車両センター 7008-G 鉄道模型 ディーゼル機関車 赤Amazon(アマゾン)8,800〜9,999円KATO HOゲージ DD51 JR貨物更新色 1-702-1A 鉄道模型 ディーゼル機関車Amazon(アマゾン)14,180〜20,900円

    KATO  DD51 後期 暖地形  入線‼️  (品番 7008-N)
  13. 客様は、3番乗り場京王バスまでお越し下さい』との案内放送が流れ、道行く人々の何人かが、え?──と表情を変えてバスを見上げた。量販店から出てきたばかりのカップルが、何事か囁きながらバスを指さしている。「このバス、福岡まで行くって言ってなかった?」「マジかよ」などと話しているのであろうか。改札を受けて車内へのステップを昇れば、横3列独立席がずらりと並んでいる。横3列独立席を備えた夜行高速バスの座席配置は、縦に10列で、トイレ・サービススペースの座席を省き、最後部は横4列にして、29名の定員が標準的であった。後部の2~3列を横4列席にして定員を30~32名に増やす事業者も見受けられ、平成元年12月に開業した大阪-長野線「アルペン長野」号用の川中島自動車の車両も、そのような座席配置だったと記憶している。その後、東京の国際興業バスが運行する夜行高速バスは、車内トイレと反対側の列の利用客が行き来しやすいように、中央列の真ん中を1席欠いた定員27名となっており、名古屋の名鉄バスは縦9列の配置にして定員を26名に抑えて居住性を高めている。「はかた」号の定員は23名で、名鉄バスより更に3人を減らした座席配置だった。29人乗りの標準的な夜行高速バスに比べれば6席も少ないので、前後が大変ゆったりしている。リクライニングも深く、背もたれを目いっぱいに倒して、レッグレストとフットレストに足を乗せると、身長175cmの僕が膝を曲げることもなく、まるでベッドのような感覚で、すっかり寛ぐことができた。僕が指定された座席は、右側最前列であった。前方の眺めも合わせて堪能できる、特等席である。一般的に、最前列は足元が窮屈で、忌避する利用客もいるのだが、「はかた」号ではゆったりと広く、足を真っ直ぐ伸ばせるほどである。僕の足が短いだけなのかもしれないけれど。ここで、福岡までの15時間を過ごせるとは、夢のようだった。最後部には喫煙サロンが設けられている。喫煙に対して社会が寛容だった時代で、他にも自席で喫煙できるバスも少なくなかったが、「はかた」号は、個々の座席を禁煙にして、サロンで喫煙するようにしたのである。航空機が全面的に禁煙となったのが、この旅から9年後の平成11年である。僕も高速バスの車内で一服くゆらせたこともあったが、狭い車内であり、いつの間にか吸うのは控えるようになっていた。「はかた」号の車内でも1本も吸わなかったが、全然気にならなかったから、僕も余程のバス好きなのだと思うが、サロン席の居心地も知らずに終わったのは残念だった。そのうちに、「はかた」号のみならず、高速バスは全面禁煙が当たり前になり、サロン席も消えた。運転手は、他の夜行高速バスと変わらず、2名態勢である。床下トランクへの荷物の積み込みを終えた若い運転手は、「俺、今日が初めてだから、教えてもらいながら行くよ」と、ターミナルの係員と笑い合っていた。「はかた」号は、僕が乗車する1週間前に開業したばかりの、真新しい路線である。東京-福岡間1161.1㎞を、15時間10分かけて結ぶ、誰もが度肝を抜かれた日本最長距離路線バスだった。開業時のチラシには、あや取りをしている博多人形の可愛らしい姿に、「よう結ばれたとです」と書かれていて、それは僕の思いでもあった。昭和44年に、日本で最初の夜行高速バス「ドリーム」号が、東京と大阪を結んで走り出して21年、昭和58年に「ドリーム」号の長距離記録を亢進して、大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号が登場してからも7年の歳月が流れている。開業時には、それぞれ日本最長距離路線に輝いた2つの高速バスを、「はかた」号は、組み合わせてしまったわけである。まさか、東京から福岡まで、1本のバスで行ける日が来ようとは、思ってもいなかった。開業当初は、東京側が京王バス、福岡側が西日本鉄道バスの担当で、新宿発17時00分(京王)・19時45分(西鉄)、福岡発16時45分(西鉄)・19時45分(京王)の2往復が運転されていた。2本のバスの座席を埋める充分な需要が見込まれたのであろうが、所要時間が飛び抜けて長いから、目的地での運転手の休憩時間を長めに取るために、早い便と遅い便を設けたのではないかと思われる。2人の運転手が、およそ2時間おきに交替していくわけで、それでも、1人あたりの運転時間は、片道7~8時間、距離にして600km近くに及ぶ。開業に当たっては、医学的見地からも、慎重に安全性が検討されたと聞く。京王バスは、座席配置を変更した専用車両を用意したにもかかわらず、九州まで足を伸ばす最長距離バスであることを強調するデザインではない。側面の行き先表示も、はめ込みである。遠くから眺めれば、同じ乗り場から発車する山梨・長野方面の「中央高速バス」と見分けがつかない。一方、西鉄バスの車体には「HAKATA」のロゴが大書され、長距離バスの王者の風格に溢れていた。そのデザインは岡本太郎氏によるもので、太陽の塔が描かれている。恥ずかしいことに、その頃の僕は、この図案が太陽の塔と知らず、跳ねる波の上に、ラッコか何かが、仰向けに戯れているものと思っていた。僕が「はかた」号に乗った日は、予約済みの乗客が遅刻したようで、発車が数分遅れたけれど、「じゃあ、行ってきます」「気をつけて」と、2人の運転手と係員が挙手の礼を交わし、スィングドアがゆっくりと閉められた。福岡への壮大なバス旅の始まりだった。再びホイッスルが鋭く鳴り渡り、警備員さんに制止された人々が足を止めて、道を開けて見守る中を、「はかた」号は、狭い路地をいっぱいに使って、曲がり角を静々と曲がっていく。先頭の座席で、運転手の見事なハンドルさばきを眺めるのは、この上なく楽しい。新宿駅西口のロータリーから高層ビル街に左折した「はかた」号は、車でごった返す甲州街道に出て、初台ランプから首都高速4号線に駆け上り、速度を上げた。窓外に広がる東京の街並みに、黄昏が迫っている。日が短くなって来たな、と思う。高井戸ランプで中央自動車道に入り、道幅に余裕ができると、「はかた」号の走りっぷりはびしっと安定した。八王子料金所を過ぎ、関東平野に別れを告げて高尾の山々に分け入る頃には、釣瓶落としの秋の日がとっぷりと暮れた。小仏、笹子などの煤けたトンネルを抜け、家々の灯が一面に輝く甲府盆地に下りていけば、今度は、信州への高度差を詰める長い登り坂に挑んでいく。闇の中で、沿道の建物や木々の黒い輪郭だけが、窓外を過ぎ去っていく。時折り、その視界を遮って、大型トラックがかなりの勢いで追い抜いていく。九州へ向かうバスが中央道を使うことを、僕は誇らしく感じていた。日本一の長距離バスが、故郷の長野県を通っていくとは、実に光栄ではないか。中央道を使って、東京から西へ向かう高速バスの草分けは、昭和63年12月に開業した、池袋と伊勢を結ぶ高速バスだった。一見、大回りのように見えても、首都高速3号線大橋ランプから愛知県小牧ICまで東名高速経由で353km、首都高速4号線初台ランプから中央道経由で小牧ICまでは357kmである。池袋や新宿から、明治通りや山手通りで、東名高速と繋がっている首都高速3号線に乗るまでの時間を考慮すれば、アップダウンの激しい山岳ハイウェイを通っても、手前の首都高速4号線から高速走行ができる中央道経由の方が距離が稼げると、担当者が判断したのだろう。都心部を車で移動すると、僅か数キロでも、渋滞で何十分と費やしてしまうことがある。その後、新宿や池袋を発着する中央道経由の路線は増加し、「はかた」号も中央道経由で登場したのだった。新宿を出発してから、およそ2時間半が経過して、「はかた」号は諏訪湖SAに滑りこんだ。おお、故郷の土を踏めるのか、と腰を浮かしかけたが、休憩の案内はなく、運転手が交替しただけで、「はかた」号は長野県唯一の停車地点からすぐさま走り出してしまう。新宿を19時45分に出てくる次の便ならば、諏訪湖SAで開放休憩になるらしい。街の灯の真ん中に、黒々と開いた大きな落とし穴のような諏訪湖の夜景を後にして、バスは、木曽山脈の山麓に沿って、伊那谷を南下する。昼間ならば、左手には天竜川の悠然とした流れと、河岸段丘に開けた町並みや田園、その向こうの赤石山脈が眺められるはずである。今は、照明も殆んどない暗闇のハイウェイをひた走りながら、地形の起伏を体感するより他に仕様がない。空想を逞しくすれば、星空のように、灯が散りばめられた街と街を伝っていく夜行バスは、天の川を渡っていく銀河鉄道にも似て、なかなかロマンチックである。恵那山の長大トンネルをくぐり抜けて岐阜県に入れば、折り重なる山塊を縫って、右に左に急カーブが続く。このあたりは中央道でも指折りの難所で、駿足を誇る「はかた」号も、団子状態で密集して走るトラックの群れを、なかなか抜き去ることができない。不意に、身体が前につんのめりそうになるほどの急ブレーキがかかった。前方のトラックが、速度を落としながら、ハザードランプを点滅させている。間もなく、車の流れは完全に止まってしまった。これまで、渋滞や工事を予告する標識は全くなかったのだが。床下の仮眠室で休んでいた交替運転手が出てきて、運転席の車載電話をとり上げた。「もしもし、福岡定期です。そちらに何か事故の情報は入ってませんか?──そうですか」何も情報はないらしい。乗客たちは、押し黙ったまま、景色が動かない窓に目を向けたり、ビデオ放映されている映画を見ている。30分近く経った頃、ようやく、車の列がじりじりと動き始めた。間もなく前方に現れたのは、酸鼻を極めた事故現場だった。中央分離帯に乗り上げて傾いた大型トラック。その先に、トレーラーに追突して前部が潰れたトラック。トレーラーはジャックナイフのように折れ曲がって道を塞ぎ、トレーラーと別のトラックに挟まれて大破し、黒こげになった乗用車。路面にはガラスが散らばり、輻輳するブレーキ痕が生々しい。そろそろと現場の脇をすり抜けるバスの車内にも、溜め息が漏れた。犠牲者が出ていないことを祈るのみである。「ええ、現場は恵那インターより2キロほど手前ですね。車5台の事故です。現場検証がまだみたいですので、もしかしたら通行止めになるかもしれません。後続便に連絡願います。よろしく」運転手が電話で報告する。一瞬で大惨事が誘発され、巻き込まれた人々の人生を寸断してしまうのが、高速道路の事故である。もう1、2分、早く走っていれば、「はかた」号が巻き込まれたかもしれない。平成15年には、中国自動車道で、2台の「はかた」号が多重衝突事故に巻き込まれ、運転手2名が死亡、乗客乗員合わせて36名が負傷するという悲劇も起こっている。安くて快適ではあるけれど、高速バスには、常に、そのような危うさが付きまとうのだと思う。事故渋滞で30分ほどロスしたが、その後の走りは順調だった。中部山岳地帯を走り抜けて、小牧JCTで東名高速道路へ合流し、小牧ICで、そのまま名神高速へ移っていく。中央道とは比較にならないくらいに交通量が増えたが、「はかた」号は排気ブレーキを巧みに使いながら、車間距離を保って、慎重に走り続けた。午後10時半、養老SAでの10分間の休憩で、初めて外に出て一服した。17時などという早い時刻に発車する夜行高速バスも初体験だったが、 発車して5時間も経ってから最初の休憩とは、さすがに、日本最長距離高速バスは全てにおいて桁違いである。見上げた満天の星空は、しん、と澄み切っていた。暗闇のハイウェイに戻り、関ヶ原を越えて滋賀県に入ったあたりで、消灯時間を迎えた。交替運転手が全てのカーテンを閉めて回り、車内を漆黒の闇が支配する。僕は、周囲に外の光が漏れないよう、カーテンの下に首を突っ込んで、しばらく前方の眺望を楽しんだ。午前0時過ぎに、水銀灯が眩い吹田JCTで、バスは中国自動車道に入っていく。さすがに疲れを覚えて、リクライニングを倒したけれど、内心は驚嘆に満ちていた。つい数年前まで、夜行高速バスが走れる限界は、東京から西ならば、せいぜい大阪あたりまで、と考えられていた。それだけに、昭和63年に、品川から鳥取へ向かう運行距離721.6kmの夜行高速バス「キャメル」号に乗って、深夜の3時頃に大阪を通過した時には、バスがここまで遠くへ走れるようになったのか、と少なからず感慨を覚えたものだった。東京を起終点とする最長距離路線は、「キャメル」号の半年後に登場した松江・出雲行き「スサノオ」号が853.5km、平成元年に広島行き「ニューブリーズ」号が916.9kmと、短期間で一気に運行距離を伸ばした。いずれの路線でも、未明の大阪通過に感動したものだったが、平成2年開業の「はかた」号ときたら、日付が変わる頃合いに、早くも大阪まで達してしまったのである。車内灯がともされ、重い瞼を上げると、「はかた」号は鹿野SAに駐まっていた。ここは山口県である。中央道での遅れを充分に取り戻したようで、運転手は20分以上もの大休憩を宣言した。外に出て、思いっきり伸びをすると、朝の冷気が清々しい。良い天気の1日になりそうだった。十数時間も車内で過ごした疲労は、全く感じなかった。車内に戻ると、「お夜食をどうぞ」と、運転手からビニール袋が配られた。ラスクとサラダの缶詰、烏龍茶のパックが入っていて、ありがたく頂戴する。午前6時になるかならないかというこの時間帯の食事を、どうして夜食と呼んだのか、どうでもいいようなことが、ちょっぴり気になったが、飛行機に乗っているような気分を味わえる、思わぬ軽食サービスであった。ラスクをかじっているうちに、バスは動き出したが、速度を上げないまま、ガソリンスタンドに入っていくではないか。何事かと腰を浮かしかけたが、スタンドの係員さんは、愛想よく、ホースを持って近づいてくる。乗っている高速バスが、営業中に給油するのは、初めての経験だった。うたたねをしたり、全く知らない土地をぼんやりと眺めて時を過ごしているうちに、ハイウェイを取り囲む山々の間隔が狭まってきた。沿道の繁みの合間に見えた下関ICも、窪みのような地形だった。本州の果てが近づいているのに、これほど山深くなって良いのだろうか、と心配になりかけたが、午前6時半、突如として視界が開けて、バスは中空に飛び出すように、関門大橋に差し掛かった。眼下には、朝日に波頭がきらめく壇ノ浦が望まれる。幾筋もの白い航跡を引きながら、船が行き交っている。透き通るような海の青さに、心が洗われる思いだった。昭和61年に「ムーンライト」号で朝を迎えて、橋のたもとの壇ノ浦SAで休憩したことを、昨日のことのように思い出した。僕にとって初めての九州上陸が高速バスだったのだが、その4年後に、東京から乗り換えなしで来られる日が訪れようとは、夢にも思わなかった。我が国の高速バスは、それだけ力を蓄えたのである。橋長1068m、高さ61mの巨大な吊り橋を瞬く間に渡り終えれば、いよいよ九州へ上陸である。和布刈トンネルの入口に掲げられた「ようこそ九州へ」の看板に、はるばる遠くまでやって来たものだ、という感動が込み上げてくる。「もしもし、福岡定期です。おはようございます。今、門司インターを通過しました。定刻よりちょっと早く運行しています」車載電話で業務連絡する交替運転手の声も、そこはかとない安堵感がこもっているように聞こえた。陽光が踊るように跳ね回る北九州の丘陵地帯を、「はかた」号は力強く走りこんでいく。秋であっても、東京近辺に比べれば明らかに山々の色彩が濃い。九州の北部は平坦であろう、という思い込みがあったが、北九州市を抜けた先の地形は、意外と険しいことを知った。身をくねらせて山あいを縫う九州道を、「はかた」号は、ひしめくトラックや乗用車と団子状態になって走り込んでいく。「はかた」号は、午前7時半に、福岡ICの料金所をくぐった。とうとう福岡まで来たのか、と夢の続きを見ているような心持ちである。それまでと打って変わって幾何学的な景観に囲まれながら、福岡都市高速4号線、1号線、環状線を走り抜ければ、博多東ランプで、「はかた」号の首都高速初台ランプ以来の15時間近くに及ぶ高速走行は終わりを告げた。福岡市内でハンドルを握っているのは、出発前に、「俺、初めてだから」と笑っていた、若い運転手である。「そこの角を左折。大回りせんと、曲がり切れんよ」「はい」ガイド席に座ったベテランの運転手が、道を教えている。開業からまだ1週間しか経っていないし、短時日で何度も往復できるような距離ではないのだから、事前にどれほど運転手の習熟期間を設けたのだろうと思う。JR博多駅に隣接した交通センター2階の降車場に到着したのは、午前8時ちょうどだった。1人旅の乗客ばかりだったらしく、全く喋り声が聞かれない静かな高速バスだったな、と思う。終始、どこか取り澄ました雰囲気が漂っていたが、降りてきた乗客の表情には、さすがに、多少の疲労の色が窺えた。福岡の市街地が、江戸時代には武士の町だった福岡と、商人の町だった博多に分かれていたのは、有名な話である。街の玄関であるJRの中心駅が、都市名と異なるのは、六大都市の中では福岡だけと聞いた。福岡の駅名は、地元の私鉄で、「はかた」号の運行事業者でもある西日本鉄道のターミナル駅に付けられている。西鉄が構想した東京行き高速バスを、「ふくおか」号ではなく、どうして「はかた」と名付けたのであろうか。博多駅交通センターに着いてから、ふと、そんな疑問が湧いてきた。僕のような旅人にとっては、「ふくおか」よりも「はかた」の方が、何となく情緒ある響きに聞こえるから、異論はない。東京から福岡まで、気の遠くなるような長い道中に感じるのではないかと思っていたが、意外と呆気なかった。もう着いたのか、と拍子抜けするくらいだった。だからという訳ではないけれど、僕は博多駅交通センターで、佐賀行き高速バス「わかくす」号に乗り込んだ。佐賀県の県木・県花である楠の名をつけた高速バスである。白状するならば、その後に乗り継ぐつもりだった鹿児島行き高速バス「桜島」号が発車する時刻までの、暇つぶしだった。20~30分おきに運行され、自由席で、思い立ったら気軽に飛び乗れる、下駄履きの高速バスである。「わかくす」は博多駅交通センターを出ると、那珂川を渡って、福岡随一の繁華街、天神バスセンターに寄る。今は、洒落た駅ビル「ソラリア」の3階に移っているが、当時の天神バスセンターは地平にあって、薄暗いトンネルのような入口にバスが進入する時には、バスの屋根が天井をこすらないかと、心配したものだった。バスセンターを出て、渡辺通りを北上し、天神北ランプから福岡都市高速へ入っていく。身体がのけぞるような、インター流入路の急勾配を駆け上がると、いきなり、青い海がフロントガラスいっぱいに広がる。白く航跡を描いて船が行きかう博多港の向こうに、白い砂州が長く伸びる、海の中道が霞んでいる。その後、福岡発の高速バスに乗るたびに、この瞬間がいつも楽しみになった。同じような爽快感は、梅田の阪急三番街にある高速バスターミナルを発車したバスが御堂筋の高架に飛び出す時にも味わえるが、そちらは、ごちゃごちゃした繁華街との対比が効果を上げている。天神北の方は、それほど街並みの密度が高いわけではないけれど、広大な海が現れる旅の幕開けは感動的である。埋め立てられた港湾と海の遥か彼方には、海の中道と志賀島が霞んでいる。このダイナミックな演出を初めて味わったのが「わかくす」号だった。その導入部だけで、僕は、九州の高速バスの虜になった。バスは、海上に飛び出しそうな勢いで流入路を登り切り、右へ90度カーブして、都市高速2号線に合流する。千鳥橋JCTからビルの谷間を縫う都市高速2号線を快調に走り続けたが、間もなく、福岡空港の南端にあたる月隈ランプで下道に降りてしまう。ここから、九州自動車道の大宰府ICまでの国道3号線は、当時、名だたる渋滞多発区間で、その時もぎっしりと渋滞していたから、誠にもどかしい走りになってしまう。当時の福岡発着の高速バス路線は、この区間がネックになって、20分~30分程度、遅れることが多かった。都市高速2号線が太宰府ICまで全通するのは、平成11年3月のことである。やっとの思いで九州道に入ると、「わかくす」号は水を得た魚のように生き生きと速度を上げた。こんもりとした小山が点在し、坦々とした平野が続く車窓である。車窓左手に太宰府の町並みや、6世紀以降に朝廷の軍事・外交・九州統治の出先機関である都府楼跡、そして大野城・水城跡を懐に抱いた大野山と宝満山がかすかに見える。白村江の戦いの前後、この地は対大陸の最前線だった。大野山には四天王寺が建立され、当時の朝廷が日本の国防を祈願したという。千数百年の歳月が過ぎ、この地も幾度となく戦火に見舞われたが、これらの遺跡は古代から現代に至るまでの人々の生き死にを静かに見守ってきたのである。筑紫山地の裾野をすり抜けて筑後平野に飛び出したバスは、鳥栖JCTで、長崎自動車道へと大きく右へ舵を切った。鳥栖は、既に佐賀県内である。九州道と直角に長崎道と大分道がクロスし、鉄道でも、鳥栖駅で鹿児島本線と長崎本線が分岐する交通の要所に当たる。「わかくす」は、やや色褪せた色あいの脊振山地の南側の山裾を走り、佐賀大和ICで高速を降りて、佐賀市内へ入っていく。長崎本線の高架下にある、コンクリートが打ちっぱなしで殺風景な佐賀バスセンターに到着したのは、予定より30分遅れであった。佐賀駅から博多行きの特急列車「かもめ」でとんぼ返りした。「かもめ」の行き足は「わかくす」号より遥かに速かったが、自由席は満席で座れず、僕はデッキで過ごす羽目になった。天神バスターミナルで鹿児島行きの高速バス「桜島」号に乗り継ぎ、九州の縦断に挑んだ。間に「わかくす」号を挟んだけれども、「はかた」号からたった1度の乗り換えで、東京から鹿児島へ行ける時代を迎えていたのである。博多駅交通センターを11時47分に発車する「桜島」号に乗り込んでみると、昼行便でありながら、横3列シートが並んでいるではないか。夜行高速バスのような独立席ではなく、左側2列・右側1列という配置で、通路が1本で済むので、座席の幅はかえって広くなっている。こいつはいいぞ、と嬉しくなる。これから4時間半のバスの旅を、愉快に過ごそうと思う。博多での乗車は10人ほどであったが、次の天神バスセンターで満席になった。渡辺通りを北上し、都市高速の天神北ランプの急勾配を飛行機の離陸のように駆け上がると、視界いっぱいに真っ青な博多湾が広がる。つい数時間前に「わかくす」号から眺めた車窓で、その先で都市高速が終わり、九州道に入るまで渋滞に引っ掛かるところも二番煎じであるが、今度は鹿児島行きの高速バスに乗っているのだぞ、と思うだけで心が踊る。九州道はJR鹿児島本線とほぼ並行して造られているが、盛り土の上に設けられているだけに、鉄道よりも見晴らしが良い。こうしてバスの車窓をぼんやり眺めているだけでも、大陸と日本の文化が交差する九州の歴史の奥深さが心に迫ってくる。山麓に広がる筑紫平野は、平和そのものだった。背振の峰々を右手に望みながら、先細りになっていく福岡平野を抜けると、筑後川を抱く筑後平野に飛び出していく。新鮮な車窓が、快調にハイウェイを下っていく「桜島」号の窓外を飛ぶように過ぎ去っていく。平行する鹿児島本線は、大牟田、玉名と有明海に沿った平地を西側へ膨らむように大回りするが、久留米市内で筑後川を渡った九州道は、九州山地が裾を伸ばす丘陵地帯に踏み込んで真っ直ぐに南下し、熊本平野へ飛び出していく。熊本の先でも、JR鹿児島本線や国道3号線は、水俣、出水、阿久根、川内、串木野と、九州の西岸を経由するが、九州道は、九州山地の真ん中を貫いている。みるみる左右から山々が押し迫ってきて、「桜島」号は、熊本、宮崎、鹿児島の県境を成す加久藤カルデラの外輪山と国見山地が重なり合う峠越えに挑んでいく。「人吉」の標識が見えると、バスは速度を緩めて、国道221号線に下りた。九州道は、人吉-えびの間がまだ建設途上だった。前後の高速道路が先に通じているにも関わらず、完成が遅れた区間は、大抵が我が国有数の峻険な地形にある。東北自動車道碇ヶ関IC付近や北陸自動車道の親不知、東海北陸自動車道の御母衣湖付近、大分自動車道の湯布院付近など、僕も幾つかの区間を並行する一般道を走る高速バスで通過した経験があるけれど、九州道人吉ICとえびのICの間に立ち塞がる加久藤越えの迫力は抜きん出ていた。九州道が建設されるまでの九州縦断ルートは国道3号線だったのだろうが、加久藤越えを挟んで九州道が建設されてから、国道221号線が九州縦断のメインルートを担うようになったので、すれ違いにも苦労するような大型車が多い。正面に立ちはだかる国見山と百貫山を越えるために、昭和47年に掘削された長さ1808mの加久藤トンネルと、その先の人吉ループ橋で高度を稼ぐ峠越えは、南九州の山深さを目の当たりにして、息を呑む思いがした。八代と鹿児島の間で、九州道はJR肥薩線に沿っている。肥薩線は先に開通したものの、急勾配を登り下りする急峻な線形が災いして、海岸に沿って鹿児島本線が開通すると、メイン・ルートを譲ったのである。幹線としての役割を終えた線区を、最新の高速道路が先祖返りのようになぞっているのは、建設技術の進歩とともに、肥薩線の経路が鹿児島本線より短い距離であることや、鉄道よりも車の方が勾配に強いためであろう。肥薩線で断続するトンネル群で最長なのは、延長2096mの矢岳第1トンネルである。完成したのは明治42年で、我が国で初めて鉄道が開通してたかだか30年に過ぎないという時代であるから、トンネルを極力短くするために、前後の2ヶ所にスイッチバックを設け、更にループ線で標高を稼いでからトンネルに入る線形となった。軟弱な地質と異常出水に苦しめられ、資材の運搬にも苦労するような山奥での難工事を強いられた矢岳第1トンネルであったが、完成すれば、青森から鹿児島まで鉄道が繋がるという命題が課せられていた。九州道の人吉ICとえびのICの間が開通するのは、平成7年7月である。それにより、九州道の全通のみならず、青森から鹿児島までの約2170kmが、高速道路で途切れることなく結ばれることになったのは、奇しくも100年前の鉄道と同じであった。矢岳峠と加久藤峠は、1世紀の時を隔てて、我が国の交通史に名を刻んだのである。尾根と谷が入り組む複雑な地形を、国道221号線は、幾つものトンネルと橋梁で渡っていく。勾配は決して生易しくはないものの、「桜島」号の走りは力強い。高速バスによる加久藤越えでは、先人たちが歯を食いしばりながら越えた往年を偲ぶことは難しかった。加久藤盆地と、その向こうの韓国岳を筆頭とする霧島の峰々が、窓外を過ぎ去る山裾の間に垣間見える。平行する肥薩線でも、北海道根室本線の狩勝峠や信州篠ノ井線の姨捨と並ぶ、日本三大車窓の1つに挙げられている区間である。どこか阿蘇に似ている車窓であるけれども、加久藤火山は33万年前に大噴火を起こし、宮崎から薩摩半島、大隅半島のあたりまで火砕流で埋め尽くしたと聞けば、長閑な風景にも畏怖の念が込み上げて来る。加久藤盆地は、その火口に形成されたカルデラ盆地なのである。紛れもなく、火の国を旅しているのだな、と思う。えびのICで九州道に乗ると、しばらくして山なみが後退し、離島連絡の拠点らしく可愛らしいプロペラ機が翼を休めている鹿児島空港が見えた。鹿児島空港の周辺は、十三塚原と呼ばれる広大で平坦なシラス台地から成り、この土壌にしては珍しく水源が豊富であるため、キャベツ、ダイコン、ジャガイモ、鹿児島茶、みぞべ茶などの畑作が盛んである。12世紀に国分八幡神社と宇佐八幡神社の間で正統の八幡宮の地位を巡る論争が勃発し、国分八幡の正統性が疑わしいと考えた宇佐八幡の神官たちが社に火をかけたところ、煙が「正八幡宮」の文字を示したために驚き慌てて逃げる途中、倒れた木の下敷きとなって13名が命を落とし、13基の塚が建てられたという伝承から、十三塚原と呼ばれるようになったと聞く。台地そのものは、加久藤火山から噴出した加久藤火砕流や、11万年前に阿多火山から噴出した阿多火砕流、5万年前と2万5000年前に姶良火山から噴出した岩戸火砕流、妻屋火砕流、入戸火砕流の噴出物である凝結凝灰岩が積み重なっている。水が乏しい火山灰地質であったために、昭和初期までの主要作物は菜種程度であったが、昭和47年の鹿児島空港の移転を期に灌漑事業が始まり、野菜や飼料用作物が豊富に栽培されるようになったのである。九州の近代史で忘れてはならないのは、鹿屋や加世田といった数々の特別攻撃隊の基地をはじめとする、太平洋戦争末期の沖縄戦の最前線としての爪痕であろう。十三塚原にも海軍航空隊の飛行場が建設され、147名の特攻隊が出撃したという。太宰府が置かれた古代、中世の元寇、そして近代に至るまで、九州は祖国防衛の重要拠点だった。鹿児島空港ICを過ぎたあたりで、九州道は、起点から300kmを超える。折り重なる山々の向こうに、形の良い弧峰が顔を覗かせた。桜島ではないか、と僕は思わず身を乗り出した。ついに九州の南端まで来たのだ、と居ずまいを正す思いだった。東京から1400km、20時間に及ぶ遠大なバス旅が完結しようとしていた。バスの座席に座っているだけであったけれども、達成感が込み上げてくる。せっかくたどり着いたのに、鹿児島では大した見物もせず、とんこつラーメンに舌鼓を打ったくらいで、大阪阿部野橋行きの夜行高速バス「トロピカル」号で折り返した。平成元年に開業した鹿児島と大阪を結ぶ夜行高速バスは、近鉄バスと鹿児島交通が運行するいづろ高速バスセンター発阿部野橋行き「トロピカルライナー」号ばかりでなく、阪急バスと南国交通が組んだ西鹿児島駅発梅田行き「さつま」号、そして南海バスと林田産業交通による伊敷発難波・堺行き「サザンクロス」号の3路線によるトリプルトラックとなった。鹿児島側の停留所は西鹿児島駅と天文館の2ヶ所だけが共通していたものの、まさに、平成初頭に始まった規制緩和の申し子のような路線展開だったのである。僕が3路線の中で「トロピカルライナー」号を選んだのは、これと言った思い入れがある訳ではなく、近鉄の高速バスと、その起終点となっている阿部野橋バスセンターを利用したことがなかったからである。始発のいづろバスセンターから乗りたかったけれども、何処にあるのか見当もつかず、探すのも面倒だったので、僕は西鹿児島駅から乗ることにしていた。いづろ、とは、高速バスファンになったからこそ知った地名である。鹿児島随一の繁華街である天文館の東に位置する、海岸に近い地区であるらしい。漢字で書くと「石灯篭」で、第15代薩摩藩主島津貴久の菩提寺である南林寺の石灯篭が立っていたことが、由来である。西鹿児島駅では、18時55分に「サザンクロス」号、19時に「さつま」号、そして我が「トロピカルライナー」号は19時10分と殿の発車だった。「お待たせしました、梅田行きです」「難波、堺行きです」「上本町、阿倍野橋行きです」と、駅前停留所に横づけされたバスから降りてきた運転手が声を張り上げるたびに、居並ぶ待ち客が少しずつ腰を上げる。「お客さんは梅田やね。これは難波行きやから、もう少し待っといて」などと、改札をする運転手の声が聞こえる。トリプルトラッキングの良し悪しは別として、バスファンとしては、次々に夜行高速バスが発車する光景はワクワクする。「阿倍野橋ですね。ありがとうございます。お席は6Cですね。お荷物はございませんか。乗車券はお預かり致します」大阪ばかりでなく福岡方面にも似た時刻の発車便があるためか、念入りに乗車券を確かめる運転手の改札を受け、僕は「トロピカルライナー」号に乗り込んだ。「トロピカルライナー」号の営業距離は935.5kmで所要時間は12時間半、当時で有数の長距離路線であったが、1000kmを越える「はかた」号に乗った直後であるから、不感症になってしまったようで、それほどの感動は湧いてこない。「はかた」号の成功を受けて、平成3年に登場した名古屋-鹿児島線「錦江湾」号が1101.4km、同じ年に開業した東京-下関線「ドリームふくふく」号が1093.2km、そして平成5年開業の品川-萩線「萩エクスプレス」号が1074.9kmと、続々と営業距離が1000kmを上回る高速バスが登場する。平成23年に1170kmを走破する大宮・池袋・横浜-福岡線「ライオンズ・エクスプレス」号の登場で、我が国の長距離高速バスは頂点を極めることになる。「トロピカルライナー」号の定員は29名と標準的で、「はかた」号のゆとりが懐かしかったが、近鉄の夜行高速バスは前の席の背面下部に足先を挿入できる空間が設けられているので、足元が広く安定し、ゆったりと身体を伸ばせる。寝るために最上の構造ではないか、と感心させられるが、12時間以上もぶっ続けで眠る人がいればの話である。発車した時から、車内のカーテンは全て閉め切られており、「早く寝なさい」と強要されているかのようだった。19時10分、「トロピカルライナー」号は、悠然と西鹿児島駅を後にした。いよいよ東京への長い帰路の始まりである。大阪行きのバスの車内で、「東京へ!」などと力んでいるおかしな乗客は、僕1人だと思うけれど。「トロピカルライナー」号は天文館で乗客を加え、きついカーブをものともせず、市街の背後にそびえる丘をひと息に駆け上がった。鹿児島ICで九州道に入ると、車窓は暗い夜の帳に塗り潰された。眠る人は少なく、誰もがカーテンを開けて暗い車窓に目をやったり、読書灯をつけて本を読んでいる。大都市に向かう上り便は、朝の渋滞を避けるためと、早朝の交通の便が確保されているので、長距離路線になるほど、地方の発車時刻が早まる傾向があるのは承知していたが、それみろ、午後7時過ぎに寝る人などいるものか、と思う。「トロピカルライナー」号は、えびのICで国道221号線に下りた。国道は正面にそびえる加久藤越えに向けて、一気に高度を稼がなければならない。螺旋状の道路が急斜面から張り出し、麓からはオレンジ灯に彩られた赤いループ橋がぐるぐると巻きながら、遥か上方まで続いているのが見える。「トロピカルライナー」号はギヤを落とし、エンジン音を轟かせながら、ゆっくりと登っていく。眼下に広がるえびの市の灯が、回りながらどんどん小さくなっていく。通って来たばかりの道の照明が、足元に見え隠れする。もう、これ以上は登れません、と音を上げるかのように、国道221号線は加久藤トンネルに入った。「桜島」号で通った昼間と変わらず大型車が多く、暗く狭いトンネル内でのすれ違いは、なかなか迫力がある。右手の暗闇の奥には、五木の子守唄で知られる五木村や、平家の落人伝説で名高い御家荘がある。この辺りは、昔から、鳥も通わぬと言われた秘境なのだ。灯の乏しい暗闇と相まって、昼間には実感できなかった九州山地の奥深さが、恐ろしいほど心に滲みた。八代でようやく山地を抜け、平野部に広がる夜景を見下ろして間もなく、「トロピカルライナー」号は宮原SAに滑り込んだ。「10分ほど休憩致します。ここを出ますと、明日の朝まで降りることができませんので、御用のある方は、ここでお済ませ下さい」と、交替運転手がアナウンスした。出発してしばらく走ると、左手に熊本市の灯が金色の帯のように広がった。一昨日の夕方に新宿を発ってからの様々な思い出が脳裡に蘇り、九州に別れを告げようとしていることに思いが及ぶと、窓に映る夜景が、不意に滲んだ。雨が降っている訳ではなかった。もう1度、時間を戻せたら、と思う。熊本平野、筑後平野、筑紫山地、そして福岡平野。旅の思い出がたくさん詰まった山河が、走馬灯のように、次々と窓外を過ぎ去っていく。東京に戻れば、厳しい現実が待っている。翌年3月の医師国家試験に向けて、本格的な準備を始める時期が来ていた。大学病院での臨床実習や臨床講義が年内に終わりを告げ、予備校のように、国家試験の合格を目的とした集中講義が始まることになっていた。国家試験の分厚い過去問集を紐解きながら、このような筆記試験だけで医師の力量を図れるものか、などと心の中で抗ってみても、合格しなければ医師として働けないのだから、通過儀礼と諦めて、遮二無二取り組むしかない。今回の九州行は、そのための最後の息抜きと考えていた。我が国で最長距離を走るバスに乗り、東京から鹿児島まで往復する旅は、学生時代の終わりに相応しい。ところが、期待したほどの元気が湧いてこないのは、どうしたことなのか。旅を終えれば嫌でも直面する現実を思うと、溜め息しか出てこない。午後10時半頃、北九州市の手前で消灯のアナウンスがあり、交替運転手が前の仕切りカーテンを閉めて、床下の仮眠室に潜り込んでいった。眠るのが勿体なくて、僕は、闇に包まれた車内に光が漏れないよう、仕切りカーテンの隅をそっとめくり、なおも食い入るように外を眺め続けた。前方に、小さな赤い灯の点滅が瞬いた。関門大橋の橋脚である。「トロピカルライナー」号は、路面の継ぎ目で大きくバウンドして、九州の大地を離れた。眼下に黒々とぬめる海面には、船の明かりが点々と散ばっていた。阿倍野橋の近鉄高速バスターミナルは、JR天王寺駅とあびこ筋を挟んだ、近鉄百貨店の袂に設けられている。眠い目をこすりながら「トロピカルライナー」号を降りると、バスが歩道に上がり込んでいるではないか。何だここは、と目を見張った。バスが停車しているスペースは舗装の色が多少変わっているくらいで、何の変哲もない歩道にしか見えない。車体に触れんばかりに、歩行者が闊歩している。夜ともなれば、この歩道に、各地への方向幕を掲げた何台もの長距離高速バスが、我が物顔に上がり込んでくるのだろうか。他には例を見ない、とても奇妙な構造のターミナルだった。近鉄百貨店は、まだシャッターを固く閉ざしたままなので、発券窓口や待合室があるのかどうかも定かではない。僕は、向かいのJR天王寺駅から大阪環状線を半周し、大阪駅から梅田三番街の阪急高速バスターミナルに向かった。開放的だった阿倍野橋に比べれば、天井が低くて圧迫感があるけれど、日曜日だから人通りは少ない。目指しているのは、昨年に開業したばかりの岡谷・諏訪・茅野行き「アルペン諏訪」号である。梅田を午前8時30分に発車した「アルペン諏訪」号は、諏訪バスのスーパーハイデッカーだったが、昼行高速バスであるから、距離にして376.9km、5時間45分の長旅であっても、横4列シートであった。ただし、前後が9列に抑えられているので、足元は伸び伸びと広く、隣りに相客もいないので、ゆったりと寛いだ。ちなみに、共同運行の阪急バスの車両は、横3列独立シートであるらしい。薄暗いバスターミナルを抜け出せば、梅田の路地は車で埋め尽くされ、商都大阪の活況を目の当たりにする思いだった。この年の4月から9月まで大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」が、幕を閉じたばかりだった。フロントガラスいっぱいに青空を映しながら、急傾斜の流入路で御堂筋の高架道路に駆け上がると、大阪の街並みが一望のもとに広がった。続けて、新淀川大橋を渡りながら左右を見回せば、なみなみと水を湛えた広い川に、JR東海道本線や阪急線の鉄橋が適度な間隔をあけて並走している。新幹線の長大なホームを見上げる新大阪駅の停留所には、十数人の待ち客がいたが、「アルペン諏訪」号に乗り込んで来たのは2~3人だった。次の千里ニュータウン停留所は、建ち並ぶ高層アパートの谷間の側道に設けられ、手前で渋滞に巻き込まれたのでもどかしかったが、誰も乗って来なかった。間もなく、前方を中国道の高架が横切っているのが見え、バスは並行する大阪環状道路をしばらく走った後に、池田ICから高速道路に入る。バスは、水を得た魚のように、みるみる加速していく。このあたりから、「アルペン諏訪」号の記憶は断片的になる。経路としては、一昨日に「はかた」号で下って来た行程を、開いた絵巻物を巻き直すように逆にたどっているだけである。「はかた」号は、新宿を発った日付が変わらないうちに大阪まで達したけれど、大阪から東京へは長いなあ、と欠伸が出る。東名高速経由のバスを選んで、変化をつけた方が良かったのか。途中、名神高速の多賀SAと、中央道の阿智PAで休憩したはずなのだが、それも、全く忘却の彼方である。おそらく、2夜連続の夜行明けで、車中の殆んどを居眠りして過ごしたのだろう。それでも、恵那山トンネルをくぐって信州に足を踏み入れ、紅葉が色づき始めた木曽山脈と赤石山脈を望む伊那谷の車窓は、懐かしさと共に、心にはっきりと刻まれている。大学浪人だった昭和59年の5月に父を亡くし、その師走に飯田の父の実家を訪ねる際に、開業したばかりの「中央高速バス」新宿-飯田線に初乗りして、同じ車窓を目にしたことを、不意に思い出した。その旅が、信州を走る高速バスの初体験だった。その旅で、父の生き様を理解した。あれから6年。色々なことがあったけれども、曲がりなりにも、僕は、医学部の卒業を目前にしている。ここまで来たからには、支えてくれた母や弟、親戚や友人への感謝と共に、絶対に期待に応えなければならない、と改めて決心した。金沢大学に通っていた父も、実家との行き来で、同じ思いを抱きながら、同じ光景を飯田線の車窓から眺めたに違いない。もう少しで、僕も、お父さんと同じ道を歩き始めます──そのような言葉が、自然と心の中に浮かび、半年間を頑張り抜く勇気を貰えたような気がした。帰り道に故郷を通って良かった、と思う。次に帰って来る時は、必ず医師になっているぞ、と懐かしい山河に誓った。「アルペン諏訪」号は、岡谷JCTで長野道に折れると、岡谷ICで一般道に降りた。岡谷市役所前、下諏訪駅、上諏訪駅に停車して茅野駅まで足を伸ばすのだが、僕は、14時ちょうどに到着する上諏訪駅で下車した。足掛け2泊3日に及んだバス三昧の旅で、最終ランナーを務めるのは、上諏訪駅を15時04分に発つ新宿行き「中央高速バス」である。前の年に、名古屋から東京へ中央道を走破した際も、諏訪で乗り換えたことを思い出した。その時に利用した上諏訪駅始発岡谷IC経由の系統と異なり、この便は岡谷駅仕立てで、下諏訪駅と上諏訪駅の順に乗車扱いをして、諏訪ICから中央道に入る。この旅では豪華な車内設備のバスばかりに巡り合ったので、混雑している車内が殊更に窮屈に感じられたが、僕は構うことなく、本格的に眠り込んだ。「はかた」号や「トロピカルライナー」号より熟睡したかもしれない。目を覚ました時に、一瞬、何処にいるのか分からなくなった。よく寝たなあ、と大きく伸びをしかけたが、隣席に座る若い女性客に気づいて、慌てて腕を引っ込めた。鼾でもかかなかったかと心配したが、その女性も、目を瞑って寝息を立てていた。バスは、八王子料金所の渋滞に巻き込まれていた。時計の針は午後5時半を回っている。黄昏が迫っていた。やれやれ、18時10分予定の新宿到着が遅れるかな、と苦笑いした僕の目に、対向車線の料金所をくぐり抜けたばかりの、見覚えのあるスーパーハイデッカーが映った。白地に赤いラインを纏ったそのバスは、ひとすじの流れ星のように、テールランプを赤々と輝かせながら、薄暮に覆われた後方の山中へと走り去った。リア・ウィンドーの「新宿-福岡」の文字が、僕の目に鮮やかに焼きついた。今宵のハイウェイは、平穏だろうか。にほんブログ村人気ブログランキングへ↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>

    第24章 平成2年 日本最長高速バス「はかた」号とアルペン諏訪号・中央高速バス新宿-岡谷・諏訪線
  14. 近鉄大阪難波駅1番線の観光特急しまかぜの1号車乗車位置で待っていると20分前に下り3番線から引き上げていった「しまかぜ」が戻ってきました。扉が開いて、中に入ります。そのまま前方に進んで先頭から見た様子、先頭1号車はプレミアムシート、1+2の横3列のシートレイアウト、プレミアムといってもしまかぜにはひのとりやアーバンなど他の特急に設定されているレギュラーシートに該当する座席グレードは無く、あとは和洋の個室とサロン席のみ。1、2、5、6号車がプレミアムシートで3号車がカフェ車両、4号車がサロン+個室車両という内訳、レギュラーシート設定無しの特別車のみで構成された「観光特急」という位置付けなのでこの前に乗った「あをによし」や「青の交響曲」寄りの編成、ただ、前述の2車よりも運行区間が長く乗車時間も長くなることから個室を除く座席は変則的なレイアウトやデザインの独自性よりもリクライニング機能などアメニティ重視になっています。と、この前の「あをによし」の時同様に無断で車内に侵入して御託を並べているやばいヤツみたいな展開になっていますが、今回も座席はちゃんと取っていて、座席番号はなんと8A、といってもこの8A系に触発されてこの席を取ったわけではなく、しまかぜの先頭車両の席は9列あって下り前面展望の前から2列目の1人掛けの席がたまたま8Aだったから、1か月前の予約開始時間直後に確保しました。二人掛けの方の席番号は8B、8C、8A系にはまだ未乗車、それより先にしまかぜの8A席に乗車することになりました。前面展望最前列の9A~Cはこんな感じに、前に座席が無いため背面テーブルの代わりに固定テーブルが付いていますが、眺望と引き換えにテーブルがかなり狭くなります。2列目以降のこの背面テーブルの方が大きくて使い勝手がよさそうです。肘掛の中には引き出し式の収納テーブルもあって、展開式になっていて以前乗ったひのとりや阪急PRiVACE(プライベース)のように、片面でも両面でも使用できます。最前列だと固定テーブルが小さく遠いので飲食をする際にはこちらを使用することになりそうです。背面テーブルとの併用も可能、身動きが取りにくくなりますが置くスペースはかなり広くなります。シートの位置合わせなどの操作系は肘掛の内側にあります、なんとマッサージ機能まで付いています。背もたれを倒してフットレスト展開、背もたれの枕にはこの位置には定番のロゴ、読書灯点灯、遮光カーテンの操作は窓枠の下のこの位置、カーテン降下、充電コンセントは操作系スイッチのすぐ横のこの位置、空調の吹き出し口の調整は手動、これらの詳しい説明はシートバックポケットに備え付けの冊子にも記されています。あとそのゴム網のポケットですが、最初の方で紹介した前面展望最前列には前に座席が無いためこの網ポケットは無く冊子以外のものは入れられないのですが、最前列とは反対側、最後部の連結部端の席、折り返しで進行方向が逆になると座席がこれとは前後逆に転換されるのですがこちらも前に座席が無いので背面テーブルもゴム網ポケットもありません。その代わりに折り畳みテーブルが付いていて先頭展望席の固定テーブルより大型になっています、去年乗車した汎用特急22600系Aceでも同様でしたが、しまかぜの場合木目なので畳んだ状態のテーブルがなんだかまな板が並んでいるみたいで車内移動する時に二度見してしまいました。最後に、以前乗車したひのとりの座席と比較、床の色が違っていたので全然違う印象を持っていたのですが、スイッチの位置などは異なるものの意外にも似ていました。しまかぜよりも7年後発なので最新型のバックシェル方式を採用、背もたれを倒しても後席に気を遣わずに済む機構です。この時も背面テーブルもゴム網ポケットもありませんでしたがそんなに不便に感じることはなかったのでそこまで気にする必要も無いのかも知れません。鉄道ランキング

    近鉄観光特急しまかぜの座席周辺を見る
  15. 休なんだよね?昨日メトロの「まちさんぽ」をした👣地下鉄半蔵門駅に集合したのべ3000人がゾロゾロと千鳥ヶ淵〜神保町〜神田〜日本橋あたりを歩いたその「界隈」はかなりの密だったけど某物産展もやってる老舗デパートも帰りの電車も格段に人が少なかった気がするやっぱりインフルめっちゃ流行ってるし出控えてる人が多いのかもしれないねってことであたしも今日はお籠り今日は🏠で何をしよう?図書館から借りたミステリ本があるから読書したいけどちょっとそんな気分じゃないポカポカ☀️陽気が足りないのかも?材料が届いたからアクスタ作りを再開したいけど今使ってる「レジン」が意外と固まるの早くて(劣化してきてる?)昼間の作業は不向き紫外線でどんどん硬化するからね…じゃあ、床暖の上に寝っ転がって頭の中や机上での旅行計画でもするか〜と、ゴロゴロし始めるとやって来たヤマト🐱2歳と7ヶ月(推定)お昼寝や夜寝る時はもちろんパソコンやってても編み物してても本を読んでてもキッチンでご飯作ってても必ずあたしの側にいてなんか「にゃあにゃあ」言ってるけどっ!!抱っこはさせてくれない💢抱っこはKちゃんなぜかKちゃん一択!!ちょうどヤマトを保護した頃お仕事引退してそれからずっと🏠にいてゴロゴロしてるKちゃん(資格を取る勉強はしてたりする)仕事や家事なんかでしょっちゅう居なくなるあたしと違ってずっとそこにいるKちゃんチャンネル変えたくてもスマホを見たくても絶対に🐱をおろさないKちゃんヤマト🐱にとっては最高じゃん!!こりゃあ敵わんわそんなKちゃんが横になってゴロゴロする場所があるクタクタになったリラックマのマットレス「こでこ」が小さいときはこれでお昼寝してたけど今はクタクタになりその役目を終えて折り曲げられいい感じの座椅子的クッションになってるTVを観るにも最高のポジション💕Kちゃんがいないときあたしもそこに寝転んでみると…なんと!!ヤマト🐱が「抱っこ〜」って寄ってくるではないかKちゃんというよりこの場所なの?!ゴロゴロゴロゴロ喉を鳴らしながらずっとあたしに抱っこされてるヤマト🐱くん添い寝もいいけど抱っこも最高💕ふわふわ〜💕その仕組みが分かってからヤマト🐱を観察してると例の場所へちょこんと座ってこっちを見てるときがあるすかさずリラックマに寝そべるともれなくヤマト🐱が抱っこされによじ登って来る!!なんだ〜そうだったのか〜今度、こでこにも教えてあげよ〜っと💕器用な寝姿「真似してみ?」って挑発してる顔サンエックス リラックマ 「エンジョイポージングぬいぐるみ」 だらだらしちゃうクッション リラックマ MF80401Amazon(アマゾン)サンエックス リラックマ ぬいぐるみM リラックマ(アザラシ) MO58901Amazon(アマゾン)

    たくさん共感されています

    さて、今日は何をしよう? #にゃんこが私にしてくること
  16. いた車両の車内です座席が登場当初から交換されており、モケットの色調もあいまってちょっとした高級感を出しています。デッキ仕切りです。化粧板は木目調となっています。仕切り扉の両側の淵が上部へ行くにつれて外側に広がっています。あまり見ないデザインですが、なかなかカッコいいです。ドア上にはLED表示機が設置されていますが、これまた面積が小さく、近くの席からしか視認できません。天井です。暖色系の蛍光灯を使用した半間接照明を中央に配置しています。この照明、通路側から見る分にはしっかりと間接照明になっていますが、座席に座るとこの通り、蛍光灯丸見えです。あまりいい気はしません。窓です。2席に1枚が充てられています。日除けは横引き式のカーテンを採用しています。座席です。789系と同様の回転リクライニングシートに改座されています。両側に張り出したヘッドレストがプライバシー性を図っています。ヘッドレスト部分は柔らかい素材で出来ており、事実上のヘッドレストピローとして機能しています。モケットが少々滑りやすい素材だったのが気になりますね・・。個人的に「おおっ!」と思ったのがこのセンターアームレスト。通常、センターアームレストと言えば窓側の座席と通路側の座席の間に設ける関係からグリーン車やこれ のような一部の普通席の座席を除いて狭いことが多く、アームレストというよりは両席との仕切りと言う方が良いように思います。しかし、こちらのセンターアームレストは取り付け部分こそ細いものの、背ズリに干渉しない部分からは幅が広くなっています。しっかり肘掛としての機能が生きています。感動。車椅子対応座席直後はシートバックテーブルが物理的に使えないため、インアームテーブルが設置されています。画像のように札幌方を向いた時は、テーブルが2枚使えるというアタリ席となります。座り心地はリクライニング角度は抑え目な点はあるものの、普通車自由席としてこれと言ったダメな点が無い上々なものです。珍しく座席脚台をクローズアップ。789系とは違い脚が「エ」の字をしており、下部は微妙に山なりとなっています。改座前の自由席にはバーレストがあったこともあり、お世辞程度ながらその無くなった付帯設備をカバーしようとした結果なのでしょう。車椅子対応の1人掛けです。指定席に存在することが多いですが、785系では自由席にも対応席が存在します。全展開してみました。この脚台などのフレームは全国様々なところで見ることが出来ます。デッキとの仕切り部分は固定式のテーブルが設置されています。シートバックテーブルに比べて明らかにキャパが小さ過ぎます。ペットボトルを置くのが精一杯じゃないでしょうか。駅弁とかは置けないですねぇ。続いて5両編成のうち4号車に連結された指定席、「uシート」です。まずはドアから。こちらも車椅子対応となっているため、ドア幅が急行型車両並に広げられています。ドアチャイムですが、なぜだかこの車両だけ700系新幹線と同じチャイムが鳴ります。なぜ統一しなかったのでしょうか…。トイレです。車椅子対応の大型トイレとなっています。仕切りをデッキ側より。窓が左側に寄せられており、さながら「u」の字に見えるように作られています。車内です。指定席と言えどもこれでも普通車、かつての自由席車よりも明らかに雰囲気は違います。何となく普通車とグリーン車の中間を狙ったような意図を感じます。しかし、今や全車指定席になった訳ですが、この車両とその他の車両では設備格差も甚だしいですよね。デッキ仕切りを今度は車内側から。製造年度が元自由席車である0番台よりも遅いためか、デザインが多少異なっています。色調も明るいものになっています。窓です。1席に1枚の割り当てで、もうちょっとしたグリーン車のようです。日除けはフリーストップ式のロールカーテンです。機能的には優れていますが、エクストラチャージがかかる車両としては疑問符が付きます。それでは座席です。大きく張り出したヨーロピアンスタイルのヘッドレストがプライバシー性の向上を助けています。大型で横幅も十分な広さを確保しており、座り心地も指定席車としては十分すぎるものです。札幌-旭川間のみでは少し物足りなさを感じる、「もう少し乗っていたい」と思えるような座席でした。そして自由席車同様、車椅子対応の1人掛け席直後の座席はインアームテーブル付きとなっています。シートバックテーブルは木目調の化粧板を使用しています。インアームテーブル付きの座席に関しては、シートバックテーブルの背面色が異なっています。後述の1人掛けが関係しているのでしょうか?座席背面にはコンセントが設置されています。シートバックテーブルのフレームと網ポケットとの間の狭い空間に見事に収まっていますが、これ、プラグの形状によっては使いづらい(下手すりゃ使えない)ことが想定されます。コンセントの設置位置というのはどこの鉄道会社でも苦慮するところではあります。窓側に設置すれば通路側の人が使いづらいですし、このように前列背面に設置すると窓側席の出入りを妨げてしまい、アームレスト部分は特に欠点は無いものの十分な幅を持っていないと設置できないという悩ましい案件ですね。車椅子対応の1人掛けです。固定用のベルトが設置されています。この辺りの装備は自由席と変わりません。全展開の図。基本的に発券ブロックがかかっており、とあるタイミングでブロック解除となるそうな・・。デッキ仕切り際のテーブルは固定式、面積も狭く自由席と同等のもの、むしろ自由席のテーブルは木目の化粧板を貼っている分多少の高級感があります。こちらはえらくアッサリしていますねぇ・・。荷物スペースです。指定席にのみ設置されているアイテムで、新千歳空港直通のエアポートスーパーカムイ充当にも対応した備えといえます。自身登場時から活躍していた旭川系統からの撤退は残念ですが、「すずらん」として活躍する編成の一日でも長い活躍を祈りましょう。オマケ先述の余った増結編成ですが、なんと789系基本番台で運用される「スーパー白鳥」の増結用車両として改造されました。「編成美」という言葉を木っ端微塵に粉砕する程のキワモノ編成、先頭に立つ車両は萌黄色に塗装され完璧に「バッタ」状態、もう片方の制御電動車は前面窓も閉鎖の上スカートも撤去されておりなまらグロい状態、あのインパクトは忘れられません。結局函館運転所で待機している状態しか見る事が出来ず、未乗車に終わってしまいましたが・・。A7221 785系 特急「スーパーホワイトアロー」 登場時 基本4両セット[マイクロエース]【送料無料】《発売済・在庫品》楽天市場18,865円[鉄道模型]マイクロエース 【再生産】(Nゲージ) A7220 785系300番代 特急「スーパー白鳥」 用増結改造車 2両セット楽天市場10,175円[鉄道模型]マイクロエース (Nゲージ) A7222 785系 特急「スーパーホワイトアロー」登場時 増結2両セット楽天市場11,557円

    たくさん共感されています

    JR北海道785系
  17.  今日は、京都で全国女子駅伝がありますので長野東高校のメンバーが中心で構成される「長野県」を応援します。  日の出前の朝は南アルプスに見事な朝焼けが出ていました。燃えるような朱色が山から立ち上がってました ようやくコントロールパネルアルミケースの設計が完了しました  これから設計図面をお披露目しますが、・・・あっ、はっきり言ってこんなの自己満足でしかないので今回は熟読するのはスルーした方が良いです  この形に仕上げることをもくろんで1ヶ月以上を費やしてしまい、工期が遅れているのでこれから巻き返しをしなければなりません。・アルミケース底面  このようにトランスを置くようにしたのでアルミケースの底面に応じた穴を空けます。   この穴の位置にトランスが5個置かれます。  上面にスペースがあるところに置くようにしないとトランスと傾斜面に配置したスイッチ類が干渉するので、わりと後ろ側に置くようにしました。・アルミケース前面、背面 こちらはケースの前面と背面の設計。 背面は線路へ何十本もの被覆電線を配線するために電線を通す穴8個とワイヤレスのパワーパックなどを接続するターミナルを3Cab 分取り付ける穴が必要。  前面も2ハンドルタイプや1ハンドルタイプのパワーパックを接続するターミナルの穴と内蔵するPWMコントローラーの基板を取り付けるためのネジ穴を設けました。・アルミケース傾斜面 傾斜面は単純で「美郷山鉄道」のロゴを光らせるためと電圧&電流計の四角い穴2個だけあれば良いです。 ロータリースイッチや6Pスイッチの穴は現物合わせになるのでさすがに自分で空けることにします。・アルミケース上面平面部 これは少し前に設計を終えたコントローラーの3Cabを扱うキモの部分。 スイッチ類がこんな感じで配置されるのでそれを図面に落とし込んだ部分になります。 これで全方向の穴開け等の設計が完了しました。 検図を行い問題なければ発注しましょう 発注した後はレイアウト本体を一部解体しますこのブログが参考になった方はこちらのアイコンをクリック↓にほんブログ村

    美郷山鉄道⑬ 設計完了!コントロールパネルデザイン
  18. R東日本の東北方面乗り鉄に行って来ました。さて、大人の休日パスSPの旅も4日目となりました。この日の気温は3度。あまり寒くは感じません。さて、6時前にホテルをチェックアウトして駅に向かいます。すっかりピカチュウにお株を奪われた迎カエル🐸(むかえると読むのかな❓)これから乗るのは大船渡線。一ノ関の駅名板こちらはピカチュウバージョン。車両はキハ100系の2両編成。大船渡線はドラゴンレールの愛称が付いています。車両はガラガラ。一ノ関駅からしばらくは霧の中を進みます。段々と夜が開けてきます。そういえば、この路線ですが日差しが右側から差し込んだり、反対側の左側から差し込んだり…地図で確認すると線路が大きく迂回しています。これですが、いわゆる我田引鉄と言われる政治の圧力でルート変更されたもの。陸中門崎(りくちゅうかんざき)駅 - 千厩(せんまや)駅間の線形から「鍋弦線」と揶揄され、いわゆる「我田引鉄」の代表例である。当初の計画では、門崎から真直ぐに千厩へ抜けることになっていたが、岩手県出身の原敬率いる立憲政友会の後押しで千厩の北にある摺沢(すりさわ)から立候補した佐藤良平が1920年の総選挙で当選したことで、摺沢を経由して千厩を通らずに直接大船渡へ向かうように計画が変更された。千厩では憲政会に頼って誘致を展開し、1924年の総選挙で憲政会が勝利すると、摺沢から千厩へ抜けるように再び計画が変更され、現在の線形となった。幻想的な風景。新月駅を通り過ぎると。鉄道区間の終点の気仙沼駅に到着。ん❓この構図はどこかでみた感じ。これと同じですね。ピカチュウ様御一行ここから先はBRTによる移動になります。BRT中はこんな感じ。普通の通勤型のバスです。BRTの停留所。海が見えて来ました。高台に住宅が作られていました。ん❓あれは奇跡の一本松⁉️BPTからはっきり見えました。高田松原津波記念館。奇跡の一本松はバス停にもなっています。東日本大震災から14年が経過しても道の駅や津波伝承館以外はほとんど更地の状態のままでした。BRTは先に進みます。大船渡を通り過ぎると…盛駅に到着。ここまでのルートは以下の通り。まるで竜が飛翔しているように見えますね。ドラゴンレールの愛称はそこから来ているそうです。◆カーシェアのタイムズカーシェア。期間限定で以下の特典があります。タイムズカーのカーシェアリングで使える60分無料チケットがもらえる紹介者コード:0013046935『【カーシェアのススメ】タイムズカーシェアのメリットとデメリット』にほんブログ村 最近ブロ友さんが相次いでカーシェアデビューを果たされました。いろいろと、アドバイスをしたいのですが個別に書くと大変なので記事にすることにしまし…ameblo.jp『【カーシェアのススメ】タイムズカーシェアを実際に使ってみた感想』にほんブログ村 最近ブロ友さんが相次いでカーシェアデビューを果たされました。いろいろと、アドバイスをしたいのですが個別に書くと大変なので記事にすることにしまし…ameblo.jp◆江東区の自宅から羽田空港空港まで乗合タクシー2,980円(初回クーポンを利用して1980円)で移動しました。1000円引きの初回クーポンコード: y0exff『追記あり【九州横断旅行】初日②羽田空港まではnearME.の空港シャトルで2980円で移動』2022年2月に出発した熊本、宮崎、大分の九州横断弾丸旅行記になります。色々な考えがあると思いますが純粋な旅行記として読んでいただければ幸いです。15:00追…ameblo.jp■私は旅行の行程管理をこのように行なっています。『【まとめ】私は旅行時の行程管理をこのようにスマホで行なっています。』皆さんは旅行に先での行程管理はどのように行っていますか?行きたいと思っている場所や予約したお店を、ブラウザのブックマークにまとめているとか?Google MA…ameblo.jp■あれ?この写真はどこで撮ったっけ?スマホで撮影した写真の場所を確認する方法『【あれ?ここどこだっけ?】スマホで撮った場所を確認する方法』旅行に行った時の写真ですが、何処で撮影した写真だっけとわからなくなることはありませんですか?特に特徴の無い風景を撮影した場合などは本当にこれ何処?という事もあ…ameblo.jp

    たくさん共感されています

    【大人の休日パスSP】4日目その① クネクネ曲がる大船渡線を乗車。あれば奇跡の一本松⁉️
  19. す。 客車は、14座席車でした。隣に停車していた 寝台特急ゆうづる2号です。ゆうづる号は、上野ー青森間を常磐線経由で結んでいた寝台特急でした。  この後も上野駅で撮影を続けていればよかったものの 次の一コマは。東北新幹線 やまびこ35号盛岡行。 なぜか この時は、東北新幹線を撮りたくて、雑誌の記事の埼京線のある駅に来ました。 確か 武蔵浦和駅?かなと思うのですが。上越新幹線 あさひ301号新潟行。 モデルチェンジ車の200系2000番台車。 東海道新幹線の100系と同じ時期に増備された車両で 先頭車が100系タイプになっていました。こちらは とき400号 東京行かなあと。 車両は200系0番台で 国鉄時代の1982年東北上越新幹線の大宮暫定開業時に登場しました。0系新幹線 と同じの 団子鼻ですが、少しボンネットが前に突き出しているのか、背が高くなった印象がありました。 結果的には 200系は 3枚しか撮っていなかったのですが、 関西在住の私に撮って 縁遠い新幹線なので これはこれで良い思い出になったと思います。合間に 埼京線も撮影。 普通新宿行。通勤快速川越行。通勤快速と普通が緩急接続しているっぽいんで やはり武蔵浦和駅かなあと 思っているんですが。 普通大宮行。埼京線は1985年に開業した新しい路線で なぜか当時の私は ダイヤが私鉄の雰囲気の埼京線に興味を持ち 機会があれば訪れたいと思っていました。 1992年の埼京線は、103系から205系に置き換えられ 快速・通勤快速が 川越ー新宿間 普通が大宮ー新宿間の運転で 途中の武蔵浦和駅で緩急接続がありました。御覧頂きましてありがとうございました。鉄道ファン 2025年 02月号 [雑誌]Amazon(アマゾン)鉄道ジャーナル 2025年 02 月号 [雑誌]Amazon(アマゾン)国鉄時代 2025年 2月号 Vol.80 [雑誌]Amazon(アマゾン)国鉄時代 2024年 11月号 Vol.79 [雑誌]Amazon(アマゾン) 

    1992年1月雨の関東地方-5
  20. ここ数年餅食ってない