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  1. 越前湯楽里
  2. 年 東京発南宮崎行寝台特急『富士』~80年の足跡を偲ぶ~前編」の続きです)熱海、沼津、富士、静岡、浜松と、寝台特急「富士」が静岡県内の駅に丹念に停車を繰り返しながら進んでいくうちに、釜飯弁当の夕食が終わった。「富士山、見えませんでしたね」とS君が残念がったのは、東京と博多を結ぶ戦後初の寝台特急列車が計画された昭和31年に、列車名を「富士」と名付ける案があったという話題が出たからである。この列車の運行ダイヤでは、富士山麓を走るのが下りは日没後、上りは夜明け前になるから、富士山を拝むことは出来ないと却下されて、「あさかぜ」に決定したのである。そこまで杓子定規に考えなくても、と苦笑して済ませて良いことのようにも思うし、その後の「富士」の名の使われ方を見れば、たとえ富士山が見えなくとも、初めての「九州特急」に伝統の「富士」の名は相応しかったのではないかと、僕も宮脇氏と同意見なのである。富士山が見えるのは、丹那トンネルで箱根を越えた三島駅付近から、富士川を渡った先の富士駅、もしくは静岡の手前の興津、由比駅のあたりまでであるから、午後7時前後にこの区間を通過する今の「富士」のダイヤならば、富士山を拝めるかも知れない、と2人で話していた。秋の日はつるべ落とし。車窓はどんどん暗くなっていったけれども、富士駅のあたりまでは山ぎわがほんのり黄色く染まる程度の明るさが残っていて、黒々とした富士山のシルエットくらいは見えるのではないかと期待した。「富士」も、大小の駅のホームをかすめながら誠心誠意走った。しかし、明るさが足りなかったのか、それとも雲に隠れていたのか、結局は我が国最高峰の山容を目にすることは出来なかった。「新幹線だったら見えましたかね。新幹線の名前を『のぞみ』とか『ひかり』じゃなくて『富士』にすれば、外国人にも受けたんじゃないですか?」S君の感想は、宮脇氏の意見と全く同じだから、頷かざるを得ない。富士山と言えば、他の列車のヘッドマークが丸型もしくは四角の枠に収められているのに対して、「富士」では富士山をかたどっているのは、戦前からの伝統である。「九州特急」として復活した当初は他の列車と同様の円形だったのだが、昭和60年に「富士」を東京-下関間で牽引する電気機関車をEF66型に変更した際に、戦前と同じ山型に変更された。この時、葛飾北斎の赤富士を模したデザインも試作されたのだが、採用されなかったというエピソードがある。僕も写真で目にしたことがあるが、現在のデザインが秀逸で見慣れているだけに、違和感を拭い切れなかった。外国人には受けるかもしれず、S君の感想も聞いてみたいけれど、この旅の当時は携帯電話やスマホが普及していないため、すぐに情報や写真を提示する方策はない。鉄道のことばかりを喋っていた訳ではないから、話が尽きることはなく、僕らはロビーカーに移動して日付が変わる頃までを過ごした。深夜0時前後に京都、大阪、三ノ宮に停車するのは戦前の特別急行列車と同じであるが、現代のブルートレインは東京を2時間も遅く発車しているし、下関には2時間早く到着するという進化を遂げている。そもそも、西鹿児島まで足を延ばしていた昭和40年代の「富士」の停車駅は絞られていて、静岡県内では熱海と浜松しか停まらなかった。県都を通過するとは驚きであるけれど、東海道新幹線「のぞみ」が県内に停車しないことに憤慨して「通行税を取る」と息巻いたと言う静岡県知事ならば、「富士」にも矛先を向けたかもしれない。当時は名古屋駅から福山駅まで乗降扱いがなく関西圏を通過していたことも、「あさかぜ」に始まる「九州特急」に共通する特色であったが、今では早い時間帯に東京を出る「さくら」と「富士」が関西に停車するダイヤに変わっているのは、戦前への回帰のようである。高校生のS君にお酒を飲ませる訳にはいかないし、僕だけアルコールという薄情な真似も出来ず、ジュースとスナック菓子だけでよく話し込んだものだと思うけれど、三ノ宮が過ぎれば岩国まで停まらないのだから、そろそろ寝ようか、とお仕舞いにした。静岡県内から名古屋、関西にかけて、この車両に加わった乗客は数名程度のようで、ぴたりとカーテンを閉ざしているベッドと、空のままカーテンだけが揺れているベッドが、半々程度の割合である。「初めてですよ、寝台なんて」S君は腰をかがめて寝台に潜り込みながら、心躍る様子である。僕も横になって目を瞑ってみたものの、向かいの寝台ではごそごそと着替えたり身動きをしている気配がして、時々、「おお!」などと感嘆の声が小さく聞こえたり、枕元の明かりがついたりしていたから、生まれて初めての列車寝台を経験するS君の興奮ぶりが手に取るように伝わってくる。僕も、子供の頃の家族旅行で初めて寝台車を経験した時に、3段式B寝台の最上段をあてがわれてなかなか寝つけなかったことを懐かしく思い出した。寝ようか、と言いながらも、憧れの寝台特急に乗っているという軽い興奮と、翌日の午後1時過ぎまで寝坊が出来る身分であるためなのか、なかなか寝つけない。一服でもしながらもう少し起きていようかな、と、そっとカーテンをめくってみると、S君もカーテンを開けていて、お互いに顔を見合わせて苦笑いしたものだった。窓のブラインドを上げてみると、星があるのかすら判然としない漆黒の空の下を、「富士」は心地良い揺れと、レールの継ぎ目の音を奏でながら、申し分のない速度で走って行く。『おはようございます。特別急行「富士」号を御利用下さいましてありがとうございます。今日は10月5日、日曜日です。ただいまの時刻は6時ちょうどです。列車は時刻表通りの運転を行っております。次は小郡に停まります。小郡には6時09分に着きます。小郡でお降りのお客様、お忘れ物、落し物のないように、お手回り品を今一度お確かめ下さい。洗面台等を御利用で席をお立ちの際には、貴重品を必ずお持ち下さい。また洗面台に時計、眼鏡、指輪などのお忘れ物がないようにお気をつけ下さい。また1号車は禁煙車になっております。1号車に御乗車のお客様、お煙草は御遠慮下さい。禁煙車の洗面所も禁煙となっております。乗り換えの御案内を致します。山陽線普通列車熊本行きが6時18分の発車で、階段を昇りました6番乗り場です。山口線普通列車津和野行きは6時31分、同じく階段を昇りました先の1番乗り場からの発車です。宇部線の普通列車宇部行きは6時16分、階段を昇りまして8番乗り場からの発車です。次は小郡です。小郡、厚狭、下関、門司の順に停まって参ります』誰かが長々と喋っているな、と夢うつつで聞き流しながら目をあけると、闇に包まれた寝台は、夕べと変わらず程良い揺れとレールを刻む音だけの世界である。自分は寝台特急に乗っているのだ、という幸福感に浸ったのも束の間、小郡だと?と飛び起きてカーテンを開ければ、窓の外は白々と明け始めていた。しまった、と思う。下りの「九州特急」で目覚めた時の、寝ぼけまなこで眺める瀬戸内の景色が、僕は好きだった。ただし、山陽本線から瀬戸内海が見える区間は案外に少なく、三原近辺と岩国-柳井、光-防府くらいである。小郡ということは、何れの区間も過ぎてしまっているではないか。カーテンが閉め切られたままの向かいの寝台に目を遣りながら、S君に夜明けの瀬戸内海を拝ませてあげたかったのに、と申し訳なく思う。小郡駅で弁当屋が乗って来たらしく、「お弁当にお茶は如何ですか」と控え目な声が聞こえると、向かいのカーテンが開いて、S君が眠そうに目をこすりながら顔を出した。「おはようございます。朝御飯、来ましたね」車内販売の人気は上々で、通路を覗くと、籠を下げたおばさんが、客がいる全ての寝台で呼び止められているようである。品目は「あなごめし」と「幕ノ内弁当」の2種類で、2人とも迷わず「あなごめし」を購入した。先月も、「はやぶさ」の朝御飯は同じだったな、と思ったが、包装や中身の配置がどこか違っているような気がする。「あなごって、このあたりの名物なんですか」「そうなのかな。徳山駅の名物だって聞いたことがあるけど、これには小郡駅弁当って書いてあるね。この前食べたのは徳山の方なのかな」「徳山って工業地帯って習いましたけど、あなごが採れるんですね。小郡のも、ふっくらしてて美味しいですよ。あれ、徳山って、この先でしたっけ」「いや、小郡より手前だよ。もう過ぎちゃった」「じゃあ、さっき見えた海は徳山なのかな」「え?海を見たの?」「ええ、ちょっと目が覚めちゃいましてね、外を見たら、まだ暗かったですけど、島がいっぱい見える海岸を走ってました。綺麗でしたよ。なんか感動的でした。あれ、瀬戸内海ですよね」うっすら海が見える程度に夜が明けていたのならば、光と防府の間であろうか。S君も瀬戸内の夜明けを見ることが出来たのか、と胸を撫で下ろした。『徳山に着くと車掌がやってきて、海側の窓の鎧戸を下ろすよう乗客に指示した。これから西は海岸を走るので、停泊中の艦船や軍事施設が見えるからであろう。春の朝日を浴びていた乗客たちは、いっせいに腰を浮かして鎧戸を下ろした。眠っている客は揺り起こされ、動作の緩慢な客は、あなた早くしなさい、と叱られた(時刻表昭和史)』太平洋戦争下の昭和19年に、中学生だった宮脇俊三氏が第1種急行1列車、つまり格下げされた「富士」に乗って九州旅行に出掛けた時の描写である。身近な人々が次々と招集されて戦場に向かい、いずれは自分たちにも順番が回って来る、空襲で命を落とすかも知れない、と刹那に感じていた少年たちが、1週間の春休みを最後の青春として受け止めていた時期であった。『山へ出かける者が多かったが、学校のグラウンドで野球をする者、映画館に入りびたって古い洋画を繰り返し観る者などいろいろだった。なかには女学生との交際に全力を挙げた者もいた(時刻表昭和史)』という暗い風潮の中で、鉄道ファンだった宮脇氏は、完成したばかりの関門トンネルを体感したくなって鉄道旅行に行くことを決め、それまでは断固として反対していた両親も、この時ばかりは許したのである。東京駅の窓口に長時間並んでも入手が困難な指定券を、何とか手配できた宮脇少年であったけれど、全車指定席の車内にいる乗客は男ばかりで、軍人が3分の1を占め、『この第1種急行には、重要な用務を持った軍公用者以外は乗ってはならぬような空気がただよっていた』と記している。一見華やかに思える「富士」の歴史に思いを馳せれば、我が国を代表する列車として常に世相を反映する存在であり続けただけに、戦争の時代を避けて通る訳にはいかない。「『悲しいけど、これって戦争なのよね』って感じですか」とS君が「機動戦士ガンダム」の名台詞を口にしたけれども、おどけた口調と裏腹に、表情は暗かったように思う。「ここで窓を閉めて何を隠したんですか」「連合艦隊の司令部が呉に置かれていたからね。戦艦『大和』とか、徳山沖で公試運転を行った写真があったような気がする」「『大和』を隠してどうするんですか?見せてあげれば、みんな元気になったんじゃないですか。自衛隊も観艦式とかやってますよね」「列車にスパイでも乗っていると思ったのかな」徳山から下関までは、殆どが山中の鄙びた車窓であるが、本州の果てが近づくと、過ぎ去る建物の合間から、再び海がちらちら見えるようになる。7時10分に到着した下関駅では機関車を交換するために5分間停車する。受刑者の更生保護の問題に一石を投じた平成18年の放火事件により、昭和17年の関門トンネル開通時に建設された三角屋根の駅舎が全焼する前である。僕はS君を誘って、機関車の付け替えでも見てみようと外へ出た。「ここが昔の『富士』の終点かあ」と、S君は海が見える高架ホームで大きく伸びをした。家並みの向うに見えるこの海を関門海峡と思って眺めたことがあったけれども、実は小門海峡で、向かいに見える陸地も九州ではなく下関市に含まれる彦島であることを知ったのは、恥ずかしながら、それほど昔のことではない。「朝鮮への船は何処から出たんですか?」「僕も知らない。この駅は、関門トンネルの開通で移転したらしいんだ。昔は、駅前に山陽ホテルっていう国鉄直営のホテルがあって、そこで1泊してから乗り継いだ人も多かったんだって。帰国したお偉いさんの記者会見なんかもよく開かれていたらしいよ」「ヨーロッパまで、ただでさえ15日掛かるのに、ここで1日過ごしちゃうんですか?のんびりしているなあ」山陽ホテルを建てたのは山陽本線の前身である私鉄の山陽鉄道で、国営化とともに国鉄に譲渡された。国鉄が直営するホテルは、東京ステーションホテル、奈良ホテル、山陽ホテルの3軒のみで、収支より格式を重んじる運営だったと伝えられているのは、如何にも国鉄らしい鷹揚さである。昭和17年に営業を中止し、国鉄下関ビルとして残されていたビルが取り壊されたのは、平成20年前後と聞いているから、この旅の頃にはまだ存在していたのだろうが、長いホームの西の端まで歩いてみても、どの建物が旧山陽ホテルなのか判然としなかった。下関駅の全盛期は、興亜景気に湧く日中戦争の最中で、年間300万人が下関と大陸を往還し、終戦後には大陸からの引揚げ者と在日朝鮮人の帰国が錯綜して、凄まじい混雑であったと伝えられている。横浜や神戸、長崎に劣らぬ国際港湾都市だったのだな、と思うが、現在の下関は、そのような昔の栄華など微塵も感じさせずに、ひっそりと静まり返っている。『薄暮になって下ノ関に着いた。随分長く、15分くらい停車した。その間に今までの蒸気機関車を電気機関車につけ代える。海の底の関門隧道を通る為であって、隧道を出て門司に着いたら、又はずす。停車中歩廊に出て、辺りを眺めた。下ノ関には今まで1度しか来た事がないが、その時の模様は覚えている。どうも様子が違う様で、丸で見当がつかない。同じく歩廊に出ているボイに、駅から直ぐ行かれる所にあった山陽ホテルはどうなったのか、聞いて見た。あれがもとの山陽ホテルですと云って指さしたのは、随分離れた向うの方である。関門隧道が出来て、列車が従前の路線より別の所を通る様になり、駅もその時出来た新しい建物だと云うことを教わった。この前来た時、山陽ホテルに1泊して、翌朝目がさめて見たら、窓の向うに新造の八幡丸が、真白に塗った1万7千噸の巨体に美しい朝日を浴びて、狭い海面を圧する様に浮かんでいたのを思い出す。八幡丸も、姉妹船の新田丸も、日本の海運の新しい希望だったが、前後して海の底へ沈められてしまった(鹿児島阿房列車)』内田百閒先生が、博多行き急行「筑紫」で九州に向かっていた途中の描写である。世界有数の海運国である我が国の、戦前の隆盛を彷彿とさせる一節である。欧州航路に配される計画の下に昭和13年から16年にかけて建造され、高名な神社の名を冠して「NYK三姉妹」と呼ばれた新田丸級豪華客船「新田丸」「八幡丸」「春日丸」は、戦況の逼迫に伴い、それぞれ小型空母「冲鷹」「雲鷹」「大鷹」へと改造を受け、南方への航空機輸送に従事した。しかし、「冲鷹」は昭和18年に八丈島沖で、「雲鷹」は昭和19年に南シナ海で、「大鷹」は同年にルソン島沖で、米潜水艦の攻撃を受けて沈没している。昭和20年代に日本全国を股に掛けて鉄道で旅行した「阿房列車」シリーズには、東京と九州を結ぶ急行列車が数多く登場する。内田百閒が最も愛用し、何度も登場する鹿児島本線経由鹿児島行き「霧島」をはじめ、日豊本線経由西鹿児島行き「高千穂」、長崎行き「雲仙」、博多行き「筑紫」「玄海」など、長距離急行列車が東京-九州間輸送の主役であった時代の貴重な記録にもなっている。中でも「富士」と関わりが深いのは、昭和26年に東京-都城間を運行する夜行急行として登場した501・502列車で、昭和27年に「高千穂」と命名された。「高千穂」は東京-熊本間の急行「阿蘇」と併結されていたが、昭和29年に併結相手が東京-博多間の急行「玄海」に変更され、昭和31年には単独運転となる。運転区間が日豊本線経由の東京-西鹿児島間に延長され、寝台特急「富士」が昭和40年に同じ区間で運転を開始するまで、我が国で最長距離を走る列車となり、その所要時間は31時間28分であった。昭和43年に、「高千穂」は鹿児島本線経由の東京-西鹿児島間の急行「霧島」と併結されるようになり、昭和45年に「霧島」の名称が「桜島」に変更されている。昭和50年に、「高千穂」は名古屋-宮崎間の臨時列車に格下げとなって、東京と九州東海岸を直結する旅客輸送を「富士」に譲る形で、事実上廃止された。東京から下関まで1100.3kmを走り切ったEF66型機関車が客車から切り離され、代わりに手旗を振る作業員をステップに乗せたEF81型機関車が近づいて来る。客車を全く揺らすことなく、鈍い音を立てて機関車が連結されると、「はあ、上手いもんですねえ」とS君が感心したように独りごちた。鉄道ファンでなくても、車両の連結作業は面白い見ものなのだろう。新幹線でも、盛岡駅や福島駅における東北新幹線と秋田・山形新幹線の連結作業には人だかりが出来る。「いよいよ海底トンネルですね」高揚した表情でS君が視線を向ける窓の外を、家並みがみるみる流れ始め、上方にせり上がったと思うと、真っ暗な壁が視界を塞いで、走行音が反響するだけの世界に変わった。関門トンネルの長さは3614mであるから、「おおお、これが海の底なんですかあ!」と窓に囓りつくS君の興奮が鎮まるより早く登り勾配が始まり、外がパッと明るくなって、車輪がポイントをがたがた鳴らすと、門司駅の構内である。「え?これだけですか」「そうだね」「本州と九州って、こんなに近いんですか」「関門海峡に立てば、向こう岸がすぐそこに見えるよ」長さ50kmを超える青函トンネル程ではなくても、もう少し歯応えのあるトンネルを期待していたらしい。僕の九州初上陸は、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号だったから、壇ノ浦SAでの休憩でライトアップされた関門大橋を見上げ、対岸の灯を眺めながら、本州と九州の距離を実感したものだった。あの光景をS君にも見せてあげたいと思うけれども、海の底をくぐる宮崎行きの列車に乗っているのだから、如何ともし難い。「もじー、もじもじー」と駅員が連呼する放送にS君がウケまくった門司駅で、機関車をED76型に付け替え、5分ほどで小倉駅に着くと、「富士」は長い夜を駆け抜けた疲れを見せることなく日豊本線へと進路を変える。この前の九州鉄道旅行では、寝台特急「みずほ」で鹿児島本線を熊本まで南下し、豊肥本線で大分、日豊本線で西鹿児島、鹿児島本線で熊本と回り、その次の「はやぶさ」の旅では鹿児島本線をひたすら南下するだけだったので、小倉から大分までの日豊本線は僕にとって初めての経験である。行橋、中津、宇佐と停車していくうちに、数える程ではあるけれど、新しく乗車してくる客もいる。降りていく客の方が圧倒的に多いから、車内はみるみる閑散としていく。下関から先は、立席特急券で1号車から6号車の宮崎編成を利用することが出来るので、下関駅で作業員が乗り込み、下段のシーツや枕、毛布を上段に放り込んでいったのである。鉄道ファンが「ヒルネ」と呼ぶこの乗車方法は、「はやぶさ」でも下松以降で行われ、寝台券の二重売りではないかとの批判も耳にしたものだった。「富士」の「ヒルネ」客が多いように感じたのは、鹿児島本線よりも日豊本線の方が昼行特急列車の運転間隔が開いていて、速度が遅いからであろうか。「ヒルネ」客も、先客がいる区画を避けて空の寝台を広々と使いたいだろうから、僕らのいる区画に同居することは、まずないものと思われる。下関駅での作業は午前7時過ぎのことであり、カーテンを閉めたまま寝入っている客の寝台は片付けないまま放っておかれたので、「朝寝坊した方が得するみたいですね」とS君が苦笑した。このあたりからの車窓は一気に鄙びて、中津から先の日豊本線は、単線の線路になってしまう。刈り入れを待つばかりの黄金色の穂波を、一陣の風が渡っていく。果樹園に林立する木々の緑に映える蜜柑や柿の鮮やかさ。線路脇に咲くコスモスの可憐さ。秋祭でも催されているのか、村の鎮守の森に幟が何本もはためいている。国東半島の根元にある立石峠を越えると、右手の山腹に別府温泉郷の白い湯煙が見え、あれは湯気なんだよ、と教えると、「あそこが有名な別府ですか。あんなに湯気が立って硫黄臭くないんですかね」と、身を乗り出したS君が目を剥いた。別府から先は、凪の豊後水道に沿って線路が敷かれているが、並行する国道10号線を走る車が「富士」をびゅんびゅん抜いていく。多数の野生の猿が住みついていることで有名な高崎山の麓を通り、大分駅では、7号車から14号車の切り離しのために6分間停車する。ぶらりとホームに出てみると、彼方の立ち食い蕎麦スタンドに人だかりがしている。立ち食い蕎麦、という手もあったか、と食指がそそられる。「ここは大分県ですよね」「そうだね」「さっき停まった門司は福岡県、その前の下関は山口県ですね」「うん」「これで3県も制覇しましたよ。次は宮崎県ですね」ホームに降り立った駅がある県には行ったことにしよう、という魂胆らしい。「『富士』が通って来た府県なら全部で13もあるけれど、そっちは数えないんだ」「通過しただけなら飛行機と同じじゃないですか」「なるほど」大分を出て20分程経った頃に、「富士」は古びた小駅に停車し、素っ気ない放送が流れた。『運転停車のため5分停車します』静まり返ったホームの駅名標には、幸崎と書かれている。周囲には大分市の郊外らしくマンションが幾つか見受けられ、路床に雑草が繁っている、あっけらかんとした雰囲気の駅である。ぷいっと席を立ったS君が、「5分も停まるのに扉があいてないんですよ」と言いながら戻って来た。ここでも降りてみたかったのだろう。「運転停車だからね。すれ違いでもあるんじゃないかな」と答えているうちに、窓外を、特急「にちりん」が颯爽と通過して行く。「あれ?あの列車、僕らと同じ方向に走っていませんか?宮崎ってあっちですよね」「すれ違いじゃなくて、追い抜きだったね」「『富士』って特急ですよね?じゃあ、あの列車は?」「特急だよ。『にちりん』」「特急が特急に抜かれるって、マジっすか」「しょうがないよ。客車列車より電車の方がずっと速いんだから」小倉発南宮崎行き「にちりん」5号の小倉駅の発車時刻は、「富士」より30分近く後の8時03分であるが、大分ではその差が10分に縮まり、終点の南宮崎には30分以上も早い12時59分に着く。340km程度の距離で1時間も所要時間に差をつけられるとは、客車列車が淘汰されるのもむべなるかな、と思う。特急「にちりん」にしても、当時は博多から小倉経由で宮崎、西鹿児島まで長駆する系統が残されていたものの、後に博多-大分間は「ソニック」、大分-宮崎間は「にちりん」、宮崎-西鹿児島間は「きりしま」に分断され、しかも航空機と高速バスに客を奪われて、福岡と宮崎を移動する選択肢から外れてしまう運命が待っているのだから、栄枯盛衰は寝台特急だけの話ではない。そこから先の車窓は山がちになり、気を取り直したように臼杵、津久見、佐伯とマイペースで歩を進めた「富士」は、原生林が鬱蒼と生い繁る宗太郎峠に挑んでいく。この区間は、日豊本線で最後に完成した難所である。九州に入ってから10~30分ごとに停車していた「富士」も、佐伯から延岡までの宗太郎越えでは1時間以上無停車になってしまうほど、人跡稀な土地なのである。車窓を掠める木々の緑が、秋とは思えないくらいに濃く感じられる。ベッドに横になって昼寝を決め込んだり、窓際に腰かけて茫然と車窓を眺めたりしながら、席を立つのはトイレの行き来くらいである。他の区画を見るともなしに見てみれば、ベッドに寝転びながら読書をする青年、缶ビールを傾けている赤ら顔のおじさん、トランプに興ずる若い女性グループ、中から鼾が聞こえる閉め切られたままのカーテンなど、寝台があるだけに、昼間の座席特急よりも気怠さが目立つ。長旅の果てに、乗客からは一切の飾り気が消え失せたようだった。しばらく姿を消していたS君が戻って来て、「おかしいですね。夕べのロビーカーがないんですよ」と首を傾げている。「大分で切り離されちゃったよ」「マジっすか?切り離した方にロビーカーがあったなんて。宮崎まで繋がないんですか」「宮崎まで連結すると、その日のうちに東京へ戻せなくなるんだ。上り列車の南宮崎発は13時25分で、この列車が着く7分前だからね。終点まで繋いじゃうと、ロビーカーをもう1両造らなければならなくなるだろ。食堂車も同じ理由で、だいぶ前から大分止まりにしていたんだよ」「節約のためですか。残念だなあ、あのソファーでもういっぺん、まったりしたかったんですけどねえ」2ヶ月後に控えた「富士」の大分止まりも、同じ節約の発想なのであろう。曲線の多い山あいを縫う単線の線路を、車体を軋ませながらとろとろと走っていく僅か6両の「富士」を、外から眺めれば、戦前の花形列車の面影は何処へやら、哀愁すら漂っているのだろうな、と思う。延岡駅で正午を迎えた。1300kmあまりを走り抜く「富士」の旅も、残り1時間程度である。「いよいよ最後の県だね」と声を掛けたが、S君は浮かない表情で頷いただけだった。東京から19時間、さすがに疲れたかな、と多少心配しているうちに、延岡と日向の明るい街並みが過ぎ、日向灘が左手の車窓いっぱいに広がる。深く切れ込んだ入江と、海に突き出した岬が代わる代わる現れるうちに、右手から山塊が押し寄せてきて、ふっと陽が翳る。「天祖の降跡より以逮、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢に霑わず。遂に邑に君有り、村に長有り、各自疆を分かちて用て相凌躒せしめつ。抑又塩土老翁に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山四に周れり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降れる者有り」といいき。余謂うに、彼地は必ず当に以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。蓋し六合の中心か。厥の飛び降れる者は、謂うに是饒速日か。何ぞ就きて都なさざらむや」と神武天皇が東征に船出したと伝わる美々津では、漁船が浮かぶ入江の奥の狭い平地に、家々が身を寄せ合っている。天孫降臨伝説の高千穂をはじめ、宮崎県内には神話の舞台となった土地が多く、過ぎ去る景観は鄙びてはいるものの、何処か格調高く感じられる。海と山に彩られた豊かな車窓を眺めていると、「富士」が日豊本線に乗り入れることについて「国鉄は何をしておるのか」という宮脇俊三氏の慨嘆は当たらないような気がしてくる。押し黙っていたS君が、唐突にこちらへ向き直った。「どうして『富士』は宮崎行きなんです?宮崎から中国への船が出ているんですか」「そんな航路はないよ。戦前の『富士』はあまりに存在感があったから、それに相応しい列車が登場するまでは、と温存し過ぎて、機会を失したって感じだと思う」前述した寝台特急「あさかぜ」や、東京と大阪を史上最速で結んだビジネス特急「こだま」などが登場した際に、列車名称の候補として決まって「富士」が挙げられたものの、将来別途使用の計画がある、と見送られて来た。ところが、昭和36年になって、「つばめ」「はと」「こだま」と並ぶ東海道本線電車特急の一翼を担う東京-神戸・宇野間の電車特急が、「富士」と命名された。2往復のうち1往復は「四国連絡特急」として東京と宇野を結び、その走行距離765.7kmは、当時の電車特急として最長であった。残り1往復は、電車特急のパイオニアである「こだま」の1往復を置き換えたもので、最長距離を走る列車、もしくは我が国の中枢である東海道メガロポリスを行き来する東京-神戸間の列車に「富士」の名が使用されたことは、それなりの格付けであったと言えないこともないけれど、温存してきた割には唐突な印象が否めない。しかも、東京-大阪間を結んでいた「つばめ」1往復が昭和37年に広島まで延伸されたため、「富士」の最長記録はあっけなく覆されてしまう。昭和39年の東海道新幹線開業を期に、東海道本線の電車特急は全廃されることとなり、「富士」の名は東京と大分を結ぶ寝台特急列車に冠されることとなった。昭和40年に、「富士」の運行区間が日豊本線経由で西鹿児島まで延長され、運転距離で頂点に立ったものの、昭和55年には宮崎止まりになって、またもや最長距離列車の称号を他の列車に譲る羽目になる。平成2年に運転区間が南宮崎まで1駅だけ延びたのも束の間、平成9年に運転区間が大分まで短縮されることが決定したという時点で、僕らは「富士」に乗っているのである。「分からないですねえ。それだけ大切にしていた名前を、どうして大分行きの列車につけたのかな。いえ、大分がどうこうって訳じゃありませんけどね」「だよね。でも、僕の推測に過ぎないけれど、国鉄は『富士』の西鹿児島延長を見越していたのかもしれない。国際列車を運行するような時勢でもないし、日本で初めての寝台特急やビジネス特急、新幹線には別の名前がつけられたから、残された花道は、日本で最長距離を走る列車しかない、と考えた人間がいたんじゃないかな。そう考えれば、宇野行きや大分行きの『富士』が生まれた理由が分かる気がする」僕が鉄道ファンになった昭和50年代、「富士」は憧れの対象だった。当時の子供向け鉄道書籍には、必ず「日本最長距離を走るブルートレイン!」などという修飾詞がつけられ、眩しい思いで写真に見入ったものだった。「富士」の名に相応しくないとは、これっぽっちも思わなかった。日本一に君臨していた15年間こそ、「富士」が戦後で最も輝いていた時代だったと思う。この時点では僕もS君も知る由もなかったが、この旅の8年後の平成17年に、「富士」は「はやぶさ」と併結して運転されるようになる。平成11年から「はやぶさ」と併結運転されていた長崎行き「さくら」と、下関行きだけになっていた「あさかぜ」もその年に廃止されており、大分・熊本行き「富士/はやぶさ」が、唯一残された「九州特急」となった。そして、平成21年3月13日、「富士」は「はやぶさ」とともに、80年近い歴史に幕を下ろしたのである。仮に、寝台特急「あさかぜ」の名が「富士」になっていたとしても、平成17年に廃止されてしまうことになる。ビジネス特急「こだま」が「富士」であったとしても、東海道新幹線の開業で廃止、新幹線が「ひかり」ではなく「富士」と命名されても、それよりも速い「のぞみ」が平成4年に登場する。世の中の進歩は日進月歩、古い物はどんどん淘汰されていく。僕たちが生きているのは、伝統だけを重んじて、1つの名称が長期間相応しい地位を保ち続けられるような、安定した時代ではない。我が国初めての特別急行として誕生し、「九州特急」の最期を飾る列車となったことで、もって瞑すべしであろう。「僕はですね、歴史のある『富士』に乗れて良かったって思ってるんです。最初は、どうして日本一長い『はやぶさ』に誘ってくれなかったのかって思ったんですけど」「ごめん、やっぱりそうだったのか」「いえ、違うんです。僕のおじいちゃんやおばあちゃんの時代から走っている列車に乗れて、光栄なんです。ただ、『富士』で鹿児島まで行きたかったなあって。宮崎で終わっちゃうのが残念なんですよ」車窓を覆っていた山々が後退し、緩やかな傾斜の丘陵に広大な畑が広がる伸びやかな景観に変わると、宮崎平野も近い。畦道や農家の庭先に、背の高い棕櫚の樹が並んでいる。空も明るく、強烈な光が流れて眩しい。南国に来たと思う。「あれは何ですか?」と目を見張ったS君の視線の先には、日豊本線の線路と並行する一筋の高架が続いている。「リニアの実験線だね。去年から山梨に移っているけど」「おお、あそこをリニアモーターカーが走っていたんですか。時速何キロ出したんでしたっけ」「517km」「写真で見たことありますよ。ここだったのかあ」いっぺんに元気になったS君の様子に安堵しながら、実現が何時になるのか予想もつかないけれど、東京-大阪間の中央新幹線として計画されているリニア超特急の愛称が「富士」になるのも悪くないのではないか、と夢想した。いつしか沿線の建物の数がびっしりと増えていた。内田百閒が訪れた頃には、『道幅も広く立派な市街であるが、何となく薄っぺらな感じがする。それは無理もないと云うのは、宮崎市は今度の戦争で17回に及ぶ空襲を受けたそうで、皮切りは昭和20年の3月8日、仕上げは戦争終結の詔勅が下りた直前の8月10日と12日とで、その時は海からの艦砲射撃と空からは焼夷弾爆弾と云う二重のサアビスを受け、綺麗に焼尽した所謂戦災都市なのである』と記された宮崎市であるが、今では戦争の痕跡など全く感じられない。ビルの谷間の街路を行き交う車や人も多いけれど、あと2ヶ月で『富士』がこの街に来ることはなくなる。この街に住む大多数の人々が、東京や名古屋、大阪に行くならば航空機が便利だから関係ない、と思うような些細なことかもしれないけれど、「富士」がこの街の復興を支え続けたことに間違いはない。戦争を挟んだ1つの時代が終わりを迎えようとしているのだ、と思う。宮崎駅で、上り「富士」とすれ違った。「あれが東京に戻る『富士』ですか?」「そうだね」「惜しいなあ、こんな終点近くですれ違うなら、もう少し発車を遅くして、そのまま折り返せるようにすれば、ロビーカーを宮崎まで持って来れるのに」それほどロビーカーのことが悔しかったのか、と苦笑しながらも、清掃や車両整備の必要性から短時間での折り返しは難しいし、東京の発車や到着時刻もなかなか移しにくいのではないか、と答えておくにとどめた。上り列車とは夜中に山陽本線でも邂逅しているはずで、自分の分身と2度もすれ違う列車は、「富士」と「はやぶさ」だけであり、我が国第1位、第2位を誇る長距離列車の貫禄と言えるだろう。宮崎駅を出ると、大淀川を渡る鉄橋の轟々たる走行音に掻き消されがちではあるものの、最後の案内放送が聞こえて来た。『皆様、長らくの御乗車、お疲れ様でございました。およそ5分で、終点の南宮崎に着きます。13時32分、定刻に到着を致します。車内にお忘れ物などございませんようにお降りのお支度を下さい。ホームは左側、2番乗り場に到着です。降り口は左側でございます。南宮崎から先、都城方面、西鹿児島行きの普通列車は13時38分です。1番乗り場から連絡を致します。日南線青島方面は14時06分、2番乗り場からの連絡です。次は終点の南宮崎、13時32分に到着を致します。御乗車ありがとうございました』宮崎では、毎年春季キャンプを張る巨人軍の御用達として知られる釜あげうどん屋「重乃井」に寄って、遅くなった昼食を摂ってから、宮崎空港を発つ航空機で羽田に戻る予定だった。貴重な週末のうち、宮崎に来るだけで20時間を費やしたのであるから、のんびりと宮崎を観光する余裕はなかった。南宮崎駅の高架ホームに降り立った客は、数えるほどだった。東京、名古屋、関西から乗り通してきた客も僅かであっただろうし、下関以降の「ヒルネ」客も、速さで勝る「にちりん」に乗り換えてしまったのだろう。S君は、少しばかり埃っぽくなっている「富士」を名残惜しそうに何度も振り返りながら口を開きかけたが、言葉は発しなかった。すっかり秋めいていた東京と異なり、僕らの身体にまとわりつく宮崎の空気は、あたかも夏のような温もりと湿り気が感じられた。にほんブログ村人気ブログランキングへ↑よろしければclickをお願いします<(_ 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    第17章 平成9年 東京発南宮崎行き寝台特急「富士」~80年の足跡を偲ぶ~後編
  3. 国鉄らしくなくカッコ良かった203系
  4.  こちらの 天賞堂の古いEF15 一応、走りますが、ノイジーです というのも ドライバーで指したギアが割れているからです 矢印先に裂け目があるの、分かりますか? 入手した時点では、この裂け目が原因でギアが引っかかり、走行できない状態でした ま、ジャンクで手に入れたので仕方ありませんが・・ で、ギアの裂け目が広がらないよう、ギア中央の真鍮色のスペーサーが入る穴を少し広げた上で、スペーサーにエポキシ接着剤でギアを接着しました これで、一応走るようになったものの、ノイジーって訳です しかも、この車両、800〜900gはある重量級 ユニトラックでのお座敷運転派にはなかなかつらい・・ ユニトラックが車両の重みでたわみ、走りが不安定になったり、ショートしたりするんで 一応 ショート対策に、台車と床板とを絶縁しています(純正状態だと、金属製のスペーサーを使っているので、通電する状態です) だから、レールが捩れて、通電していない台車と床板が触れてショートするってことはないとは思うのですが・・(未確認) ちなみに、スペーサーとして使ったのはこちら これが何か、分かる人には分かりますよね ただ、ライトは光らないし、動きもスムーズじゃないし、手放そうかな〜って思っていました でも、一つだけやり残したことがあるんですよね それは、上の、裂けたギアの更新です 実は こういうものを手に入れていました 確かPOM(デルリン)製のギアです モジュール、歯数は、さんざん調べた結果、こちらではないかと🤔 いつか、このギアに入れ替えようと思いつつ、放置熟慮期間に😅 それがようやく、重い腰を上げて、作業に取り掛かりました まずは ボディを外し、ウエイトも外し、と分解していきますが、台車まで取り外さないと、先ほどのギアボックスにアクセスできません あー、めんどくぜー😩 で、ギアの方は 噛み合わせは大丈夫そう 軸の太さに比べ、ギアの穴が大きいですが、そこは こちらを使った手製スペーサーでカバー こんな感じに手製スペーサーを打ち込み(というか、真鍮パイプを打ち込んでからカットし) 無事、収まりました〜✌️ で、グリスアップしつつ元通りに組み直します ギア更新の成果はこちら(更新前)(更新後) ノイズが多少減った? 少なくとも音質が変わったような気がします あと、走りが滑らかになったような・・気がします😅 こうやって手を加えて上手くいくと、手放すのが惜しくなりますね 実は、壊れていたパンタグラフも当時の純正部品に交換していますし ということで、こちらはステイで😅 せっかくのブラス車両なので、やはりブラス製の貨車数両(ただし、車掌車はカトー😅)を引っ張らせて、走行音を楽しんでみたいですね ところで、今回のギアの耐久性についてですが、まだ走らせてみないと分かりません デルリンなので、そこそこ保つのでは? ま、仮に摩耗が早かったとしても 予備がこれだけありますから〜 いや、4個買うつもりが4組買ってしまいまして スペーサー入れて販売しようかな🤔(←コラ)  

    【HOゲージ】天賞堂EF15の整備
  5. そういえば昨日2/2から公式アプリの「東京アプリ」で本人認証をした都民に1万1000円分の「東京ポイント」の付与を始めました。東京アプリにログイン。新バージョンへのアップデートを促されます。アップデート後にマイナンバーカードによる本人確認を実施。その後東京ポイントの申し込みを実施。あっけなく申し込みが完了しました。この、1万1000円分の「東京ポイント」はpaypayやdポイント、楽天ポイントなどに交換して利用可能です。マイル最上位会員を株主になってゲット──。全日本空輸(ANA/NH)の最上級ステータス「ダイヤモンドサービス」の一部特典を、一定条件を満たす株主向けに提供する制度を持株会社のANAホールディングスが導入するそうです。現在の株価では、6000万円程度でダイヤモンド会員になれる計算とのこと。ANA、最上位ダイヤモンド会員を約6千万円で 長期株主特典に(Aviation Wire) - Yahoo!ニュースマイル最上位会員を株主になってゲット──。全日本空輸(ANA/NH)の最上級ステータス「ダイヤモンドサービス」の一部特典を、一定条件を満たす株主向けに提供する制度を持株会社のANAホールディングスnews.yahoo.co.jp新制度は、2026-2028年度のANAグループ中期経営戦略で1月30日に発表されたもの。大口の長期保有株主を対象に、ダイヤモンドサービスの特典を体験できるようにする。搭乗実績ではなく株式保有を基準としたステイタス提供が特徴となる。  毎年9月末の基準日で2万株以上を3年以上(連続7基準日以上)、同一の株主番号で継続保有している個人株主が対象。条件を満たした株主には個別に案内し、ダイヤモンドサービスの一部特典を提供する。1月30日の終値1株3005円を基に計算すると、おおむね6000万円程度で手にすることができる。  ANAのマイル制度「ANAマイレージクラブ(AMC)」は、搭乗実績などに応じて最上位ステータス「ダイヤモンド」、これに次ぐ「プラチナ」、3番目の「ブロンズ」があり、「プレミアムメンバー」と位置づけている。また、上位会員向けカード「スーパーフライヤーズカード(SFC)」があり、アップグレードポイントはプレミアムメンバーとSFC本会員が利用できる。  現行の「ダイヤモンドサービス」メンバーの達成条件は、毎年1月1日から12月31日までの1年間に、所定の基準を満たす必要がある。基準のひとつは搭乗実績のみを対象とするもので、年間10万プレミアムポイント(PP)以上(うちANAグループ運航便利用分5万PP以上)の獲得が必要となる。 このほか、搭乗実績に加えてANAグループが提供する「ライフソリューションサービス」の利用や、ANAカードやANA Payの決済額などを組み合わせて達成できる基準も用意している。今回の新制度は、こうした搭乗実績や決済額にかかわらず、株式の保有数と期間のみでステイタスを得られる点が特徴となる。  また、株主還元では、配当性向20%程度を維持しながら、安定配当に加えて機動的な自己株式取得を行う方針。2026年度からは中間配当制度を導入して年2回配当とし、株主優待制度も2026年6月以降に刷新・拡充する。現行の「フレックス(50%割引)」に加え、低価格帯の「シンプル運賃」を5%割引で利用できる設定や、国内・海外ツアー商品の割引率を実質10%程度に引き上げること、3年以上保有する株主を対象とした国内線搭乗優待の優遇、傘下のLCC(低コスト航空会社)のピーチ・アビエーション(APJ/MM)便を対象とした株主優待の新設などの案を示している。従来、ANAをはじめとする航空会社は株主に対して株主優待券の発行はしますが、所謂上級会員のステータスには門戸を開いていませんでした。上級会員になるためには本人が飛行機に搭乗してハードルを超えるしか無かった訳ですね。ところが今回、ANAが大株主かつ長期保有者に対してダイヤモンドステータス(の一部)を付与すると発表しました。今までの原則を変更するものではあります。但し、そのハードルはとてつもなく高いと言えるでしょう。毎年9月末の基準日で2万株以上を3年以上(連続7基準日以上)、同一の株主番号で継続保有している個人株主が対象。2万株以上と言うことは概ね6000万円。それを3年以上保有するとなるとなかなか普通の人にはハードルが高いですね。6000千万円の資金が余っている人はANAの株式に突っ込んでみては如何でしょうか❓🤣因みに気になったのは、ダイヤモンドサービスのどれが与えられるかと言うこと。

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    【ANAの株式を長期保有でダイヤ会員⁉️】ANA、最上位ダイヤモンド会員を約6千万円で
  6. 【97240】 鉄道模型 Nゲージ)楽天市場[鉄道模型]トミックス 【再生産】(Nゲージ) 9454 国鉄ディーゼルカー キハ56-200形(T)楽天市場[鉄道模型]トミックス 【再生産】(Nゲージ) 9455 国鉄ディーゼルカー キハ27-200形楽天市場ついに…本当についにTOMIXからキハ400という車両が出てきました。今までマイクロエースからしか出ていなかった車両で、1990年代の宗谷本線を走る急行「宗谷」「サロベツ」「利尻」で使用された車両です。厳密には、急行「ちとせ」「天北」にも実績がありますが、今回発売のものは末期使用のためロゴとかが違います。製品仕様について解説しますね。 今回、編成にキハ182が入っています。JR北海道がやらかした所業の中でもトップクラスの魔改造です。1997年に急行用キハ400から3台をお座敷車に改造するため、どうせ3両以上連結する急行なら運転台のない車両ならなんでもいいだろうとまさかの余剰となっていたキハ182を3台改造して編成内に突っ込んだものになります。 キハ183系はもともと先頭車またはキハ184から給電してサービス電源を確保していたため、改造時に機器室を設置して発電エンジンを設けています。このキハ183系改造車が編成に入ったのが1997年末でしたので、今回の編成をそのまま出す場合は1998年~(特急化で廃止)2000年の姿になります。 なお、キハ182が編成に入る場合 はほぼ固定で稚内側から2両目で、1両目にはキハ480-1300が入ります。発電機のないキハ480-1300へ給電することも兼ねていますが、給電はキハ400からもできるので2両目が必ずキハ182になる というわけではないです(3運用3両なのでキハ182が入らない編成もあります)さて、ちょっとだけ歴史に触れてみますか。キハ400という車両が登場したのは1988年。車内環境改善のために客車になっていた宗谷急行のスピードアップのために導入されました。当初は急行「宗谷」と天北線周りの急行「天北」に、キハ56系で運転していた急行「ちとせ」に充当されていました。当時は急行「狩勝」もキハ56系で運転されていたことを考えると、なんで「ちとせ」だけバージョンアップに踏み切ったのかは謎です。最高速度は95km/hのままながら、リクライニングシートやカーテンなど特急並みの設備となっていて、キハ56と比べるとかなり立派な車両に見えます。空いてる場合にキハ56がいいって人も多かったそうですが。 1989年に天北線廃止に伴い、急行天北が宗谷1・4号に変更になっています。ここでキハ400のロゴが変わります(最終ロゴのSOYAのみ)。 1990年に急行ちとせが781系ライラックになったため、キハ400の千歳線運用が廃止となりました。余った車両を使ってなのか、1991年に客車運用を継続してた急行「利尻」が気動車混結に変更となります。ここでキハ400のロゴが変わります(RISHIRIが追加)。 さらに1992年に急行宗谷のうち1往復を「サロベツ」に変換ここでキハ400のロゴが変わります(SAROBETSUが追加)。なんということでしょう、登場から4年で4パターンのロゴがあるのです。今回の製品はキハ400末期の仕様ですから、キハ182を連結しないことで1992年以降の仕様と見れなくもないです。厳密にはジャンパ線受けの凹みの有無なんかがありますが…一般的な編成は≪急行宗谷・サロベツ≫←稚内[キハ480][キハ182] <増結車> [キハ400] + [キハ400(名寄止)]<名寄回転?するやべー増結車>≪急行利尻≫←稚内[キハ480][キハ182] <増結車> [キハ400][キハ400]<JT系増結車>となっていたようです。キハ182の位置にキハ400を入ることもあるようです。複雑すぎる列車ですが、楽しみがいもある列車です。トミーテック (TOMYTEC) TOMIX Nゲージ JR キハ400系 利尻 セット 鉄道模型 ディーゼルカー 97240Amazon(アマゾン)ではまた次回です~( `ー´)ノ

  7. 28日、今年も真夜中から行動開始です!静まり返った音威子府駅でラッセルを待ちます。昨年は1:25頃にやって来たのですが、今年はまだ来ません。一昨年が1:35頃だったので、その頃なんだろうと待っていると、車でお兄さん達がやって来て静寂な空間はどこへやら・・・そんな事を思っていると、細かい雪がちらつく中、1:30頃にやって来ました!雪361レ DE15 2511 音威子府駅駅構内もフランジャーを下げて排雪していました!排雪シーンを夜中に僅かながらでも見れたのは嬉しかったです!やはり排雪しているのが見れないとねぇ~・・・後追いで停車するところを・・・1分も停車したかどうか位で発車して行きました。お兄さん達はあっという間に居なくなっており、DE15のエンジン音が静寂を取り戻した駅に響き渡っていました。後追いの撮影を失敗しましたが、音威子府駅での動画です。この後、一旦宿に戻ってひと眠りし、また朝の暗いうちに稚内方面へと出掛けました。昨年と同じように抜海駅からの直線区間で撮ろうと、思い行ってみたのですが、少し先の方の道路で除雪作業が行われていました。大丈夫かな?と思いセッティングをしていたのですが、次第に作業範囲が近付いて来てしまい、作業員の方から「作業の邪魔になるから退去して下さい!」との通告を受けてました。自分以外にも準備をしていた方々が居たのですが、皆さんそれぞれ別の場所へと移動する事となりました。さぁ何処にしようかな?と思い跨線橋の所も見てみたのですが、膝の事もあるので斜面ではちょっと無理そうと判断をし、無難に勇知駅のホーム端から撮る事にしました。さぁ、どうなるかと思い待っていると、カーブを抜けて姿が見えたラッセルは・・・おっ!ウィングを広げて排雪してる‼と、喜んだのも束の間ウィングが閉じてしまいました・・・そんなに早い段階で閉じちゃうんだったかな?と、がっかりしていると・・・おやっ!またウィング開いて排雪を始めました!DE15 2511 雪372レ 勇知駅 8:43頃やりました‼雪の量は少なくて迫力には掛けますが、ウィングを開いて排雪している姿を撮影する事が出来ました!今年は空振りで終わるかとがっかりモードだったのですが、これで一気にモードが切り替わりました。後追いでも、ウィングの開いている姿を・・・誰も来なくて自分1人で独占させて頂きました。急に張り切りモードになったからといっても無理は禁物なので、この次は、下沼の跨線橋で撮る事にしました。到着してみると、利尻富士の上の方だけ見えているではないですか!兜沼~豊富では見えていなかった筈なので、この辺りから見えるようになったと思われます。見えないだろうと諦めていたので、ここでも運が味方してくれたようです。下沼~幌延 9:28頃陽射しが無くなってしまったものの、チラッと見える利尻と絡めて撮る事が出来ました!飛ばしてる雪も微妙ですけどね。次は、久し振りに南幌延駅が見える踏切にしました。先に来ていた方がもうすぐ来るというのに居なくなってしまい、ここでも自分1人で撮影となりました。幌延~糠南(南幌延~安牛)9:51頃後追いで雪煙に隠れるラッセルを・・・雄信内に向かう踏切にちょうど間に合いました。幌延~糠南(安牛~雄信内)9:56頃雄信内駅手前の踏切でも撮れました。幌延~糠南(安牛~雄信内)9:59頃次も無難に歌内にしました。問寒別~天塩中川(歌内)10:44頃日が陰ったり射したりでちょっと焦りましたが・・・雪の量が少なく立ち位置の高さが低くて少し線路を見上げる感じになってしました。ここまでの雪372レ区間での動画です。(動画を撮影していない場所もあります)次から後半戦です。と言っても冒険はせずに無難に琴平へ・・・ここは背景の着雪した木々が良い感じなので、敢えてこの構図で!DE15 2511 雪362レ天塩中川~佐久(琴平)11:45頃特急宗谷が遅れた影響で10分程度遅れていたと思われます。ここも雪が少なく、立ち位置の丘の高さが低かったです。次も定番の音威子府スキー場の下で・・・音威子府~咲来 12:34頃ここも、背景の着雪した木々が良い感じなのでこの構図で!次の場所ですが、膝の状態から美深のS字には行けないと判断し、美深駅寄りの踏切で撮る事にしました。天塩川温泉~美深(初野~美深)13:11頃マイクロフォーサーズの300mm(35mm換算600mm相当)なので、高速道の跨線橋下からでもS字を撮れました!次も東恵橋まで行くには時間が足らないと思われるので、無理はせずに南美深駅跡地へ向かう途中の道から撮りました。美深~智北(南美深)13:21頃この場所は遠くから走ってくる姿をサイドから見れるので、もっと天気が良い時や、積雪が多くて跳ね飛ばす雪が多い時にはもってこいの場所かと・・・今回はそこまで条件は良くなかった訳ですけど・・・という感じで北線での撮影はここままでで終了し、南線へと移動しました。ここまでの雪362レ区間での動画です。南線は、結局蘭留跨線橋にしちゃいました・・・DE15 2515 雪351レ蘭留~塩狩 15:11頃新たな降雪はなかったようで、また回雪でした・・・後追いも・・・南線は2日連続で回雪でした。とは言え、全線回雪という最悪の状態にはならずに済んだので、今年来た意味が無くならずに済んで本当に良かったです。翌日(29日)も若干撮影はしておりますので、その内容も別記事とさせて頂きます。

    2026年1月28日 宗谷ラッセル(北線,南線)
  8. なっていますこちら座席はグリーン車と同じ座席ですリクライニングは2段階で折れる様になっています接続のかもめが到着1人で個室を使うのはとても贅沢でした武雄温泉駅を出発江北までは一部単線区間を走ります操作パネルで室内灯を消すことも可能です江北駅手前で長崎本線と合流しますあちら側の路線で長崎に行く機会は無くなってしまいました江北駅に到着江北駅を出ますと佐賀に止まりますバルーンさが駅付近を走行中バルーンフェスタ期間のみ営業する臨時駅ですいつか訪れたい駅の1つです鍋島貨物ターミナルを通過以前はEF81が止まっていた場所にはEF510が停車していましたこの数年で貨物の機関車の置き換わりが大変進んでいます佐賀駅に到着唐津線の列車が停車中佐賀駅を出ると新鳥栖に止まります鳥栖に到着 鳥栖貨物ターミナルにはEH500が停車中竹下駅を通過2年前この駅でEF81-303牽引の貨物を撮影しました今では国鉄型機関車も全て無くなってしまいました竹下駅通過から5分ほどで終点の博多駅に到着博多駅は工事の関係で一部で路面軌道になっています武雄温泉から1時間ほどの乗車でしたがとても快適でしたハウステンボス号が出発して行きました787系また九州に来た際は利用したいと思いますここから福岡空港に向かいます地下鉄に乗車旧型車を軽く撮影しておきましたpeachで関空に向かいます最後尾の通路側座席でした日帰りで行く九州旅充実した時間となりました関西九州往復8000円は本当に破格です今後もLCCを使って行きたいと思いますご覧くださりありがとうございました[おすすめ記事]『787系リレーかもめ38号グリーン個室乗車記(武雄温泉→博多)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『N700Sかもめ38号乗車記(長崎→武雄温泉)』ご覧くださりありがとうございますもう5月に入りましたね午…ameblo.jp『かもめ38号リレーかもめ38号グリーン個室乗車記(長崎→博多)』ご覧くださりありがとうございますJR長崎駅に来ております今回は新幹線かもめ特急リレーかもめに乗車し博多へ向かいたいと思います西九州新幹線は長崎→武雄温泉間を2…ameblo.jp『筑肥線103系乗車記(加布里→唐津)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『筑肥線103系(加布里〜一貴山)撮影記』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『A320p…ameblo.jp『ラピートαスーパーシート乗車記(新今宮→関西空港)』ご覧くださりありがとうございます今回は南海の空港特急ラピートに乗車します新今宮駅からの乗車JRでは搭乗予定の飛行機に間に合わない為今回は南海を利用入線南海ラピ…ameblo.jp『京阪急行3000系プレミアムカー乗車記(出町柳→京橋)』ご覧くださりありがとうございます 今回は京阪3000系プレミアムカーに乗車します上賀茂神社に初詣に行った帰りに乗車しました『初詣で上賀茂神社へ』ご覧くださりあ…ameblo.jp『E3系つばさ139号乗車記(宇都宮→かみのやま温泉)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『下今市→宇都宮へ』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]続き『SL大樹ドリームカー乗車記(鬼怒…ameblo.jp『[2026年3月運行終了]南海天空乗車記(極楽橋→橋本)』ご覧くださりありがとうございます今回は南海高野山観光列車天空に乗車します天空は橋本⇔極楽橋間を2009年から運行している観光列車です2026年3月に定期運行が…ameblo.jp『SL大樹ドリームカー乗車記(鬼怒川温泉→下今市)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『鬼怒川温泉駅にてC11-325入換撮影』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『リバティ…ameblo.jp『寝台特急サンライズ92号シングルツイン乗車記(出雲市→東京)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『特急やくも5号セミコンパートメント乗車記(岡山→出雲市)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記…ameblo.jp『観光特急あをによし乗車・奈良観光(京都→奈良)』ご覧くださりありがとうございます今回は近鉄の観光特急あをによしに乗車しますあおによしは大阪難波⇔京都間を運行する観光特急となっています偶然ツインシートに空席を…ameblo.jp『WEST EXPRESS銀河紀南昼行クシェット乗車記(新宮→大阪)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『新宮駅にて銀河を撮影』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『287系くろしお1号グリーン…ameblo.jp『名阪臨時列車『楽』乗車記(近鉄名古屋→大阪難波)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き今回は近鉄団体専用列車楽に乗車していきます2025年9/6・7・21・10/4・5の5日間限定で近鉄の楽が…ameblo.jp『カンセンジャーと行く500系大満喫の旅乗車記』ご覧くださりありがとうございます2025年7月27日に開催されましたカンセンジャーと行く500系大満喫の旅に参加してきました今回はその時のレポートですこの旅は…ameblo.jp『ふたつ星4047午前便乗車記(江北→長崎)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『783系ハウステンボス15号乗車記(博多→江北)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『…ameblo.jp『683系安寧まほろば91号乗車記(奈良→新大阪)』ご覧くださりありがとうございます2025年4月5日に特急まほろば安寧編成が登場しました今回は営業運転2日目のまほろば安寧編成に乗車していきます今後まほろばは2…ameblo.jp『かにカニはまかぜはなあかり乗車記(大阪→城崎温泉)』ご覧くださりありがとうございます[前回の記事]の続き『通勤特急らくラクやまと乗車記(久宝寺→大阪)』ご覧くださりありがとうございます今回はJR大和路線の通勤特…ameblo.jp

    リレーかもめ42号グリーン個室乗車記(武雄温泉→博多)
  9. 製品からの改造車 鉄道模型]』今日はKATOのEF81形電気機関車です。双頭連結器製品を購入~カプラー交換や周囲の改造、白Hゴム化などやって、オリジナルスタイルのEF81 139となりまし…ameblo.jp今まで導入して来なかった形式なんですが、遂に手を出すことになりました~😅。例により?パワーパック通電可能な線路上で動作確認だけ行い、早速整備にかかります。まだ途中なんですが、整備した姿です。カプラーは暫定でKATOナックルに換装しましたが、この先変わる予定です。機番はEF57 4を選択しました。自前の写真が無いんですが、もしかしたらEF57の実物を見ているかも..という記憶がおぼろげにあります。ブルトレブームの走りで友人たちとカメラ片手に、始発電車に乗って6時過ぎ上野着~初の駅撮りをやったのが1976年(春以降)です。この時に多分夜行急行を牽引して到着した?茶色い機関車を見たような記憶がある..EF57だったかも?程度なんですが、当時は華やかな特急電車やブルートレインばかりを追っかけていて、古い機関車にカメラを向けていませんでした。今思えば何と勿体ない、なんですが在来線の特急、急行がひっきりなしに着発する時代だったのでやむを得ずかな?です。KATO製品収載のナンバーで1976年春以降残ったのは4号機だけなので必然的にこの機番になりました。(この先ヤヤコシイことになるんですが😲。7号機を収載してくれていればね~😅。)早速バラシてDCC化からスタートです。Digitrax DN163K4aデコーダを搭載することにしました。細かいハンダ付けの際にチップ抵抗を1つ壊してしまい😅、ケーブルを引っ張って矢印位置に付けたもの..正常動作はしますが手持ちK4a最後の1枚です。左下のパーツは側面を黒く塗りました。機関車の機器室は外から見ると基本真っ暗~が自分のイメージだからです😁。最初のリンク↑;EF81のように製品付属のライト基板を切断して、緑枠内にDigitrax DZ126を仕込めば安く済むんですが、基板上の素子類との干渉を防ぐため屋根が高い機関車限定です。EF57の場合屋根上抵抗の切れ目=低い部分が丁度デコーダ搭載位置に当たってしまうので難しいだろう との判断でした。作業中、信号炎管が無くてあれれ~?と思ったんですが上に写る黒い屋根パーツを外した時に意識しておらず~炎管パーツが飛んじゃったんでしょう。何も考えずにバラすとこういうことがあります😅。手持ちのパーツから切出してフォロー~取付が緩い気がしたのでゴム系接着剤併用です。DN163K4aを使っても、素子類が干渉しないようボディー上面に切込みを入れてやる必要はあります。PS14パンタグラフはEF57専用;車体側の取付台座嵩上げ部が一体になった構造でした。下記↓の蔵書写真より、パンタグラフは銀色だったものの取付台座は黒だったようなので、台座とパンタ部を外し、後者のみ銀色塗装をかけました。ブラックのサーフェーサー~TAMIYAのメタルシルバーを吹いています。菱形パンタの折り曲げ部には赤塗装が入っていたようなので、色挿しして組み直しました。EF57 2号機以降の特徴、パンタグラフがオーバーハングしているのがイイ感じと思います😁。区名札 宇 は銀河モデルN-507の小文字タイプを、更に上下左右をいくらか詰めて切出し、貼付けました。製品はdetail表現や表記類印刷などしっかりです。宇都宮機関区所属の晩年仕様~EG(電気暖房)化された後の姿ですが、その前はパンタ脇のベンチレーター付近にSG(蒸気暖房)があったようです。SGの吹き出しを避けるためにパンタグラフが内側に寄せられたのが1号機、しかしSGの熱を避け切れなかったのと、前後位のパンタが寄り過ぎていて、前者が架線を押し上げた衝撃の影響が後者に悪影響を及ぼした(離線が多かった?)とのことで、2号機以降はボディーをオーバーハングするまで外側に寄せられ、取付位置も高く設定されたようです。しかし1号機は改造されること無く、そのまま走ったのも国鉄時代らしい??😅。自分で見たことがあったか?程度の機関車なので情報が少なく、写真の本を買ったりで色々調べていました。上記パンタグラフの件はこれに書かれていた内容です。表紙写真がEF57 4なんですが、KATOの模型と異なる部分が見られるんですね~😅。再び3枚目の写真ですが今回はここまで、まだ色々弄って行くことになります。なお、10系寝台+旧客の急行”鳥海”を急行”津軽”と一部共用で楽しもう という事を始めていますが↓、EF57の牽引列車として”津軽”が欲しかったというのが主な理由でした😁。客車編成の方もまだ途中なので、この先いくつか記事Upが続きます。『10系+旧客急行鳥海編成~津軽車両との混成にアレンジ [鉄道模型]』今日は10系寝台車+旧客時代の急行鳥海編成の話です。長く鳥海で運転して来ましたが、牽引機関車のバリエーションが少ないな~と思うようになり、同じく10系寝台+旧…ameblo.jp最後までご覧いただきありがとうございました。 鉄道.comへ

    KATO EF57~早速の整備開始で4号機登場 [鉄道模型]
  10. イシ掲載の新年恒例鉄道模型メーカー残り2社の社長インタビュー。○TOMYTEC(TOMIX)2025年3月期は売上、利益とも計画以上の実績を上げた。インバウンド需要が継続して売上拡大に貢献、グローバル展開も意識した商品企画やプロモーションが徐々に実績に。2026年3月期は50周年をフックにイベントやプロモーションを拡大して、売上、利益とも前期比10%増をめざす。回転式ヘッドマーク、給電システムなどは、50周年に向けてより具体的な形で発表していきたい。鉄コレポケットは第1弾が好評で第2弾は発表済み、第3弾も準備中。2025年3月期の具体的な金額の言及はないが、売上は過去最高やったらしい。2024年3月期の売上は72億円、2023年3月期73億円が直近6期で最高やったことを勘案すると、74-5億円か?利益は、2024年3月期の赤字から2025年3月期に黒字に転換したが、水準は過去に比べると高くはない。『TOMIX 黒字やん、』TOMIXやジオコレやらのブランド展開してる、タカラトミーの子会社トミーテック(TOMYTEC)の決算公告が出たで。2024年3月期は赤字やったが、『TOMI…ameblo.jpちなみに過去5期の当期純利益は、’25年3月期  54百万円’24年3月期 △ 35百万円’23年3月期 1億8百万円’22年3月期 3億12百万円 ’21年3月期 2億49百万円売上の変動率以上に毎期利益が大きく変動してるのは気になるな。2026年3月期および2027年3月期はTOMIX50周年なんで、今後どんなプロモーションを出してくるか、まずは5月の静岡ホビーショーが楽しみやね。50周年で50系板谷はちょっとなあ。まさかナインスケールの貨車で50周年終わりなんか?○マイクロエース2025年3月期の売上は前期比微増だが、生産コスト軽減等により営業利益は近年にない伸び率を確保。Nゲージ車両の新製品は、完全新規金型になると、2-3両編成で1000万円、4-5両編成では2000万円が必要ゆえ、投資負担など諸事情を考えると、同業者との協業もすすめていきたい。2026年は私鉄や国鉄、JRの変わりダネ車両や歴史的な人気車両など、マニアやライトユーザー層にも興味を引く製品を開発。前期の利益はゼロに近かったんやろ。当期は売上が少し増加したにも関わらず、それ以上の割合で利益が増えたということは、損益分岐点分析におけるボラティリティそのもの。という意味において、一時よりは業績は改善したようやが、あいかわらず厳しそうやね。業界再編の波にさらわれるかも。大井川のEF65Pモドキはマイクロらしい製品。SNSでよく見かけるが、実際は売れてんのか?にほんブログ村

    TOMIX.マイクロ  最近の業績やら
  11. て自由席に移動両方座席を楽しみ快適に移動最近サボっていた車両内探検やっぱりするべきだよね~4・5号車は指定席の2号車と同じでした途中で暗くなっちゃって外は真っ暗カッコいいぃ なんの工場だろ外が見えないと列車移動の楽しみは半減冬は日が短いからしょうがないけどさ欲張らず、明るい時間だけ乗るように計画たてなきゃね、反省そして2年ぶり2度目の大分に到着『大分市内観光①【府内城(大分城)址公園】』ハロー!自由時間ネットパスで北九州D&S列車に乗る旅 2日目 その3青いソニックで博多から大分に移動した後『青いソニックで博多から大分へGO!!』ハロー…ameblo.jp前回は列車待合の時間だけだったけどがっつり歩いて観光した想い出深い街可愛いくろちゃんぶんぶん号動いて乗れる時間があるんだよミニトレインのご案内 │ シティ屋上ひろば │ アミュプラザおおいた 公式サイト※当施設は季節や天候そのほかの都合により、一部営業時間の変更、中止となる場合があります。  ミニトレイン ぶんぶん号 大分駅コンコース~JRおおいたシティ通路をぐるりと一周する、楽しいミニトレインです。 料金 1周 www.jroitacity.jpJR大分駅駅前のイルミネーション、綺麗だねつづく

    JR九州【特急にちりんシーガイア】指定席あるある?!
  12. 。ソウル郊外の「義鉄道博物館(의왕철도박물관 Uiwang cheoldo bagmulgwan ウィワン チョルト バンムルグァン、京畿道義王市)」を訪問しているところ。数々の車両が保存されている、韓国唯一の鉄道博物館です。本館の、朝鮮半島に鉄道が開業してからの歴史的に貴重な展示を拝見しています。鉄道車両に取り付けられていた数々の製造銘板からも、戦前35年にわたり朝鮮半島を統治した日本の影響が強かったことがわかりました。さて、前回では日本の朝鮮統治時代に、宗主国だった日本の鉄道車両に導入された技術の一端を窺うことの出来るものをこのパネル展示に発見した、というところで終わりました。それがこの車両。「金剛山電気鉄道(금강산 전기 철도 Geumgang-san jeongi cheoldo クムガンサン チョンギチョルト)デハニ形電車」です。金剛山電気鉄道は1924(大正13)年8月開業、同年10月に電化。1931(昭和6)年7月に路線が全通したという、戦前の朝鮮半島では路面電車を除くと、唯一の電車でした。社名にあるように、この電気鉄道は朝鮮半島を代表する名峰「金剛山(금강산 Geumgang-san クムガンサン)」を目指したもの。いわゆる観光路線として開業したのでした。金剛山(クムガンサン)は、太白山脈に属する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)江原道にある山。最高峰は毘盧峰で、標高1,638mである。古来朝鮮半島では、白頭山と並ぶ名山とされてきた。グーグル地図より。以下、出典①。金剛山は内金剛(ネグムガン)、外金剛(ウェグムガン)、海金剛(ヘグムガン)の大きく3つの地域に区分されている、最高峰である毘盧峰がある中央連峰を境とし、西側を内金剛、東側を外金剛、東端の海岸部が海金剛である。(中略)金剛山観光地区が制定されているのは外金剛と海金剛の一部で、韓国側からの観光もこれらの一部のみで行われてきたが、2007年6月以降、内金剛の観光も開始された。新羅時代より仏教が盛んだった金剛山には、神渓寺(シンゲサ)、楡岾寺(ユジョムサ)、長安寺(チャンアンサ)、表訓寺(ピョンフンサ)の「金剛山四大寺院」をはじめとする寺や石塔、石仏などが多くあったが、朝鮮戦争の結果、双方の戦闘や米軍の爆撃などで多くの文化財が破壊され、表訓寺以外は現存しない。北朝鮮時代になってからは金日成・金正日親子を称える文字を大々的に岩に刻み付ける行為が続けられている。現在は、その大半が北朝鮮領内にある金剛山。解説にあるように、手つかずの自然が豊かで源泉があちこちに点在、さらに風光明媚な海岸線をも有する地域ということで、かの国では金正恩総書記が国を挙げてリゾート開発を進めているそうです。続きます。20世紀初頭は交通の便が極めて悪く、金剛山を訪れる人も極めて少なかった。しかし、その風貌が知られるにつれ「日本有数の名山」とされ、徳富蘇峰(1863-1957。現在の熊本県出身のジャーナリスト、思想家、評論家)や若山牧水(1885-1928。現在の宮崎県出身の歌人)などの著名人が金剛山を紹介したこともあり、広く世に知られるようになった。外金剛に当時、朝鮮半島有数のスキー場が作られ、山スキーも盛んに行われるなど、金剛山には四季を問わず観光客が集まるようになり、日本式や朝鮮式の旅館が立ち並び大いに栄えたと言う。金剛山を国立公園とする運動も起こったが、それは実現しなかった。なるほど、日本統治時代になってから金剛山一帯は一大観光地として開発されたという。さらに地理的に大都市・京城(ソウル)にも近いことから、内金剛に至るアクセスルートの開拓が朝鮮総督府により図られます。続きます。やがて鉄原(철원 Cheorwon チョルウォン、韓国江原特別自治道鉄原郡。日本統治時代には「てつげん」と称した)から金剛山電気鉄道という私鉄によって内金剛の麓まで、さらに朝鮮総督府鉄道の東海北部線によって外金剛の麓までアクセスが可能になると、金剛山は一大観光地となった。そのメインルートとして開業したのが、くだんの「金剛山電気鉄道」でした。観光路線としての使命を帯びたこの鉄道、当時の朝鮮半島の鉄道としては、画期的な存在だったようです。次回に続きます。今日はこんなところです。(出典①「フリー百科事典Wikipedia#金剛山」)

    春まだ浅き韓国ソウルをひとり旅2025〜その46
  13. この記事は2025/9にUpしたED75廃回~全車引退に寄せての記事の759号機写真分を抜粋~一部文章の修正をしたものです。759号機晩年~最後の撮影となった写真を追加機番シリーズとしてUpします。Index記事にも追加します。いつもご訪問頂きありがとうございます。以下本編です↓。■ED75 759仙1972~2025 (仙は最終所属を示します。)最後まで仙台に残ったED75 759です。1972年の誕生から53年間..ナナゴーファミリーでは最長寿記録だったと思います。晩年の759はKE77開放栓ケーブルが両Endに付いていました。重連総括制御運転をやるわけでも無いのに何で?はさっぱり分かりませんが、秋田車を除き滅多に見られない姿だったので、通常ケーブル付は見られない東北本線上り方=1End側を"お立ち台"でしっかり撮影していました😁。牽引するホキ800は盛岡車、最後の郡山入場だったかな?2022/07 東北本線(特記以外以下同様)白石-越河 配9548レ年数回ほどの撮影機会でしたが、私の出動時は兎に角759号機が多かったです。例により?単回後追い狙い、この時は左側の竹林がいい雰囲気だったと思います😁。2022/08 金谷川-松川秋の撮影では砂撒きの”練習”をした?~白く煙っています。年賀状に使って、”非鉄”の方々にも評判が良かった😁のは結果論で、撮った時点ではもっと煙って真っ白に見えました。本来重量列車牽引時、空転抑制のために撒く砂を何で単回が撒くんだ?、"火事"みたいじゃん ~とブチ切れまして..2022/11 白石-越河新幹線~タクシー利用など無茶苦茶やって、どうにかもう1発間に合わせました。砂撒きの跡?ボディー側面下部が白っぽいままでしたが..。2022/11 金谷川-松川仙石線205系の入出場配給もありました。贅沢を言っている場合じゃなかったんですが、何か直流電車を牽引というのは気合が入らず..でした😅。2023/05 郡山駅 配9561レ205系の数日後、また単回です。2025.9のEF81牽引廃車回送を見送るならここが候補地でしたが、私の考えは元気に自走して何ぼ、と思い出動しませんでした。次無動の寂しい姿を長年撮影して来たED75のラスト1コマにはしたくないと思ったからです。2023/05 東白石駅機番シリーズ記事最後にUpした列車の別コマです。パンタグラフが電柱にかかっていますが、それより重要だったのはカーブミラーの黄色い柱を架線柱に被せて消し去ること でした😁。この時がED75 759最後の撮影になりました。2023/05 日和田-五百川2025年9月に秋田へ廃車回送~ED75全機引退を迎えました。惜別 ED75 759最後までご覧いただきありがとうございました。 鉄道.comへ

    惜別 ED75 759 [追加機番シリーズNo.170-7]
  14. どうもnabetuneです2月に突入です。一か月終わるの早くないですか。あと11カ月でまた新年ですよ(?)前回の続き...上総亀山駅の雰囲気が好きで、ひたすら撮り続けてしまった(笑) 当時は上総亀山までの利用者が5人位(同業4人)しか居なくて、復路に限っても3人。休日とはいえ、とても寂しい印象でしたね…。いつ区間廃止になってしまうのか(´・ω・`)旧1番線?時代に使ってた3両停がある駅構内から見た詰所。やけに大きいけど、これはまだ上総亀山駅が棒線化する前に、夜間停泊(当時は3本)の入換やら、運転要員がたくさん居たことによります。10年ちょっと前までは、この山の中にある駅で鉄道員がたくさん働いていたんだから凄い今や見る影もないけど昔も今も変わらない狭いホーム。旧1番線を潰せばスロープには出来そうだけど、そこに投資してもね(久留里駅は数年後に構内踏切の改良工事を実施)上総松丘方面を望む旧1番線と留置線へのポイントが撤去された構内。特殊自動閉塞化による棒線化で、出発信号機も無くなりました出発信号機は無くなりましたが、代わりに出発反応灯が設置(出発の際に乗務員が操作)2944D @久留里線旧2番線に停車中のワンマン列車の久留里行き休日とはいえ、一桁台で2両はさすがに無駄なのでは...(現在はほぼ単行化らしい)2944D @久留里線キハE130形も今年で8年(当時)。まだまだニューフェイスで通じるかなw保守だから致し方ないのか旧1番線。前回、枕木で無駄な投資はしてないなと触れましたが、実は8年前の棒線化間際に、旧1番線の枕木交換をしてたんですよね。もう特殊自動閉塞化で方針が決まってる筈なのに、このタイミングで枕木の交換するの??と思いましたが実質数カ月しか使ってないPC枕木まぁ使わなくなったら撤去して転用するのかなと結局そのままみたいですが。今も昔もJR東日本は凄い会社です(;´∀`)足が無ければいづれ遠のく滞在時間20分弱でした13年前は亀山ダムまで歩いてラーメン食べて戻ってくるなんてのもやったけど、日中の本数がまるで無ければねぇ。次はいつ来れるかどうか久留里線では『ワンマン普通』表示が通例久留里線の運賃表示機。LCDタイプなので見やすくていいですね水郡線はいつまで経っても古いタイプなんですが、取り換える気はないのかな構内の照明が虚しいさよなら、上総亀山駅。帰りは行きより少なくて3人…厳しいっすなぁ尚、千葉の乗務員は何処行っても前面展望すんなオーラが出てるので、後方展望で見送ります2019年夏の台風15号で被災途中何カ所か徐行区間を通過。水郡線が被災する1ヶ月前に起きた災害で、これまた一か月以上不通になってました。現在はこうして仮復旧で運転再開しましたが、ローカル線は常に自然災害における廃線へのリスクがあるんですよね…今度被災したら復旧させるのだろうか...次回、久留里線乗車編おしまい!

    E130形で楽しむ久留里線の魅力② 20.2
  15. 中川急行で活躍する近鉄5820系
  16. KATO 3069-3 EF57 1 (スロットレスモーター搭載)  入線
  17. “Nゲージのきほん”
  18. 雪の舞う、伊豆山神社境内で琴を弾く
  19. 阪発・札幌行きの下寝台特急「トワイライトエクスプレス」は、この辺りで夕暮れを迎え、トワイライトの名に相応しい日暮れの車窓を堪能できた。小さな漁港先頭1号車は455系。JR時代の近効化改造で、デッキと客室を隔てる仕切り壁は撤去され、出入口付近の座席はクロスシートからロングシートに変わった。先頭車には、乗車中の「クハ455-701」を御神体にした四五五神社。お賽銭はこの観光急行車両の維持費等に充てられる。午前11時45分〜11時50分、名立(なだち)駅停車名立駅は相対ホーム2面4線の駅。真ん中の2本の通過線はJRの貨物列車が使用。5分間停車455系電車の先頭新たに製作された行先サボ方向幕ドアは半自動ホームの一部は、名立川にかかる。向こうから普通列車がやって来た。旧・JR北陸本線のえちごトキめき鉄道日本海ひすいラインは電化路線だが、電化設備を使用するのは、乗り入れするJR貨物の貨物列車と、観光急行(455+413系)のみ。えちごトキめき鉄道の日本海ひすいラインは、交直流が入り交じった電化区間のため、高価な交直流両用電車より気動車(ディーゼルカー)を製造したほうが安く済む。このため、日本海ひすいラインの定期普通列車は、気動車を使用。えちごトキめき鉄道の気動車「ET122形」泊発・直江津行き普通発車を待つ「急行1号」。かつてのJR北陸本線の光景が蘇る。北陸地区の国鉄形電車413系やクハ455-701の前面の種別表示器は準備工事のまま埋められていたので、元々表示器は無い。この前面の「急行」表示は、実は白色Hゴムとステッカーによるダミー。汚れも表現されているので、本物の表示幕と見間違う。間もなく発車直江津行き普通、発車北陸新幹線が開通する前のJR北陸本線時代は、様々な優等列車が走っていた特急街道であり、関西方面と東北方面を結ぶ日本海縦貫線であった。今は、JR貨物列車とローカル輸送のディーゼルカーが走るのみ。半自動ドア午前11時50分、名立駅発車名立川を渡る。車内には国鉄時代の吊り下げ広告。489系電車特急「白山」や583系寝台電車特急「みちのく」誕生のポスター。こちらは、181系電車特急「あさま」増発ポスターなど。国鉄のポスターで、昭和の国鉄時代を演出455系車内。かつて国鉄時代は優等列車(急行列車)だったため、洗面台が設置されている。国鉄急行電車時代と変わらぬ片開きドア。程なく列車は、全長11,353mの頸城(くびき)トンネルに入る。頸城(くびき)トンネル内に設置された、トンネル駅として名高い筒石(つついし)駅を通過。長い頸城トンネルを抜ける。午前11時59分〜12時08分、能生(のう)駅停車9分間停車剥げかかった車体塗装。この国鉄交直流急行色は見納め。2026年(令和8年)3月中旬に、新北陸色に塗色変更され、登場予定。日本最後の、現役の国鉄急行形車両昭和から平成前期頃まで、各地で見られた国鉄急行形電車。今は、えちごトキめき鉄道に、たった1両が残るのみ。他の仲間は、既に解体され、僅かに博物館で展示されているのみ。現役最後の国鉄急行形電車の生き残り。昭和の観光急行は、国鉄時代の昔に思いを馳せることのできる、本物の動態保存車両であり、よくある豪華観光列車のような観光客向けの設備があるわけではない。屋根上には分散型クーラー機器。2、3号車は413系電車。国鉄413系電車も、JRからは既に引退し、現在は、えちごトキめき鉄道の観光急行に残るほか、あいの風とやま鉄道の観光列車に僅かに残るのみ。菱形パンタグラフ貴重な交直流両用の国鉄形電車12時08分、能生駅を発車能生駅構内には桜並木があり、春には満開の桜が美しい。能生川を渡る。日本海に沿って走る。早川橋梁に差し掛かる。早川を渡る列車。早川は、活火山の新潟焼山(標高2,400m)及び火打山(標高2,462m)に源を発する。雪を抱いた頸城山塊の山々デッドセクション梶屋敷駅を過ぎると、間もなく車内灯やモータ音が消える。列車は、直流電化から交流電化に切替わるデッドセクションを通過。デッドセクションを過ぎると、交流電化区間に入り車内灯は再び点灯。 糸魚川駅新駅・えちご押上ひすい海岸駅を通過すると、間もなく糸魚川駅。12時22分、糸魚川(いといがわ)駅に到着12時34分まで12分間停車糸魚川駅は、JR北陸新幹線やJR大糸線の乗換え駅JR大糸線は、松本駅(長野県)と糸魚川駅を結ぶ全長105.4kmの路線であるが、JR西日本区間である南小谷〜糸魚川間は非電化の閑散路線で、存続が危ぶまれる区間。キハ120形気動車が走る。糸魚川駅のJR大糸線発車時刻表。一日9本しかなく、うち2本は途中の平岩駅止まり。この他、増便実証実験で一日3本、代行バスがJR東日本区間の大糸線白馬駅まで運行。将来的には、糸魚川駅〜南小谷駅〜白馬駅の区間はバスに転換されることも危惧される。年季の入った車体。新北陸色に塗り替えられるため、この国鉄色はもう見られない。この413系も、455系に合わせた国鉄急行形塗装だが、実は413系がこの塗色になったのは、これが初めて。のどかな昼下がり。最後尾発車を待つ、市振行き「急行1号」★動画↓※2025年(令和7年)12月下旬鉄道旅行ランキングへにほんブログ村(次回へ続く)

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    【ありがとう、国鉄交直流急行色②】懐かしの国鉄急行形電車の旅(直江津→糸魚川)
  20. 気動車は勿論のこと貨物列車なんかも走らせるとなれば悩みますね。それともうひとつ考えなくてはいけないのが、長編成車両問題であります。そう、駅のホームの長さが悩ましいところなのであります。中京圏の旅客車両であればJR東海も私鉄も長くて8両編成であります。関西圏で言えば南海電鉄や阪急電鉄であれば8両編成でも大丈夫ですが、JR西日本の新快速をフル編成で楽しむのであれば12両編成となります。関東圏で言えば私鉄でも10両編成は必要となります。JR東日本の湘南新宿ラインなどは15両編成という強者もいます。新幹線軌道は割り切って駅なしという構想もあります。なぜなら新幹線駅は3m近くの有効長を要するため、結構な敷地が必要です。岐阜羽島駅などの待避線を有する駅のような構造であれば尚更であります。熱海駅のような構造であれば大丈夫なのでしょうか。ホームにはホームドアなんていうオシャレなアイテムをつけてみたい気もしますが、様々な車両を停車させるのであれば墓穴を掘りそうであります。w車両を走らせながら妄想だけがみるみる膨らんでいきますねぇ。(*´ω`*) ♪HOゲージ固定レイアウトとは根本的に世界観が違いますからねぇ~。まだまだ着手には時間を要すると思います… (;´Д`)

    構想を練りながら