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    201系現役最後の1週間
  3. いろ色なE657系
  4. 東京メトロがダイヤ改正と同日に24時間券を17%も値上げ・・・重宝してたのに~
  5. 今回は京阪。改正日は3/22。プレスはこちら(PDF注意)1. 日中パターンの変更日中の中之島〜萱島の普通列車を主に4両での運転とします。一方で、主に普通停車駅での輸送力確保のため下記の通りの運転本数に変更とします。 特急(淀屋橋〜出町柳):5本/h 準急(淀屋橋〜出町柳):5本/h 普通(中之島〜萱島):5本/h 普通(交野線、宇治線):5本/h2. 平日朝夕の増発朝および夕方の時間帯も、普通、区間急行の一部は4両での運転とします。一方で、輸送力確保のため、朝の萱島から大阪方面、夜の大阪から萱島方面で5本ずつ増発を行います。また、京都側でも、朝、夕方とも増発を行います。3. 通勤準急、通勤快急の運転時間帯変更朝の一部時間帯では、通勤準急、通勤快急の運転により守口市を大阪方面の優等列車が通過していますが、この通過時間帯を縮小します。これにより、普通、区間急行の混雑緩和と準急通過駅からの速達性向上を図ります。4. 万博に伴う増発中之島から万博にアクセスするシャトルバスが運転されることに合わせて、万博開催期間中に限り中之島発着の優等列車を増発します。【メモ】4連が謎に増えたために色んな噂が飛び交っていましたが大阪ローカルの4連化が答えだったとは。改正後の時刻表軽く見た限り9割は萱島発着だけど淀行きと樟葉発の4両が存在するっぽい?パターンダイヤ直すどさくさに紛れて宇治線、交野線が増発。ただ10分ヘッドにするほどの需要は全線通してなかったようでちょっと微妙な12分ヘッド。【管理人から】そういえば京阪もですが相鉄も時刻表出てましたね。例年通り東横系統からやっていく予定なので、相鉄時刻表出たこのタイミングでとりあえず今年のダイ改まとめは終わりにして、ダイヤ改正後の運用表の準備をしようかなと考えています。準備できたら改正前でも公開しようかなと。東横系統は確定として、他がどこまでできるかは分かりませんが京阪は面白そうなので今年もちゃんとやりたいところ。運用鉄としては改正後が本番なので今年もよろしくお願いします。「鉄道コム」へのリンクです。

    2025/3/22 京阪ダイヤ改正
  6.  前回の記事の続きです。 坂戸で海老名からの小川町行を撮影します。 坂戸から高坂に戻って、小川町で折り返してくる11003Fを撮影します。 11006Fも撮影することが出来ました。菊名からの小川町行を撮影して、帰宅しました。 前回までの記事は、こちらです。『2025年3月15日 東上線撮影①「高坂で11003Fの快急、51093FカパルHMなど撮影」』 前回の記事の続きです。 ダイヤ改正関連以外にも東上線を撮影しました。 快速急行湘南台行の前に、51093FカパルHM編成が来ました。 このあと高坂駅に移動し…ameblo.jp『2025年3月15日 東上線ダイヤ改正で誕生した快速急行湘南台行』 前回の記事の続きです。 本日のダイヤ改正から、休日ダイヤの急行湘南台行が快速急行湘南台行に変更になりました。森林公園6:02発湘南台8:11着で運転され、相…ameblo.jp『2025年3月15日 東上線ダイヤ改正で地味に誕生した、早朝の急行元町中華街行』 本日は、ダイヤ改正が行われました。朝だけ時間があったので、少し撮影してきました。 休日ダイヤの快速急行湘南台行の誕生が話題になっていますが、その影で森林公園…ameblo.jpグリーンマックス Nゲージ 東武10000型 未更新車 6両編成動力付き トータルセット 鉄道模型 電車 1289TAmazon(アマゾン)

    2025年3月15日 東上線撮影②「高坂で11003F、11006Fなど撮影」
  7. -その5(№6329.)から続く-今回は「湘南電車」80系を取り上げます。この車両に関しては、以前の連載記事「還暦のM・傘寿のS」で取り上げており、内容が重複するところもあろうかと思いますが、何卒ご容赦ください。今回は、80系登場の意義を中心に述べて参ります。既に大正期に東京-小田原間において電車運転の計画があったこと、それが関東大震災で頓挫したことは、以前に取り上げたとおりです。しかしその後も、様々な事情から東海道線における電車運転は実現しないままでした。それが昭和24(1949)年、80系の登場によって実現を見ることになります。実は80系の計画以前にも、戦後すぐに東海道線普通列車の電車化が計画されたことはありますが、このとき計画・設計された車両は、悪い意味での実用本位な設計で「バラック電車」と異名を取ったモハ63系をそのまま3扉化した車両。戦後の混乱期が落ち着いてくれば、セミクロスシートに改造することも予定されていたそうですが、当時はオールロングシートで計画されました。しかしその計画も頓挫し、東海道線の電車化は一から見直されることに。その過程で出てきたのが80系電車でした。その編成内容は、客車列車をそのまま電車にしたような内容でした。特に三等車は、両端部に客用扉を寄せ、その付近のみをロングシートにするという、セミクロスシートとは言いながらほぼオールクロスシートといえるものでした。車体も戦前の車両と同じように、窓の上下に補強材が通っており、客車よりも幅が広くなった客用扉とその周囲を見なければ、あたかもオハ35系客車をそのまま電車にしたような内外装。ただしボックス席は、通路幅を広く取るため横幅が抑えられていて、それ故にオハ35系よりも居住性が劣っていたようです。80系登場の2年後スハ43系が世に出ますが、こちらは当初から長距離優等列車に充当されることを前提に設計・製造された車両。そのスハ43系の三等車と比べても見劣りすることは、むしろ当然のことといえました。それでも80系は、電車としては初となる運転台を装備しない完全な中間電動車を用意し、なおかつ10連を超える長大編成を組むことが想定されているなど、今では当たり前となった「長大編成による電車の長距離運転」に先鞭をつけるものとなりました。そんな80系ですが、乗客は圧倒的なスピードに魅せられ、当局側からは機回しなどの必要がない運転取扱い上の合理性が高く評価され、次第に運用範囲が拡大していきます。まずは、早くも昭和25年には伊東方面への臨時準急列車に充当。これが国鉄の電車として初めて、優等列車として別途料金を徴収する列車に充当された初の事例ではなかろうかと思われます。その後、80系電車のスピードと快適性に着目した国鉄当局が、東海道線の電化の西進とともに、同系の定期準急列車への充当を検討し始めます。具体的には「東海」(東京-名古屋)と「比叡」(名古屋-大阪)の両列車ですが、準急列車への充当には、客車よりも居住性が劣ることがネックになりました。そこで昭和32(1957)年、国鉄は準急用に特化した80系のスペシャルバージョンを世に出します。これが「旧型国電の最高峰」と評される80系300番代です。80系300番代の特徴は以下のとおり。・車体を全金属製とする。・車体構造は準張殻構造として大幅な軽量化(10系客車の設計思想を導入)。・窓の上下にあった帯状の補強材を廃止、同時に窓を大型化。・座席幅を拡げ居住性に配慮。80系300番代が「東海」「比叡」に投入されると、客車時代に比べて大幅なスピードアップが図られたことも相まって、この両列車が絶大な人気を博することになりました。この両列車、というか80系300番代の成功が、後の153系や151系、ひいては新幹線0系の成功につながっていることは、もはや疑うべくもありません。80系で言えば、ユニットクーラーの試験のことも触れておきましょう。昭和33(1958)年夏、サロ85020の屋根上にユニットクーラー(今でいう分散式のもの)を装備し、営業運転に供しながら試験が行われました。結果は良好で、この結果が早速、同年11月の151系「こだま」デビューに反映されています。実はこのユニットクーラーの試験、上記の日時からお分かりのとおり、日程的にはかなり綱渡りだったようです。というのも、151系の成功はこのユニットクーラーの試験の成否にかかっていたから。151系以前にも、南満州鉄道の特急「あじあ」とか、外地を除く国内だと近鉄10000系「ビスタⅠ世」など、固定窓を採用した完全空調の車両はなくはないですが、これらは全て、大掛かりな機械式冷房装置を採用していました。しかしこれは大掛かりな割に安定性に欠けることから、もし151系がこのような機械式冷房装置の採用を余儀なくされていたら、同系の寿命はもっと短かったと思われます。近鉄10000系も、早すぎる退役を余儀なくされた理由の一つが「空調装置の不具合が多発したこと」でした。綱渡りの日程ではあったものの、ユニットクーラーの試験は好結果を収め、何とか151系のデビューに間に合いました。80系の成功、もっと言えば同系が充当された「東海」「比叡」両列車の成功こそが、国鉄当局の認識を改めさせることになりました。それまで国鉄当局は「優等列車は機関車牽引の客車列車」と頑なな態度を崩さなかったのですが、同系の成功によって、優等列車にも電車・気動車といった動力分散方式の列車が有用であることを思い知り、それ故に「動力近代化計画」策定に至ったことは、想像に難くありません。もっとも実際には、動力集中方式(機関車牽引列車)のままでの高速化には、路盤強化などに莫大な費用が掛かることが判明したことも大きいのですが(国鉄は昭和32(1957)年、EH10と10系客車を使って高速化実験を行っている)、それとて「高性能な電車・気動車の実用化」という技術的な裏付けがなければ、画餅に帰することは明らかですし。80系の功績は、それこそ数限りなくありますが、電車に限っていえば、長編成列車を可能にしたことと、長距離列車への充当を可能にしたことでしょう。前者の成功が101系などの長編成の通勤・近郊型電車につながっていきましたし、後者の成功が151系や153系など数多の長距離用車両につながっていきました。80系の成功が、「動力近代化計画」策定にいわば「お墨付き」を与え、優等列車の電車化を進めるトリガーとなった歴史的意義を有することは、いくら強調してもし過ぎることはないと思います。次回は、151系・153系登場など、電車が長距離列車に本格的に進出する過程を見ていきます。-その7(№6333.)へ続く-【おことわり】当記事は後で並べ替えるため、アップの時点ではブログナンバーを振りません。【追記】(令和7年3月6日 17:45)当記事にブログナンバー6331を振ります。

  8. 『2025キュン♥️パスでバカやってる☆前途多難?!JR東日本一筆書きの旅』今年のキュンパスでやりたかったこと。それは。。JR東日本一筆書き🚅✨またバカやっとる(笑)~計画~時計回り東京→上越新幹線☆新潟→いなほ★秋田→つがる☆青森→…ameblo.jpのつづき青森で束の間のフリータイム。ねこぜさんのブログをみてずっと訪れてみたかったケーキやさん🍰赤い林檎🍎いただくのはもちろんレアチーズケーキ🍰ここは元々赤坂のしろたえの創業の場所。赤坂に移転後、赤い林檎のケーキやさんが入ったあとも、レアチーズケーキはしろたえの味を引き継いでいるそう🍰おいしい休憩でしたちなみに赤い林檎🍰ケーキやさんの母体はわたしの大好きなふにょふにょしたお餅(林檎仙)のおきなやさんです!さぁ、スーパーつがる2号は自由席🧍🧍🧍🧍🧍駅に戻りまふ。行ってみて座れなそうだったら青森日帰り旅に切り替える予定。12:10頃に戻ってみると、ありゃもう入線しとる💦しかも天気が怪しくなってきたぞ💦さっきまであんなに晴れていたのに💦そんなに並んでない!まだ大丈夫そう20分前にドアオープンされ無事に着席。さぁ始めますよ🍺最近青森ではひとくちだらけしか買ってないわ(笑)呑兵衛にほんとちょうど良いのよ~好きなのよ~持ってきた茹で落花生🥜自由席の乗車率はこんな感じちなみに指定席は🈵️キュンパス猛威で指定席争奪戦みたくなってたから、自由席もどうなることかと思ったけど、印象的には、言うほど混んでないかな?という感じ。新幹線🚅がひどいのだね💦わたしが乗ったこのスーパーつがる2号は青森でまぁまぁ埋まったと思ったら、新青森で🚅乗り換えのお客さんが降り、新青森から乗ってくるお客さんはほとんど指定席で、あとは弘前で同様の感じ。秋田まで乗り通していたのはきっと鉄で(笑)弘前以降は乗降も少なく、二列シートに一人客が座った状態で埋まっている感じでした。指定は🈵️で、自由席はすいているパティーンかな。今は全席指定の特急も多くてタブレットで管理されてるし、車掌さんの検札久々でほっこりしたわ真っ白あぁ津軽鉄道のストーブ列車乗っても良かったなぁ2時間半で秋田駅に到着いやんおしり(笑)1時間半ほどあったので駅ビルの角打ちへ🍶なまはげIPA👹苦くてフルーティー最高❗飲み比べもあったのだけどコイン式の選べるほうに🍶右からまんさくの花 限定酒鳥海山十五代彦兵衛そして赤えびの塩辛秋田のお酒は甘口が多い?のかな?ここにはあまり辛口のお酒を置いてなくて、辛口はまんさくの花だけですねぇってお店の人に言われて。。まんさくの花は秋田の好きなお酒であればいつも飲むのだけども🌸先にまんさくの花を飲んでしまったものだから、他のふたつが甘く感じて仕方ない💦飲む順番を間違えた💦ちなみに新政は品切れ💦飲みたかった💦新政酒造を調べたら案外駅近にあって(徒歩20分くらい)街中だし行きやすそう🚶しかもNHK📺️72時間て番組で気になった蕎麦屋のたちばな(気取らない街の皆に愛される蕎麦屋系)が至近(笑)来年は秋田でもいいなぁ赤えびの塩辛がおいしくて冷凍でおみやげにと思ったのだけどこの先まだ長いのとショボ保冷バッグできていたので断念⤵️で、常温でもイケルこちらをおみや。新青森から東京までの指定席をみどりの窓口でキャンセルしようと思ったけど、秋田駅は前日の車輌分離トラブルで人だかり💦長蛇過ぎて駅スタッフの方に事情を説明して切符を引き取ってもらいました。このあとはもう自由席でいいわーと、いなほもときも自由席で帰京することに。ちと早いけどホームに。強そうだ(笑)👹なまはげラインでもストーブ列車確かやってなかったかな?この車輌もちょっと乗ってみたい🚃🚃🚃30分前に入線自由席ガラガラ(笑)ねぇほんとかわいいいなほって書いてる(笑)夕陽みることできるかなぁめずらしく先頭車輌のいちばん前にしてみた!駅弁どっちにしようかな(笑)そういえば花善さんは鉄道王国スイスに出店したね。すごいことだ夕暮れ🌇駅弁2食目安定のおいしさ日が暮れてからの移動は修行でもある。車窓って大事。3時間半で新潟駅に到着🚃前週に買った三色団子(ふにょ餅)を買いたかったのだけど、いなほを降りたらホーム上目の前に改札があって(笑)そのまま新幹線に接続乗り継ぎ10分しかなくて、自由席は⛷️客の若者がわさわさしてたから、ふにょ餅は諦めてそのまま飛び乗り帰京🚅ギリギリ座れた感じでした💦開け放たれた左右両扉(笑)帰るでー🚅またねー無事完鉄✌️戻ってみたらなんのその。当初の計画でもイケた感じでした。ただ車輌分離トラブルの影響で東北新幹線が遅くなればなるほどどうだったかわからなかったので、始発で20分程度で済んだからこちらのルートに変更して正解だったのかもと信じたい(笑)【変更前】【変更後】そういえばキュンパスのNEWDAYSの割引クーポン、去年は15%オフだったのに、今年は10%オフになってやんの⤵️みんなのキュンパスみてたら、駅そばを巡る旅とかJR東日本管内の新幹線全区間を走破する旅とかいろいろ思いつくなぁと感心しました(笑)そして、腰。案の定痛めている。今回は対策していったのだけど、ヘビーすぎるのよねわたしの旅は帰りはなるべくピゅんと帰ってくる🚅それがよかね(笑)冬の東北はほんとうに好き。だけど天候で☃️交通機関が左右されるのそのリスキーさがあるということを肝に銘じて、なにかあってもしなやかに行動できるといいなと思います。ストーブ列車の運休のとき五所川原で発狂しそうだったもの(笑)でもそれは誰のせいでもないものねただ、今回の車輌分離は想定外の外でそれは別。🚅当日移動していた方にとっては相当な出来事だったと思います。本当にお疲れさまでした。キュンパス自体も誰かがお得になっている影で誰かが大変な思いをするのじゃ『すばらしく良い』ものとは言いがたくなってきているので、なんとか『影』になるものを最小限に収められたらより良いなぁと思っています。2025キュンパスおしまい。

    2025キュン♥️パスでバカやってる☆JR東日本一筆書きの旅青森~秋田~新潟へ
  9. (ツアー始まり編)吹田総合車両所 車両撮影ツアーに参加してきました(R7.3.2)
  10. JR貨物:桃太郎の旧塗装が一掃完了するのはいつ?
  11. 【主な乗り物:特急「しなの」、東武特急「りょうもう」、東武佐野線、夜行高速バス「シルクライナー」、高速バス「忍者ライナー」、近鉄伊賀線、JR関西本線・奈良線、阪急京都線】浅草駅を16時20分に発った東武鉄道の特急「りょうもう」は、時刻表通りの17時25分に館林駅に滑り込んだ。同社の特急電車と言えば、浅草と日光や鬼怒川を結ぶロマンスカーが知られている一方で、群馬県東部に向かう急行電車が運転を開始したのは昭和8年と古く、昭和30年代には「あかぎ」「こうづけ」「おりひめ」「からさわ」と命名されていたが、昭和44年に「りょうもう」に統一された。僕は昭和の終わり頃に、座席定員制だった急行「りょうもう」の旅を楽しんだことがある。私鉄の特急電車は全国に運転され、通勤用車両を用いた急行も少なくなかったけれども、座席指定の私鉄急行は珍しかった。如何にも渋い乗り心地と車窓だったことしか覚えていないが、当時、既に少なくなっていた国鉄急行列車の香りがした。平成11年3月に、新型車両に更新された「りょうもう」は、特急に昇格したのである。館林駅から東武佐野線の葛生行き普通電車に乗り換え、12分で佐野市駅に着いた。この駅に降りたのは、初めてだった。僕は駅前から路線バスに乗ったのだが、見知らぬ町で、どのように目的地に行く路線を見定めたのか、とんと覚えていない。木張りの床がギシギシ鳴るような古びたバスに揺られながら、佐野厄除け大師として知られる惣宗寺に関連した看板が目立つ町並みが、黄昏に染まっていくのを眺めた記憶だけである。年末年始になると、『初詣は関東の三大師、佐野厄除け大師へどうぞ』というCMがテレビやラジオで盛んに流されるので、名前は知っているけれども、この日は平成17年8月、夏の真っ盛りである。そうか、佐野厄除け大師に参拝すれば良かった、と思ったけれども、後の祭である。市街地を抜ける頃にすっかり暗くなり、「サザンクロス佐野バスターミナル」で降りた僕は、少しばかりたじろいだ。周囲には人家の灯が全くなく、街灯もない広場の片隅に建つ質素なプレハブだけが、窓から光を漏らしている。家があっても明かりが点いていないのか、それとも田園地帯の真ん中なのかすら、真っ暗で分からない。何かの工事現場に迷い込んだのかと、本気で思った。どうして佐野に南十字星が出現するのか判然としないが、佐野新都市とは、高萩・越名地区の商業・住宅用地である「サザンクロス佐野」、産業用地として町谷地区の「佐野みかも台産業団地」、西浦・黒袴地区の「佐野インター産業団地」から構成された計画都市であるらしい。プレハブの横に停留所らしきのポールの輪郭が見えたので、恐る恐る近づいて目を凝らしてみると、「高速バス 富山 金沢 京都 大阪 日本中央バス」の文字が浮かび上がった。どうやら、ここが目指すバスの乗り場で間違いないようだが、これほど何もない場所から出発する高速バスは初めてだった。これから街を造るつもりでバスターミナルだけ造ったのか、と首を傾げた。奈良の都の平城京や、京の都の平安京も、遷都して皇居や寺院、家々が建ち並ぶまでは、このような雰囲気だったのかもしれない、という空想が浮かぶ。ここが太古の未開拓地でないことの証しに、振り返れば、数百メートル離れた場所に大型スーパーが不夜城のように燦然と輝いている。僕は踵を返して、スーパーで簡単な夕食を摂り、幾許かの買い物を済ませてから、バスターミナルに戻った。プレハブの扉を開けると、蛾が一斉に室内を飛び交い始めたので、僕は慌てて外に引き返した。発車まで20分ほどあるけれども、虫だらけの室内にいるよりは、外で一服していた方がマシである。朝からどんよりと雲が垂れ込めて、蒸し暑い1日だったが、夜になっても気温は下がらず、じっと立っているだけで汗が滲んでくる。いつまで経っても、他に利用客は現れなかった。本当に、このような場所に夜行高速バスが来てくれるのだろうか、との不安を押し殺していると、発車時刻の10分程前に、眩いヘッドライトが広場の入口からこちらを照らし出し、白塗りに金色の線が入った日本中央バスのハイデッカーが勢いよく走り込んで来た。日本中央バスの夜行高速バスの座席予約は一風変わっていて、僕は東京の旅行代理店で乗車券を購入したのだが、券面には座席番号が記載されていない。差し出した乗車券を、運転手が予約表と照らし合わせて、「○○さんですね。お席は5Aです。前から5番目の左側にお座り下さい」と告げて、ようやく一夜の居場所が判明する仕組みである。発車したバスが、闇に包まれた広場をぐるりと回って道路に出ると、自然と安堵の溜め息が漏れた。今でも、この旅のことを思い出すと、真っ先に、暗闇の中で「シルクライナー」号を待った心細さが、心に浮かんでくる。この地にプレミアム・アウトレットが完成し、時刻表に「サザンクロス佐野BT」と漠然とした名称が記載されていたバス乗り場が「佐野新都市バスターミナル」と改名されて整備されたのは、2年後の平成19年である。北関東と関西を結ぶ夜行高速バス「シルクライナー」号が開業したのは、平成13年である。関越自動車道などの高速道路が昭和60年代から整備され、また、同時期に全国的に高速バス路線が増えた時期であったにも関わらず、群馬県を発着する高速バス路線は、なかなか登場しなかった。平成10年に前橋・高崎と羽田空港を結ぶリムジンバスが運行を開始し、翌年に前橋・高崎と池袋を結ぶ高速バスが開業して、僕はその2路線を利用した時に、初めて日本中央バスという事業者を知った。故郷の隣県であるにも関わらず、そのようなバス会社は聞いたことがなかったのである。平成13年に、同社で初の夜行高速路線である「シルクライナー」号を時刻表で見掛けた時には、やっと群馬県に夜行高速バスが登場したか、と感無量だったが、運行時刻が少しばかり異様だった。館林バスセンターを起点にして館林市役所、佐野市役所、足利市駅、太田駅、バスターミナルおおた、桐生駅、伊勢崎まちかどステーション広瀬、前橋バスセンター、前橋駅、nパーキング日高、高崎バスセンター、藤岡IC、富岡営業所と停車してから、上信越自動車道・長野自動車道・中央自動車道を経由して、金山駅と名古屋駅に停車し、京都駅を経て、難波にある大阪シティエアターミナルが終点である。所要時間は上りが13時間、下りが12時間半となっていて、群馬県と関西は案外遠いのだな、と思った。名古屋と京都、大阪を、目的地として1路線にまとめた夜行高速バスは、初期の「ドリーム」号が東京から名古屋経由で京都を行き来していた時期があったけれども、それ以来ではなかったか。別に1往復の昼行便も設けられていて、乗務員と車両の運用を効率的にするために、夜行便が昼行便で折り返すダイヤを採用している路線は他にも例がある。ところが、これが独特の運行ダイヤで、BTおおたとOCATを起終点にして、上り便はBTおおたを午前3時に発車し、群馬県内の停留所を経て、最後の乗車停留所である富岡は5時55分発であり、OCATに14時に到着する。下り便はOCATを15時に発車して、富岡到着が午前0時、終点のBTおおたに着くのは午前3時であった。夜行便と共通運用の昼行便の運行時間帯は、路線によって様々で、事業者としては乗客の流動ばかりでなく、目的地における運転手の仮眠・休憩時間との兼ね合いを考慮しなければならない。大半が午後に運行する設定で、中には午前中に発車する路線も見受けられたが、これほど早起き、夜更かしの昼行便は初めてだった。乗客は、上り便は早暁3時から6時にかけて乗り場に足を運び、下り便は午前0時から3時という深夜帯にバスから降ろされることになる。群馬県は、自家用車の保有率が我が国でも1、2を争うと聞いているので、停留所に駐車場を併設すれば、利用者は丑三つ時の乗降を厭わないのかもしれない。米国の大陸横断バス「グレイハウンド」の時刻表を見れば、平然と午前2時や3時台の乗り降りが見受けられる。我が国でも、深夜を気にしないライフスタイルが定着しつつあるのだろうか。平成16年のダイヤ改正には、更に度肝を抜かれた。名古屋経由で館林と大阪を結ぶ夜行便は据え置かれたが、昼行便の群馬県側の起終点が佐野BTに延伸され、上り便の発車が2時20分、下り便の到着が2時40分に繰り上がっている。何よりも目を引くのは、群馬県内から富山と金沢を経由して京都、大阪に向かう系統が設けられたことだった。一時、大阪と東北を結ぶ夜行高速バスが、名神・東名高速、東北自動車道ではなく、名神高速・北陸自動車道・磐越自動車道を経由していた時期があり、北陸道の方が距離が短くなるのか、と蒙を啓かれたものだった。群馬県でも、北陸経由と名古屋経由が似たような距離なのかもしれない、と思ったが、調べてみると、佐野と大阪の間は北陸経由で約750km、名古屋経由で650kmと、100kmもの差が生じている。北陸経由便の起終点間の所要時間は14時間、我が国の最長距離高速バスである「はかた」号が新宿から福岡まで走り抜くのと殆んど変わりがない。しかも、富山・金沢と関西の間の利用が可能になっている。これまでの高速バスは、同業他社との競合を防ぐために、自社エリアしか停留所を設けなかった。群馬県に本社を置く事業者が、北陸と関西を行き来する旅客を扱えるようになるとは、規制緩和の影響であろうか。いずれにしろ、誠に自由奔放な運行形態で、このような路線に乗る物好きがいるのか、と驚愕したのだが、それ以上に、乗ってみたい、と思うあたりが、物好きであると告白しているようなものである。僕1人を乗せた「シルクライナー」号は、20時10分に佐野を後にすると、渡良瀬川に沿う国道50号線を西へ向かい、足利、太田、桐生、伊勢崎、前橋、高崎、藤岡、富岡と、群馬県内の東部から中央部の町に丹念に寄っていく。発車前から窓のカーテンはぴっちりと閉ざされていて、照明も薄暗く、もう寝なさい、と強要されているようであったが、午後8時過ぎに、そうそう眠れる訳がない。群馬県内の停車地は乗車だけが認められているので、車内に案内放送が流れる訳でもなく、停車の気配にカーテンの隅をそっとめくってみても、暗くて周囲や停留所名が見えないので、何処を走っているのか判然としない。バスの座席に収まっているのだから、何処をどのように走ろうが、このまま乗っているだけで大阪に連れていって貰える。バスが現れるかどうかを心配した佐野での待ち時間に比べれば、遥かに安心できるのだが、程なく、遣り切れない退屈が襲ってきた。始発の佐野から最後の乗車停留所の富岡まで3時間40分も掛かるのだから、退屈は正常な反応だと思うのだが、これならば23時30分発の高崎あたりで乗れば良かった、とバスファンにあるまじき後悔まで込み上げてくる。連想するのは、国鉄が昭和36年に運転を開始したディーゼル特急「白鳥」である。大阪駅を起終点とする「白鳥」は、米原駅で北陸本線に入り、直江津駅で2編成に分割されて、1本は青森まで足を伸ばし、1本は信越本線で長野を経由して上野駅に向かったのである。大阪と東京を行き来する利用客が乗り通す列車ではなく、大阪から金沢や富山、もしくは金沢や長野から上野などと、区間利用が大半であったはずである。車両不足からこのような運転形態になっただけであり、昭和40年に、大阪-上野編成が大阪-金沢間「雷鳥」と金沢-上野間「はくたか」に分割されている。「シルクライナー」号北陸経由便の経路は、大阪と高崎の間で「白鳥」と共通している。平成25年に金沢-大阪間を廃止し、東京-金沢間を直通していた別の夜行高速バスが群馬県内に停車するようになった点も、往年の特急「白鳥」の歩みを彷彿とさせるではないか。「グレイハウンド」や「白鳥」を想起させるほど、「シルクライナー」号は型破りの夜行高速バスであった。佐野から前橋まで1人の客も乗って来なかったのだが、前橋バスセンターで、突如として車内の雰囲気が一変した。バスが停車して扉が開くと、「富山、金沢経由の大阪行きでーす!」という運転手の大声とともに、乗降口から漏れ聞こえる外の気配が、ざわざわと騒がしいように感じられた。おや、と思う間もなく、「席、何番だって?」「8のB、Cって言ってなかった?」「後ろの方かな」「座席が1人ずつ分かれているね。良さげなバスじゃん」などと賑やかな会話を交わしながら、大勢の乗客が乗り込んできたのである。慌てて倒していた背もたれを戻し、カーテンをめくってみると、空調の効いた涼しい車内と暑い外気との温度差で、窓ガラスは曇っていた。ガラスを拭って目を凝らすと、周囲には利用客がひしめき、同じ塗装のバスが何台も停車したり、ゆっくりと移動している。次の前橋駅も乗車客が多く、高崎バスセンターでほぼ満席になった。そこから先のことは、よく覚えていない。夜行高速バスの道中は、起きたり眠ったり、記憶が断片的になるのが常であるけれど、よく眠ったのだろうと思う。「シルクライナー」号北陸経由便は、藤岡ICで上信越道に入り、そのまま北上して信州を横断し、上越JCTで北陸道に入ったはずである。時刻表には、最初の休憩地として東部湯の丸SAが記載されているが、故郷の空気を吸える機会でありながら、全く覚えていない。午前2時半頃に滑り込んだ名立谷浜SAで、朦朧とバスを降りた記憶は残っている。潮を含んだ濃い空気が、べったりと皮膚に纏わりつくようだった。日本海に来たのだな、と思った。その次の休憩地である有磯海SAは白河夜船で通り過ぎ、早暁4時10分に着いた富山駅と、5時10分着の金沢駅も、忘却の彼方である。せっかく北陸経由便を選んだにも関わらず、覚えているのが名立谷浜SAだけとは、いったい何のために僕はこのバスに乗り込んだのか。覚えていなくとも、長旅の記憶は身体に刻まれた。4回目の休憩地である賤ケ岳SAに着いたのは、すっかり夜が明けた午前7時半頃で、まだ眠い眼をこじ開けながらバスを降りると、霧雨とともに湿気の強い熱気に包まれて、むっと息が詰まった。まるで、ミストサウナに入ったような感覚だった。12時間近くもバスに揺られていたので、全身が気怠く、きびきびと動けない。周囲の山々が、雨に打たれて鮮やかな緑に染まっているが、真夏の「シルクライナー」号の旅では、佐野でバスを待ったひとときとともに、賤ケ岳SAでの朝の休憩が、最も記憶に残っている。8時55分に停車したはずの京都駅八条口も、全く記憶にない。降車客がいなくて停まらなかったのではないか、と思いたいくらいである。14時間に及ぶバス旅を終えて、定刻の10時より早めの時間に難波のOCATに到着した時は、大好きな夜行高速バスに思う存分乗ったのに、どうして僕はこれほど疲れているのだろう、と首を傾げたくなった。僕は、地下鉄御堂筋線で新大阪駅へ行かなければならない。混雑する地下鉄を降り、やたらに長い新大阪駅のコンコースで重い足を引きずりながら、何と言う非人間的な駅を造ったのだ、と無闇に腹が立ったのだが、新幹線で東京へ帰るのならば誰もが理解できる話であるけれど、僕が向かったのは、北口にあるバス乗り場だった。あろうことか、僕は、11時10分に新大阪駅を発つ伊賀上野行きの高速バス「忍者ライナー」号に乗るつもりなのである。後に構内図を見れば、バス乗り場は御堂筋線と大して離れていないのだが、僕は梅田寄りの南側で降りたために、延々と歩く羽目になったようである。それでも、緑一色の鮮烈な塗装をまとった三重交通の高速バスを見れば、身が軽くなった気がしたのだから、かなりの重症である。10人ほどの客を乗せた「忍者ライナー」号は、新大阪駅を後にすると、新御堂筋を南へ向かい、南森町ランプから阪神高速道路12号守口線の高架に駆け上がった。天神橋JCTで1号環状線、えびすJCTで14号松原線と進めば、あいにくの曇天であるけれども、大阪の都市景観を存分に楽しむことが出来るので、先程までの気怠さなど何処かへ吹き飛んでしまう。「忍者ライナー」号に乗って良かった、と嬉しくなる。バスは、松原JCTで西名阪自動車道へ歩を進めるのだが、その先に繋がっている名阪国道とはどのような道路なのか、昔から興味があった。平成の初頭に、名古屋と伊賀上野を結ぶ高速バスに乗ったことがあり、その時は東名阪自動車道から名阪国道を西へ走った。そのまま名古屋に折り返して、「中央道特急バス」で松本へ抜けたのである。「忍者ライナー」号は、平成17年4月に開業したばかりの新しい高速バス路線だったが、昭和30年代に、大阪と伊賀上野の間に路線バスが運行されたことがあった。伊賀上野に何の用事もないけれど、久しぶりに名阪道を走ってみたくなったので、「忍者ライナー」号の開業を良いことに、僕は「シルクライナー」号でたどり着いた大阪から、東に向かっているのである。ところが、西名阪道と名阪国道を経て上野東ICまで、「忍者ライナー」号の記憶は乏しい。居眠りでもしたのだろうか。今回の旅は、どの乗り物にも心を踊らせて乗車したにも関わらず、中途の記憶が曖昧模糊としている。上野市街にある上野産業会館には、定刻の13時07分前後に着いたのだろう、と思う。「忍者ライナー」号から降り立てば、昼下がりの伊賀の里は、雨こそ降っていなかったものの、今にも泣き出しそうな曇り空の下で、東京や群馬、大阪と変わらず湿気の強い蒸し暑さだった。今回の旅の最終目的地は、長野である。つまるところ、東京から実家への帰省であったのだが、寄りによって、隣りの県から故郷を通り過ぎて大阪に向かうバスに乗った訳である。伊賀上野から名古屋に出て、長野へ乗り継いでも良いのだが、僕は上野市駅から近鉄伊賀線の電車に乗り、名古屋に背を向けて、伊賀上野駅で関西本線の加茂行き下りディーゼルカーに乗り継いだ。加茂駅で木津行き普通電車、木津駅で奈良線の京都行き「大和路ライナー」に乗り換え、太秦の広隆寺に足を伸ばした。広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、中学の修学旅行で魅入られてから、機会があれば何度でもお目に掛かりたかった。近鉄特急で何度も行き来した区間であるから、山深い沿線風景や、どこか気品のある集落の佇まいに変わりはない。倍近くの時間を費やすにも関わらず、JR関西本線の汽車旅の雛びた雰囲気には大いに魅せられた。木津駅で周囲の山々が開けると、関西に来たのだな、という感慨とともに、随分と長旅をしたかのような気分になった。JR奈良線も、近鉄京都線とほぼ並走しているにも関わらず、乗る電車によって旅情は全く異なるのだな、と思った。阪急電車で大阪に舞い戻り、1泊した僕は、翌朝8時57分に大阪駅を発車する長野行き特急「しなの」に乗り込んだ。大阪から長野まで走り通す1日1往復の特急列車に、1度で良いから乗ってみたかったのである。大阪駅11番線で383系特急用車両の「しなの」を目にすると、この電車が441.2km先の故郷まで連れていってくれることが、奇跡のように感じられる。大阪直通「しなの」の運転距離は、当時、在来線昼行特急列車で最長距離であった。関西でも信州でも、行き来する旅人の大半は東海道新幹線を利用して、名古屋で「しなの」に乗り換えるのであろう。乗り物に弱く、振り子式台車を用いている383系が苦手な場合は、東海道新幹線と長野新幹線を乗り継ぐかもしれない。大阪発の「しなの」は、長野まで5時間を費やすけれども、名古屋乗り換えならば新大阪-長野間が4時間弱、 300km以上の大回りとなる「のぞみ」と「あさま」の乗り継ぎでもほぼ同じであるから、新幹線の威力とは凄まじいものである。それでも、大阪直通「しなの」は、乗り換えの労を厭う高齢者や、小さな子供を連れた家族連れにとって重宝する列車なのだろう。大阪駅のホームでも、リュックを背負った子供が何人も見受けられた。全国に新幹線網が広がっても、例えば、名古屋と飛騨高山を結ぶ特急「ひだ」にも大阪発着の列車が設けられているし、東北・上越新幹線が開業した後も、上野発着で奥羽本線沿線の山形・秋田に直通する「つばさ」や、北陸に向かう「白山」など、新幹線と並行する在来線に特急列車が運転され、少数派でも直通客を大切にしていた時代があったのである。大阪直通「しなの」を利用するのは今回が初めてで、おそらく最後になるのだろうな、と思う。名古屋と長野を結ぶ列車は戦前から運転されていたが、昭和28年に準急「しなの」が登場した。昭和34年に急行へ、昭和43年に特急へと、とんとん拍子に出世し、特急化にあたってキハ181系特急用気動車が投入された。昭和34年から大阪と長野を昼夜行で結んでいた急行「ちくま」の昼行列車が、昭和46年に「しなの」に統合される。大阪直通「しなの」の登場であり、当時の停車駅は京都、米原、岐阜、名古屋、木曽福島、塩尻、松本、長野であった。昭和48年に中央西線の電化工事が完成し、特急「しなの」に381系特急用電車が投入された。平成8年に383系特急用電車に置き換えられ、それまで3時間以上を要していた名古屋-長野間を最短2時間43分で運転し、381系は臨時運用となって一線から退いたのである。特急「しなの」の歩みは、車両開発の歴史でもあった。昭和43年に「しなの」に初めて投入されたキハ181系は、従来の特急用気動車キハ80系に勝る500馬力の大出力エンジンを搭載している。国鉄は、大出力エンジンを搭載した試作車のキハ90系を、急行時代の「しなの」に使用して長期走行試験を行った上で、キハ181系を実用化し、電化前の中央西線だけでなく、後に奥羽本線、伯備線、土讃線など、山岳線区を中心に投入したのである。「しなの」に初めて用いられた381系車両は、勾配ばかりでなく急な曲線が連続し、キハ181系のような出力増大だけでは速度向上に限界が生じていた我が国の鉄道の弱点を克服すべく、国鉄が開発した車両である。昭和45年に振子式台車を装着した591系電車が試作され、曲線で車体に加わる遠心力を利用して、コロで支持された車体を内側に傾ける仕組みの「コロ軸支持式」自然振子装置が開発された。量産車となった381系では、中央西線の標準となっている半径400mの曲線を、従来より20km速い時速90kmでの通過が可能となり、紀勢本線や伯備線にも投入された。僕は381系「しなの」を何度も利用したので、、振子機能を発揮するために車載機器の大半を床下に搭載して重心を下げ、屋根が平たく、車体の裾を絞った外観に、強い思い入れがある。初めて乗車したのは、家族で名古屋や木曽に旅行した小学生時代で、横揺れに備えて窓にカーテンがなく、二重ガラスの中にブラインドが備えつけられていたり、通路を歩く人のために背もたれに取っ手がついている独特の車内設備に、目を見張ったものだった。その頃はいっぱしの鉄道ファンになっていたので、信越本線の碓氷峠で補助機関車と協調運転する機能を備え、信越本線の特急「あさま」と「白山」に投入された189系・489系特急用電車とともに、信州の列車には特別な車両が用いられているのだ、と悦に入っていた。381系は、乗客に掛かる遠心力を軽減して乗り心地を一般車両より向上させたと言われているが、実際は、曲線で少しずつ加わっていく遠心力が、振子装置が固定される静止摩擦力を上回った途端に、一気に最大角度まで車体が振れる「振り遅れ」や、逆の「揺れ戻し」によって、不自然な揺れを生じることが多く、カーブで上下方向の荷重が生じる特性も加わって、乗り物酔いを訴える乗客が多発した。エチケット袋が各座席に用意されたり、車掌が酔い止め薬を常備していたという逸話が残っている。母を奈良観光に連れていった帰路に、乗り物酔いしやすい母を「しなの」に乗せるのが心配になり、東海道と長野の2つの新幹線を乗り継いでみようか、と思い立った。「こっちの方がいいよ」と、母も新幹線の乗り心地に大いに満足したようであった。目が飛び出るような運賃になるので、1人ならば絶対に使わない方法である。当時、名古屋鉄道管理局に在籍して381系の開発に携わり、後にJR東日本の重役となった人物は、JR東日本時代に、振子式の導入には消極的だった、と語っている。平成5年にJR東日本が中央東線に投入し、新宿-松本間で最速2時間25分を実現、山岳路線でありながら表定速度が時速90kmを超えた特急「スーパーあずさ」用のE351系は、曲線通過時の車体傾斜にコンピュータ制御を採り入れて「振り遅れ」「揺り戻し」を解消した制御付自然振子方式を採用したものの、振子式台車ではないE257系の列車も多く残されていた。後継となったE353系で、台車の空気ばねの圧縮空気を調整して車体を傾斜させる方式が採用されたのは、そのような理由であったのか、と思う。制御式振子の実験が行われたのは381系の改造車両で、湖西線で行われた高速試験で時速179.5kmと我が国の狭軌鉄道最高速度記録を更新し、現在に至るまで最高速度記録を維持している。国鉄の分割民営化の後に開発された383系は、381系「しなの」を置き換える目的で開発され、制御付自然振子方式を採用し、曲線の通過速度がプラス35kmと更に増した。速度も勿論であるが、383系特急電車の「しなの」の座席に収まれば、座席の座り心地が国鉄時代と雲泥の差で、我が国の鉄道が確実に進化していることが実感される。定刻8時57分に大阪駅を発車すると、『御乗車ありがとうございます。特急「しなの」9号、長野行きです。次は新大阪です』『This is limited express “Shinano” number 9 bound for Nagano. The next stop is Shinoosaka. Thank you』と、日英の言語で録音された女性の声の短いアナウンスが流れ、東海道新幹線に乗っているかのような気分にさせられるのは、飯田線の特急「伊那路」と同様で、JR東海の列車なのだな、と思う。東海道新幹線「のぞみ」は、新大阪-名古屋間を50分あまりで走り抜けてしまうけれど、特急「しなの」は2時間もかかる。続いて、肉声の車掌の声が、『御乗車ありがとうございます。特急……えー、「しなの」……えー、9号……長野行きです。自由席車は後ろ2両です。7号車、8号車、自由席車です。なお、お煙草が吸えるのは4号車、6号車、7号車です。その他の車両ではお煙草は御遠慮下さいますよう、御協力お願い致します。次は新大阪、新大阪です』と、簡潔な案内を付け加えた。次に停車する新大阪駅まで4分しかないので、詳しい案内は後回しにしたのだろう。それにしても、車掌が列車名でつっかえるとは、如何なることであろうか。かぼそい声色であったことも手伝って、何となく不安にさせられる案内であった。『今日も、特急「しなの」号を御利用下さいまして、ありがとうございます。この列車は、特急「しなの」9号、長野行きです。停車駅は、京都、米原、岐阜、名古屋、千種、多治見、中津川、木曽福島、塩尻、松本、篠ノ井、長野です。車内の御案内を致します。前から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが8号車です。指定席は、1号車から6号車、自由席は7号車と8号車です。グリーン車は、1号車です。化粧室は、1号車、3号車、5号車、7号車。喫煙車両は4号車、6号車、7号車です。その他の車両ではお煙草は御遠慮下さいますよう、御協力お願い致します。屑物入れは、各デッキにあります。携帯電話の御使用について、お願い致します。携帯電話は、マナーモードに切り替えるなど、周りのお客様の御迷惑にならないよう、お願い致します。次は、京都です』新大阪駅を出ると、一言一言を区切った録音の詳しい案内が流れ、全く同じ内容を英訳したアナウンスが続いたが、いつまで経っても車掌の肉声の案内がなかったので、合理化のあまり省略してしまったのか、と、がっかりした。同じ内容を繰り返す必要はなく、うるさいだけだ、という意見もあるだろうが、僕にとって、停車駅や到着時刻を加えた車掌の案内を聞くのは重要な儀式で、旅情を催す場合も少なくない。高槻駅のあたりまで、吹田総合車両所、吹田機関区、吹田貨物操車場、阪急電鉄正雀工場などといった操車場や車両基地、そして短い間隔で設置された駅、そして複々線の東海道本線と貨物線合わせて8本の線路、といった鉄道敷地ばかりが目立ち、これならば高架の新幹線の方がマシかな、と思う。このあたりは住宅地で、高い建物が少ないことも、景観を平板にしている一因であろう。高槻駅を過ぎると、阪急京都線と京阪本線、新幹線、名神高速道路が寄り添ってくる。天王山と男山に挟まれて、両側から平地が窄まっていくのは在来線ならではの風情で、車窓の移り変わりが忙しすぎて目が回る新幹線よりも、心が落ち着く。北陸から大阪へ向かう特急「サンダーバード」とすれ違いながら、天王山の裾をすり抜けて山崎駅を過ぎると、東海道本線は京都盆地に入って行く。京都駅で幾許かの乗客が加わると、再び画一的な録音の放送があり、どうせ車掌はマイクを持たないのだろう、と決めつけていたのだが、『御乗車ありがとうございます。特急「しなの」9号長野行きです』と肉声が聞こえたので、おっ、と顔を上げた。『電車は前より1号車2号車の順で、1番後ろは8号車です。自由席車は後ろ2両です。7号車8号車は自由席車です。お煙草が吸えますのは、4号車6号車7号車です。その他ではお煙草は御遠慮下さいますよう御協力お願い致します。また携帯電話を御利用の際は、御面倒ですがデッキの方でお願い致します。また、お座席では周りのお客様の御迷惑とならないよう、予めマナーモードなどに切り替えていただきますようお願い致します』相変わらず嫋々たる声音で、しかも早口だが、停車駅と到着時刻は案内するのだろうか。『えー、停まります駅、到着時刻など、間もなく入りますトンネルを出た後に、御案内させていただきます』なにそれ?──と首を傾げた瞬間、車窓が暗転して、「しなの」は轟々と走行音を壁面に反響させながら、東山トンネルに飛び込んだ。JR東海の車両であっても、境界となる米原駅まで、JR西日本の車掌が乗務するはずである。別の列車で、案内放送中にトンネルに進入し、全く聞き取れなかった経験が少なくないだけに、経路とタイミングを熟知した気配りに感服した。『お待たせ致しました。それでは停まります駅、到着時刻を御案内させていただきます。次は米原です。10時03分、米原を出ますと、岐阜に10時36分、名古屋10時58分、千種11時06分、多治見11時21分、中津川11時49分、木曽福島12時25分、塩尻12時53分、松本13時04分、篠ノ井13時44分、終点の長野には13時54分の到着です。この電車には車内販売員が乗車しております。どうぞ御利用下さい。次は米原、米原です』トンネルを抜けて再開された放送が、中断の前より声に張りが感じられ、頼り甲斐のある車掌だ、と思ったのだから、僕も現金である。案内の終了と同時に山科駅を通過し、「しなの」は、程なく2325mの逢坂山トンネルに入った。京都と大津を隔てる逢坂山は、我が国で初めての山岳鉄道トンネルが掘削された区間である。明治13年に完成した長さ664.8mの逢坂山隧道は、外国人技師を使わず日本人だけで工事が行われたが、25‰の勾配が輸送上の障害となったため、大正10年に、現在の新逢坂山トンネルが掘削された。旧トンネルは京都大学地震予知研究センターが使用しており、長野市松代の大本営跡地と同じ使われ方である。大津駅から膳所駅のあたりまで、大阪、京都の通勤圏として住宅が途切れることがなく、琵琶湖を見ることは出来なかった。米原駅で運転手が交替し、発車後の車掌の案内も声が変わった。『御乗車ありがとうございます。特急「しなの」9号長野行きです。次は岐阜に停まります。列車は8両編成です。自由席は後ろ2両、7号車と8号車です。グリーン車は1号車です。その他の車両は指定席です。お煙草が吸えますのは4号車、6号車、7号車です。その他の車両でのお煙草は御遠慮下さいますよう、お願い致します。車内への危険物の持ち込みは禁止されております。皆様のお近くに、持ち主の分からない不審な荷物等がございましたら、お手数ですが車掌または駅の係員までお知らせ下さい。御案内致します乗務員は、替わりまして、運転手〇〇、車掌は□□です。途中、名古屋まで御案内致します。次の岐阜は10時34分の到着です』こちらはきびきびした渋い声であったが、低音過ぎて、走行音に掻き消され気味である。それよりも、交替した運転手の元気な声が気になって仕方がない。「本線場内、進行!関ヶ原、通過!本線、75!」などと、指差し確認をする張りのある声が、客室まで朗々と漏れ聞こえて来る。この日、僕はグリーン車を奢っていた。出費は嵩むけれども、大阪から長野方面はグリーン車が最前部になるので、おそらく最初で最後となる大阪直通「しなの」の車中を、前面展望も含めて楽しみたかった。昭和63年に、381系を改造したパノラマ型グリーン車が「しなの」に連結されたことがある。前方展望を確保するため、高運転台を廃した381系の前面形状は、のっぺりとしてユーモラスだった。せめて、小田急ロマンスカーや名鉄パノラマカーのように、高運転台かつ客室前面展望が両立できなかったのか、と頬が緩んだものだった。グリーン車が1号車になるのはその時からの伝統で、「ワイドビュー」の異名を持つ383系もその系譜を汲んで、運転手の肩越しに眺望を楽しむことになる。東海道本線で大阪-名古屋間を走るのは、夜行列車で何度も経験しているものの、日中は初めてであった。車窓をとても楽しみにしていたのだが、飛び抜けた景色が現れる訳ではない。天王山、京都、山崎、逢坂山、大津、関ヶ原などの地名や駅名を目にして歴史に思いを馳せるのが、東海道本線の味わいである。「しなの」の走りっぷりはなかなか切れ味が良いが、振子機能が作動すると架線に負担が掛かるために、中央西線や篠ノ井線しか使用しないと聞いた。俊足に感じられるのは線形が良好である証しだが、それでも、人は新幹線を選ぶのか、と思う。現在、この区間を行き来する特急列車は「しなの」と「ひだ」だけであるが、かつては「つばめ」、「こだま」、「はと」などの錚々たる列車が行き交い、数多くの人々を運びながら、我が国の発展を支えたのである。なだらかな山々が連なる近江と美濃の国境を越え、濃尾平野に飛び出して岐阜駅に停車し、揖斐川、長良川、そして木曽川の鉄橋を渡れば、間もなく名古屋駅である。左手から名鉄線、右手から東海道新幹線が寄り添い、正面の名古屋駅周辺の高層ビル群が迫ってくる。『御乗車ありがとうございます。間もなく名古屋に到着します。お乗り換えの御案内を致します。新幹線、東海道線、関西線、地下鉄 線、名鉄線、近鉄線はお乗り換えです。新幹線上り、静岡、東京方面は14番線と15番線、下り京都、新大阪方面は、16番線と17番線です。新幹線下り博多行き「のぞみ」9号は16番線から11時34分、新大阪行き「ひかり」215号は17番線から11時15分、上り東京行き「のぞみ」8号は14番線から11時47分の発車です。東海道線快速浜松行きは10番線から11時03分、関西線快速鳥羽行きは12番線から11時10分です』と、車掌の案内は東海道新幹線が主体であったが、大阪、新大阪、京都、米原、岐阜から長野行き「しなの」に乗り、新幹線に乗り換える乗客などいるのだろうか、と首を捻りたくなる。「場内進行、注意!制限55、注意!名古屋、停車、8両、注意!制限35!」次々と転轍機を渡って扇状に構内が広がっていくにつれて、運転手の呼称も忙しくなった。名古屋駅でどっと乗客が乗り込んで来て、「しなの」9号も、1時間に1本以上運転されている名古屋発着「しなの」の一員となり、ここから先は馴染みの行程になる。交替した運転手の声は低く、きちんと指差し確認をしている仕草は見えるのだが、呼称は走行音に掻き消されて途切れがちになった。『御乗車ありがとうございます。特急「しなの」9号長野行きです。次は千種です』『This is limited express “Shinano”number 9 bound for Nagano. The next stop is Chigusa. Thank you』という定番の録音放送に続いて、『御乗車ありがとうございます。御利用の列車は特急「しなの」9号長野行きです。この先の停車駅の御案内を致します。次は千種に停まります。千種11時06分、多治見11時21分、中津川11時49分、木曽福島12時25分、塩尻12時53分、松本13時04分、篠ノ井13時44分、終点の長野には13時53分の到着です。列車は、本日、8両で運転しております。前から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが8号車です。先頭1号車はグリーン車です。指定席は、2号車、3号車、4号車、5号車、6号車です。自由席は後ろ寄りの2両、7号車と8号車です。お手洗いの設備は1号車、3号車、5号車、7号車にございます。屑物入れは、各デッキにございます。車内販売が乗車しておりますので、御利用下さい。この列車は特急列車です。御利用には特急券が必要です。指定席を御利用のお客様は、席番をよくお確かめの上、御利用下さい。携帯電話の御使用は、マナーモードに切り替えるなど、周りのお客様の御迷惑にならないよう、お願い致します。車内への危険物の持ち込みは禁止されております。皆様のお近くに、持ち主の分からない不審なお荷物等がございましたら、お手数ですが車掌または駅の係員までお知らせ下さい。御案内致します乗務員は、車掌が△△、運転手が××です。途中、塩尻まで御案内致します。次は、次は千種に停まります』千種駅まで8分しかないので、JR西日本の車掌のように省略するかな、と思ったが、全ての停車駅と到着時刻、そして通常の案内を言い切ったのには感心した。多治見駅を過ぎると、それまで途切れることがなかった家並みが、こんもりとした緑の丘陵に変わり、いきなり景色が鄙びて来る。名古屋都市圏の終わりは、なかなか唐突だった。ふと気づくと、幾重にも折り重なる山々が視界を塞ぎ、岐阜と長野の県境に位置する田立駅の北隣りの南木曽駅の駅名標が目に入ったので、驚愕した。中津川駅の停車を知らなかったのは、居眠りでもしていたのだろうか。深く谷を刻む木曽川の東側の斜面を国道19号線が走り、一段高い場所を中央西線が並走する。木曽川も国道19号線も中央西線も、山あいを縫っていく曲線がどこまでも並列になっていて、最も山ぎわの鉄道が時々トンネルをくぐる程度である。これほどの山奥であるにも関わらず、木曽川はたっぷりと水を湛え、濃緑色の川面と真っ白な花崗岩の河原との対照が鮮やかである。木曽路はすべて山の中である──島崎藤村の「夜明け前」の有名な書き出しが脳裏に浮かぶが、よくぞ、この峻険な地形に鉄道と道路を通したものと思う。木曽谷に入って、「しなの」はいよいよスピードに乗ったようである。山を巻いて先が見えない急カーブが連続しているにも関わらず、「しなの」は全く速度を落とさず、右に左に車体を大きく傾けながら高速で疾走するのは、極めて愉快な体験だった。バイクでワインディングロードを攻めている感覚に似ている、と言えば大袈裟であろうか。僕はバイクの愛好者だったが、前年に、通勤途上で、横道から飛び出してきた車と衝突事故を起こして肋骨を骨折する怪我を負い、乗るのをやめていた。今でも、ふと、バイクに跨がりたくなる瞬間はあるけれども、衝突の瞬間や、前輪が車体に食い込むほどに全損したバイクの残骸を思い浮かべれば、怖気をふるってしまう。上松駅を通過して間もなく、録音だが、駅の発車や到着の放送とは異なる女性の声が流れ始めた。『御案内致します。しばらくして、小さなトンネルを過ぎますと、左側の窓下に、木曽八景の中で最も景色の良い「寝覚の床」が見えて参ります。川の中ほどの一段と高い岩の上に、松に包まれて、浦島像が建っています。ここは、浦島太郎が竜宮から帰って、余生を過ごしたと言う伝説のあるところです。すぐ近くの臨川寺には、浦島太郎が竜宮から貰って帰ったと言う弁財天が祀ってあるとも伝えられています』子供の頃から、「しなの」が寝覚の床に近づくと、決まって車掌が案内をしたものだったが、これも録音になってしまったのか、と呆れると同時に、そうだったのか、と思う。寝覚の床と浦島伝説との関わりは、初めて聞いた気がする。竜宮から帰還した浦島太郎は、放浪の末に木曽の山奥へとたどり着いたが、里人に竜宮の話をするうちに玉手箱を開けてしまい、老人に姿を変える。これまでの出来事が夢のように思われ、初めて夢から覚めた心持ちになったため、この地が「寝覚の床」と名付けられたという言い伝えであり、列車に乗っていると、あまりに美しい景色のために自然と目が覚めるから、と両親から聞かされていた僕は、思わず赤面したくなる。江戸時代初期に、沢庵和尚が「木曾路紀行」で「浦島がつり石」という岩に言及し、貝原益軒も「木曾路之記」において「浦島がつりせし寝覚の床」を見聞したと記しているので、両親の説よりも浦島伝説の方が確かなようである。そこからも木曽川の畔を行く道行きが続き、前方に立ち塞がっていた山々が、舞台の幕を引き開けるように左右に後退すると、安曇野である。『御乗車ありがとうございました。あと4分程で塩尻に到着を致します。到着は6番線、お出口は右側です。乗り換えの御案内を致します。普通列車小淵沢行き、12時08分、乗り場は1番線です。特急「スーパーあずさ」18号新宿行き、13時11分、乗り場は1番線です。普通列車松本行き、13時42分、乗り場は4番線です。普通列車飯田行き、13時20分、乗り場は1番線です。お降りの際、車内にお手荷物などお忘れ物がございませんようお気をつけ下さい。降りましてホームを変わられる際、階段、エレベーターに関しましては、到着しましたホームの後ろ寄りにございます』右手から中央東線が寄り添って来て、塩尻駅に停車すると、ホームで待っていた運転手が挙手の礼をしながら、二言三言を交わして慌ただしく交替する。停車時間は僅かである。塩尻駅は東西の中央本線と篠ノ井線が交わる鉄道の要所であったが、かつては東京からの中央東線と名古屋からの中央西線が直通し、篠ノ井線は中央東線から真っ直ぐ進めるよう、右に寝かせた「人」の文字を描く線形になっていた。そのため、僕が子供の頃に利用した「しなの」は、長野から来ても名古屋からの場合でも、いったん東京方面に鼻先を向けて、塩尻駅に5分ほど停車し、前後の向きを変えたのである。中央東線と中央西線を直通する列車が殆んど運転されなくなったため、塩尻駅は松本寄りに移転して、中央東線と篠ノ井線、中央西線と篠ノ井線が直通できるようになった。「しなの」の方向転換も過去のものとなった。『お待たせ致しました。御乗車ありがとうございます。特急「しなの」9号長野行きです。塩尻で担当乗務員が交替致しまして、JR東日本長野支社長野運輸区の◎◎と▽▽です。終点長野まで御案内させていただきます。よろしくお願い致します。本日、この列車は8両編成での運転です。自由席は後寄りの2両、7号車と8号車です。8号車は禁煙車です。お煙草は御遠慮下さい。特急「しなの」9号長野行きです。次は松本に停まります』2分停車で塩尻駅を発車した「しなの」における4人目の車掌は、ハキハキした口調で、好感が持てた。車両案内を自由席に絞ったのも、県内区間の利用者で指定席を購入する乗客は少ないと判断したのだろう。大阪直通「しなの」は、JR西日本、JR東海、そしてJR東日本と、本州3社を跨がって走っているのか、と改めて認識した。「しなの」ではいつもの光景だが、次の松本駅でごっそりと乗客が席を立ち、長野へ乗り通す客は案外に少ない。グリーン車は僕1人になってしまった。それにしても、大阪直通「しなの」は、米原、名古屋、塩尻で3回、4組もの乗務員が交代するのか、と驚いた。松本駅を後にした「しなの」は、犀川の川べりを、国道19号線と一緒に快走する。父が運転する車で国道19号線を走り、並走する篠ノ井線の路床を見上げながら、列車が来ないかな、と思っていた幼い頃が懐かしい。明科駅を過ぎると、「しなの」は第一から第三白川トンネルを筆頭に、峻険な筑摩山地の山越えに挑んでいく。「しなの」の行き足は全く衰えを見せず、スピード感は中央西線と勝るとも劣らない。改めて、振子式台車とは、物凄い発明をしたものだと思う。木曽谷では木曽川により左側の視界が開けていたが、篠ノ井線は両側を山の斜面に挟まれた単線なので、障害物競走のような迫力がある。冠着駅で名古屋行き「しなの」と離合し、篠ノ井線で最大の難所だった長さ2656mの冠着トンネルも瞬く間に過ぎた。スイッチバックの姨捨駅を過ぎると、右手の木立ちや茂みの合間から、善光寺平が一望の下に開けた。帰ってきたな、と嬉しくなる。急坂を勢いよく駆け下り、稲荷山駅を徐行しながら通過すると、全ての山越えが終わり、前方の長野自動車道との立体交差に向けての直線に入る。『御乗車ありがとうございました。あと6分程で終点長野に到着を致します。5番線到着、お出口は左側です。終点長野からのお乗り換えを御案内致します。長野新幹線上り東京、大宮方面、「あさま」516号東京行きは14番線、14時10分の発車です。信越線、北長野、豊野、黒姫方面直江津行きは7番線から14時06分の発車です。飯山線北長野、豊野、飯山方面、戸狩野沢温泉行きは4番線、14時24分の発車です』川中島駅のあたりで終着駅の案内が流れたが、何となく尻切れトンボだった。しなの鉄道の上田、軽井沢方面の案内は篠ノ井駅で済んでいるので、そのことを言っているのではない。御乗車ありがとうございました、とか、お忘れ物なさいませんよう、などと、普段はそこまで乗客を過保護に扱わなくてもいいのに、と苦笑いしたくなるようなお決まりの文面が、いざ省略されてしまうと物足りない。善光寺平における「しなの」の走りっぷりはいよいよ快調で、それほど急いで旅を終わらせなくてもいいよ、と言いたくなる。長野駅の手前の裾花川橋梁を渡り始めると、左手の上流方向に、実家に程近い長野県庁が垣間見えたので、ただいま、と頭を垂れた。『御乗車ありがとうございました。間もなく、終点、長野です。新幹線、信越線、飯山線はお乗り換えです』『Ladies and gentlemen, we will arrive at Nagano terminal in a few minuites. Passengers going to Shinkansen, Shinetsu line, and Iiyama line, please change train here at Nagano』との録音案内が流れ、車掌の声が続いた。『御乗車ありがとうございました。間もなく終点長野、長野です。5番線到着で、お出口は左側です。本日も特急「しなの」号を御利用下さいましてありがとうございます。またの御利用をお待ちしております。車内にお忘れ物、落し物のないよう、お手回り品を今一度御確認の上、お降り下さい。御乗車ありがとうございました。間もなく終点長野です。5番線到着、お出口は左側です』列車がホームに差し掛かるという間際であったが、今度は定番の懇切丁寧な挨拶を聞けたので、失せ物が手元に戻ってきたかのように安心した。群馬から北陸を回って大阪、伊賀上野、京都、そして大阪に戻って信州と、猛暑の中を我ながらお疲れ様であったけれども、何処が目的地であるのか判然としないような足掛け3日間の旅が、真夏の夜の夢のように感じられた。様々な乗り物を体験できたので、旅の成果は満足であるものの、終着駅が近づくと、玉手箱を開けた浦島太郎のような心境にさせられる。今回の長旅において、長野駅は夢の終焉を告げる「寝覚の床」だったな、と可笑しくなった。この旅の11年後、平成28年に大阪直通「しなの」が廃止され、全ての列車が名古屋止まりとなった。在来線昼行特急列車における最長距離の座は、博多と宮崎を結ぶ「にちりんシーガイア」が受け継いだ。急行「ちくま」が平成15年に定期運転を終了しているので、半世紀も大阪と長野の間を走り続けた直通列車の歴史は、幕を閉じたのである。にほんブログ村人気ブログランキングへ↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>

    第43章 平成17年 「しなの」大阪直通の時代と群馬発北陸回り大阪行き夜行高速バスの長い夜
  12. みなさん、こんにちわ。2月の3連休の最終日の日記ですよー。さて。この日は帰るだけの日。まず、ホテルで朝食タイム。美味しく戴いてスッキリお目覚め。よくよく考えたら3日連続でカレーを戴いてたことに後になって気付いたことは極秘情報ですよ。そして、チェックアウト。高速道を走りましたよ。んで、那須高原SAで休憩。ここには愛犬家御用達の観光スポットがあるので、そこを観光。公団ゴシックの緑看ですよー。よくよく見ると「3km」の文字が消されてるよ。以前は3km手前に設置されてた緑看をコチラで再利用してるのでしょうね。地球に優しいですな。もちろん、愛犬家だけじゃなくお犬さんたちもこの緑看をうっとりと見惚れていたことは言うまでもないですよね。さて。この那須高原SAのある栃木県といえば、やはりレモン牛乳。売店で購入しました。せっかくなので銘菓の御用邸の月も購入。やはり、栃木県の銘菓にはレモン牛乳が良く合う。美味しく戴きました。さて。それでは出発しますよー。ちょろっと走って、今度は国見SAに寄りました。ここでランチタイム。フードコートにあるCAMP GRILL 923 BASEに向かいました。ここでタンシチューを発注。柔らかく煮込まれたタンシチューが実に美味しい一品。しかも、ライスがタンシチューに良く合うように柔らかめに炊いてあって、これがまた実に美味しい。とても美味しく戴きました。そして、食後のドリンク。国見SAのある福島県といえば、やはり酪王カフェオレですよね。ランチタイムの前に売店で購入しときました。しかも、クリームボックスオレが売ってたので、それも購入。カフェオレは安定の美味しさ。そして、クリームボックスオレは甘いクリーム感たっぷりですが、甘ったるくなくスッキリとした味わい。これまた実に美味しい。食後のドリンクタイムをじっくりと堪能しました。さて。この後はさらに走りました。んで、前沢SAで休憩。ここまで来れば、日常の休日という雰囲気ですな。そして、さらに走って紫波にあるラ・フランス温泉館に向かいました。この日は、ここで温泉タイム。いつものようにサウナ・水風呂・内湯とじっくりと堪能した後に露天風呂&外気浴。ゆったりまったりと堪能して、普段の仕事の疲れをじっくりと癒しましたよ。そして、温泉タイムの後は夕食タイム。館内のレストランあづまねに入店。生姜焼き定食を発注。誤解されそうなビジュアルのドリンクは、もちろんノンアルコールビール。通報しないでくださいね。美味しく戴きました。そして、帰宅。今回のお出かけの走行距離は1755.4kmでした。まぁ、近場でしたので、こんなもんでしょ。

    三連休最終日
  13. 最後は晴れと思いましたが
  14. 令和6年10月10日撮影分10・10…DE10!沖縄が大規模空襲にあった日ですねちょうど80年前にあたるんですね井倉から倉吉、鳥取方面を目指すも行きたい場所に辿り着けず成果なし…やむなく引き返し予定していた場所へしかし…雲が轟沈でした晴れたように見せかけることはできましたが…⤵︎仕方ないので次へ…バリ晴れです☀️山陰本線臨時配給列車 (検査施工に伴う所属先 (金沢車両区敦賀支所) から後藤総合車両所への車両回送)配9853DE10 1119 [富] + ホキ800形貨車 3両 (ホキ1850 + ホキ1848 + ホキ1868)バッチリ撮れました!これは嬉しいでも…紐っぽい?いつもPPを撮る立ち位置で撮ったので…どうなんだろう?今回は色々あってホキ3両となったそうですこの時期話題になっていたアレのせいだとか…定番から淀江駅までの間は時期が時期なためまともに撮ることができず失敗駅で形式写真などをうまく回収します敦賀のホキは常時電灯ありでいいですね!ホキ1868ホキ1848ホキ1850この時間にはスッキリ快晴になってましたあっつい🥵でもかっこいい!山陰本線臨時配給列車 (検査施工に伴う所属先 (金沢車両区敦賀支所) から後藤総合車両所への車両回送)配9853DE10 1119 [富] + ホキ800形貨車 3両 (ホキ1850 + ホキ1848 + ホキ1868)ラストは上から撮影して終了しかしまあ…この釜なんとも不運なことに先日廃車になってしまいました元々そんな計画ではなかったはずですが、もうDE10の部品が世の中に多く残ってないのだろうと思われます台車ともなると尚更なのでしょう1機でも多く永く走って、我々にも楽しさをお裾分けしてほしいものですが、寒地仕様の1119号機がいなくなったのはオタク共にとっては大きな損失ではないでしょうか?続く

    ホキ配給を追いかけろ!
  15. 【予讃線】松山駅からは・・・
  16. WESTERポイント全線フリーきっぷ先週、2日間にわたって、JR西日本のこちらのきっぷで旅をしてきました。博多から新大阪まで往復新幹線、あとは在来線でウロウロしてきたのですが、タイトルにあるとおり、大失敗をみっつほどやらかしてしまいました。ひとつずつ自戒を込めて告白します( ̄。 ̄;)朝寝坊して列車に乗り遅れる?迫られた3択とは!泊まっていた、ある駅前の東横インで寝坊してしまい、予定している列車の発車まで20分しかありませんでした💦ホテルから駅までは徒歩1分!こんなときダンシだったら、さっと着替えてそのまま駅に向かうんでしょうが、オバサンとはいえオンナの私、ここで3択を迫られました。その三択とは スッピンで駅に向かう 無料朝食を断念する 1駅だけ諦めて、次の列車で向かうどれか一つをガマンすればあとの二つはなんとかなりそう。さて、私の決断は!!! 洗顔、ベースメイク、ファンデ、目の周りだけ化けて、あとはマスクと前髪を垂らしてごまかす チェックアウトしたあと朝食会場に向かい、おにぎり2個を強引に口に押し込む 上記2点をこなし、予定の列車に乗車、最初の訪問駅の化粧室で残りのメイクをするはははっ、どうだこの話を聞いたダンナからは、「恥ずかしいからスッピンはやめてくれ」と言われたのですが、なんとしても私にとっては朝ご飯と駅訪問は諦めることができないのです。こんなところは、やっぱ私はオンナ捨ててるなあって思いますスマホを列車内に置き忘れましたワタシは、仕事先や旅先でスマホは2台持ち歩いています。通常のモバイル回線契約をしているスマホとSIMなしスマホ(つまりWi-Fi環境がないと使えないスマホね)なのですが、そのうちSIMなしスマホを乗車していた車内に置き忘れてしまいました。すぐに気がついて、JR西日本の忘れ物センター?に電話、これがつながらない、何回かけてもつながらない、チャットでも問い合わせができるんですが、これもつながらない、ようやくつながったのですが、いまのところ届け出はないとのこと、けっきょくその日は見つかりませんでした。とりあえず、持っているスマホで、なくしたスマホの着信音を鳴らしたり、情報保護はしましたが、SIMなしスマホなので、Wi-Fiのない環境では、それらの対策もできていないのではないかと思います。まあ、SIMなしスマホは、以前使っていたスマホを契約解除後も使っているもので、写真撮影やスケジュール確認用だけに使っておらず、何らかの購入決済には使えないし、パスコード・顔認証ロックはかけているので、金銭的な被害には遭わないとは思うのですが、なんとかみつかってほしいです。この話を聞いたダンナは「そういえば三重県の松阪駅の東横インでiPadを忘れて神戸から取りに行ったこともあっただろう?なんでそんなに物をなくす?それもいつも旅先で!」と過去のことを持ち出してワタシを責めていました。悔しい!メチャ悔しい!生まれて初めて職務質問をされてしまいましたこちらは初日の夕方、善良な市民として人生を過ごしていたワタシが生まれて初めておまわりさんから職務質問をされてしまいましたことの起こりは、駅訪問の途中で駅前に野良猫を見つけたことが発端でした。「あらねこちゃんおるやん!🐱」と思いながら住宅街の道路端を散歩するキジトラ猫ちゃん、せっかくなので道路の反対側を併走しながらムービー撮影をしていたのです。そこへおまわりさんが登場!👮「何を撮影しているんですか?」「空き巣の下見じゃないんですか」と……はあっ!猫の背後にある住宅が映り込んでいるから、怪しまれたのかな?と思いましたが、以前、たまたま知り合いの弁護士から「犯罪者は、職務質問をされたときに目をそらしたり、慌てるから、所持品検査や警察に任意同行されちゃうんですよ」と聞いたことがあったので、ワタシはおまわりさんの目をジッとみて猫を動画撮影していただけと強く答えました(写真)私が職務質問されそうになるのを尻目に逃走するキジトラねこすると、おまわりさんから「あまり勘違いされるようなことはしないでください」と言われ、「勘違いしたおまわりさんが悪いんやろ!」とちょっとだけむかつきましたが、そこはニコッと笑顔で「はいはい」と答え、職務質問は終了。我ながらうまく切り抜けた(いやいや悪いことをしたわけじゃないから切り抜けたという表現が間違っている)のです。この話もダンナにしたら「警察官をじっと見るって、それ睨んでたんだろう?頼むからそのまま警察に連れて行かれて、引き取りに行かなくちゃならないなんてことしないでくれ」と呆れられてしまいました。まあ、こんなあまり良いことはなかった今回の旅、しっかり駅訪問はクリアしましたが、いろいろと気をつけないと、いずれワタシはとんでもないことをやらかしてしまうんじゃないかと思ったのでしたお~しまい、ほなまた~

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  17. 大雪山とラッセル
  18. 2025年3月17日 野田線大宮駅で8111F撮影
  19. 雨の寺野踏切で5087レを撮りました。
  20. 2025年3月10日 梅の花と東武8000系(越生線武州唐沢で撮影)