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  1. この時間は、秋田県の駅をぐるりします。本日の駅は、奥羽本線と花輪線の分岐駅、大館駅です。ページの最後に記事リストがありますのでご覧くださいね。写真は,平成10〜20年代撮影のものが多くあります。現在の状況とは変わっていることがありますので、参考にする際はご注意ください。また、当ブログをご利用される際は、必ずこちらの記事「免責事項について」をお読みの上、ご覧くださいね。では、最後までごゆっくり。**********本日は大館駅です。訪問したのは20年以上前、もうこの駅舎は残っていないだろうと思ったら、つい最近までこの駅舎は現役だったみたいです。現在は、コミュニティ施設併設の駅舎に改築されています。この国鉄の駅って感じの駅舎もよかったんですけどねえ。おそらく訪問したときで築50年くらいだったと思うので、維持も大変だったのでしょう。駅前です。この駅前風景も20年の間に変わっているでしょうね、秋田犬と忠犬ハチ公の像は新駅舎の建築でどうなってしまったんでしょう?駅前の左側のビルは鶏めしの駅弁店だった気がします。なお訪問当時はまだ小坂鉄道が貨物輸送をしていた時期だったと思うのですが、小坂鉄道の構内は、JRとは別で、この駅前を右手に進んだところにあったようです。駅名の由来がありました。出札と改札です。構内は右が駅舎側の片面ホーム、左が島式ホームの2面3線となっています。奥が青森方面、列車が停まっている2線は奥羽本線のホーム、左端が花輪線のホームです。こちらは秋田・好摩方面です。奥から花輪線の列車が入線してきます。私の立ち位置から見ると、花輪線は奥羽本線から右に離れた後、反時計回りに急カーブし奥羽本線をオーバークロスして大館の市街地を外周するように次の東大館駅に到着します。大館市は、長木川を挟んで市街地が南北に広がりますが、大館駅があるのは川の北側、東大館駅があるのは川の南側で、大館市役所は東大館駅側にあります。また、画面左端からさらに左手に小坂鉄道への線路が分岐していたと思うのですが、全く記憶がありません。今となってはせめて貨物駅として残っていた小坂鉄道の大館駅を訪問しておけば良かったと思っています。奥羽本線の駅名標。駅名標のバックにコンテナが見えますが、今でも大館駅は貨物取扱駅となっています。こちらは花輪線専用の駅名標です。次回からは、五能線の駅をぐるりします。(平成15年7月訪問)秋田県の駅訪問に便利なホテル大館駅(駅チカ順)ロイヤルホテル大館楽天トラベルホテルルートイン大館駅南楽天トラベル東大館駅(花輪線)ホテルルートイン大館大町楽天トラベル秋田駅(駅から徒歩5分・500m以内で楽天評価4.0以上)リッチモンドホテル秋田駅前楽天トラベル東横INN秋田駅東口楽天トラベルホテルメトロポリタン秋田楽天トラベルANAクラウンプラザホテル秋田楽天トラベルコンフォートホテル秋田楽天トラベルホテルアルファーワン秋田楽天トラベル※楽天トラベルの評価は令和6年1月現在のもの、駅からの距離は楽天トラベルアプリ内の情報です。秋田の駅をぐるり 記事リスト奥羽本線・院内駅 秋田の駅をぐるり1 奥羽本線・三関駅 秋田の駅をぐるり2 JR東日本・横手駅 秋田の駅をぐるり3 奥羽本線・後三年駅 秋田の駅をぐるり4 奥羽本線・飯詰駅 秋田の駅をぐるり5 JR東日本・大曲駅 秋田の駅をぐるり6 奥羽本線・峰吉川駅 秋田の駅をぐるり7 JR東日本・秋田駅 秋田の駅をぐるり8 奥羽本線・泉外旭川駅 秋田の駅をぐるり9 奥羽本線・土崎駅 秋田の駅をぐるり10 奥羽本線・上飯島駅 秋田の駅をぐるり11 奥羽本線・上飯島駅 秋田の駅をぐるり12 奥羽本線・大久保駅 秋田の駅をぐるり13 奥羽本線・前山駅 秋田の駅をぐるり14 JR東日本・大館駅 秋田の駅をぐるり15 五能線・能代駅 秋田の駅をぐるり16 五能線・あきた白神駅 秋田の駅をぐるり17 羽越本線・羽後本荘駅 秋田の駅をぐるり18 羽越本線・羽後岩谷駅 秋田の駅をぐるり19 羽越本線・羽後亀田駅 秋田の駅をぐるり20 羽越本線・桂根駅 秋田の駅をぐるり21 花輪線・十和田南駅 秋田の駅をぐるり22 男鹿線・羽立駅 秋田の駅をぐるり23 男鹿線・男鹿駅 秋田の駅をぐるり24

    たくさん共感されています

    JR東日本・大館駅 秋田の駅をぐるり15
  2.  おはようございます、ご機嫌いかがですか。鉄道写真愛好家の「なまでこ」です。 尾張地方、今朝方まで大雨が降っていました、現在は雨が上がりました。本日は現在でもJR西日本で活躍している、特急車両「達」です。「オーシャンアローくろしお」に使用されている283系特急型電車です。1996年7月に登場して28年が経過しようとしています。京都よりに3両増結車両が連結されていました。「サンダーバード」に使用された681系特急電車です、量産型が1995年に登場していますので、29年が経過しようとしています、北陸新幹線「金沢」開業で特急「しらさぎ」に転用されました。現在は敦賀・名古屋間を運行しています。こちらも、京都・金沢・富山方向に3両増結車両が連結されていました。関空特急「はるか」281系特急電車です、1994年9月に登場して30年が経過しようとしています。撮影時は基本編成のみの6両編成でした。撮影地 JR東海道本(京都)線 山崎駅付近 大阪府Canon New F-1NFD 300mm F4 Lフィルカメラにて撮影FUJI RDP 2(リバーサル)フィルム使用撮影日 1997/09いつもご来館ありがとうございます。また、「いいね」頂きましてうれしいです。ブログ開館時間は猫のように気まぐれです、思い立った時にご来館ください。旅に出るならどこへ行きたい?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようにほんブログ村

    JR西日本で働く車両
  3. 京阪グループのプレスリリースです。(2024(令和6)年4月26日)https://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/240426_keihan.pdf京阪ホールディングス株式会社(本社:大阪市中央区、社長:石丸 昌宏)、京阪電気鉄道株式会社(本社:大 阪市中央区、社長:平川 良浩)、京阪バス株式会社(本社:京都市南区、社長:三浦 達也)、株式会社京阪 流通システムズ(本社:大阪市中央区、社長:松下 靖)は、枚方市と連携して樟葉駅前広場(市道 楠葉中央線) の環境整備工事を進め、天然芝生や屋根付きベンチなどを設置し、魅力ある都市環境の形成、公共交通の利用環 境の改善を推進してまいりました。今般、その目玉として整備した天然の芝生広場(命名権により「ハピネスパーク KUZUHAグラススクエア」が愛称)の養生が終わり、(2024年)5月11日(土)から一般開放されることとなりました。また、隣接す るKUZUHA MALLでは、2023年度より順次館内リニューアルを進めており、先月2024年3月にグランドオープンを 迎えました。そのグランドオープンのタイミングで駅前広場に面した本館ハナノモール1階の壁面にグリーンウォールを形成、 さらに屋外に面したオープンモール型のレストランが集まるダイニングストリートでは、「緑あふれる気持ちの良い空間」をコン セプトに植栽やテラス席の再整備を行い、商業施設と公共空間が一体となり滞在しやすい駅前空間を創出いたしました。健康のために意識してることは?食事に気をつけることです。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう

    京阪電車樟葉駅前に天然芝生の広場が誕生
  4.  いよいよ6月1日より静岡地区においても315系の運行が始まります。一足先に運転開始になった中央西線は既に315系の天下のようにも。そんな新鋭315系ですが、今回は車内のアイテムからです。 ようやくと申しましょうか?車内案内板も各種案内が豊富になったようで、またバリアフリーのスペースも拡充で、どなたにも優しい解りやすい仕様になったのは大いに歓迎ですね。そんな様子をお馴染みの「ふたまたせん」さんからです。 「ふたまたせん」さんから いよいよ、JR東海が静岡地区へも来月6月から、新鋭車両315系が配置されることが、アナウンスされ、すでに中央西線は名古屋~中津川等ではこの315系一色となっています。 真新しいだけあって、乗り心地だけでなく、乗降ドア上にある車内案内表示も非常に親切な表示がされています。これは313系とは比べ物にならないくらい丁寧な分かりやすい表示になっています。 通常の案内表示内容にだけでなく、停車駅が近づくと今乗っている車両が何号車であるかの表示に加え、その停車位置がホームの乗降階段の位置関係まで表示され、降車後ホームをどちらに歩けばいいのかが分かるような表示もあり、多くの情報を分かりやすく、工夫された案内表示があります。  ※撮影は全て「ふたまたせん」さんです。

    JR東海:315系電車の車内案内表示
  5. 今日はKATOのDD51です。オリジナルナンバーのプレートを作成、金属インレタを使った大変な作業なんですが質感はイイ感じに思います😁。36年前に北海道で撮影できた車番を再現しました。いつもご訪問頂きありがとうございます。以下本編です↓。整備途中の姿です。既存車DD51 1167と最近買ったDD51 1164(7008-Hに仮ナンバー取付)でしたが、前者は空知車のつもりが鷲別ナンバーだった😅、後者は前回書いたようにDD51 1027とスリカエをやることになったので..両者とも改番のオリジナル機番;DD51 1148とDD51 1099となりました。結局どちらも古い7008-1となり、前面窓上下寸法が足りない”切れ長目”になったんですが、ナンバープレートの質感はグッと向上していると思います😁。KATO製品付属の余りナンバープレート表記を削って平にし、白色塗装をした上にトレジャータウンの金属インレタを使って作っています。これが大変な作業😅、私の経験上インレタのように”転写”は上手く行かず、1文字(数字)づつシートから剥がして白いプレートの上に載せ、位置合わせになります。無茶苦茶疲れるし根気が続かないので1日1機(4枚作製)までにしています😁。なかなか完璧とは行きませんが😅、クリアスプレーをかけて仕上げます。位置合わせをしても大変ズレ易いのでクリアは必須と思います。EF65 532などにも金属インレタを使っているんですが、DD51に使ったのは初だと思います。EF65当時より仕上がりが良くなっているかも..😁。苦労はしますし完璧に文字数字を並べるのは大変難しいんですが金属インレタの質感はイイ感じ😁、デーデー実車のクロムメッキ切抜文字の感じを再現できると思います。タブレットキャッチャーは各車黒く見えたので塗ってみましたが、塗分けが難しくちょっとビミョーかも😅。DD51 1099は以下記事にUpした芦別の石炭列車を撮影できた機番でした。『17両目のDD51~先ずDCC化とカプラー交換加工 [鉄道模型]』KATOのDD51後期耐寒形JR仕様を1両増備しました😄。17両目のデーデー、早速DCC化とMicro Trainsカプラー化をやってひとまずMyレイアウトを…ameblo.jpこの金属インレタは2代目です😅。左が現在使っている新しいもの、右は最初に買ったものでインレタと言いつつ転写が出来ないな~ とかあれこれやっているうちに裏の糊面にベタベタ触ってしまい接着が効かなくなってしまったものです。ただでさえ接着性は良くないので極力裏に触れないよう文字数字を剥がして使っています。初代は沢山文字数字が余っているんですが..ちょっと使えないかな~😅。同じ感じでDD51 1148 空 も作っています。側面のプロテクターパーツが足らず、現状付けられないのはやむを得ないでしょう😅。この機番は日立製、製品には三菱の銘板が印刷されていたんですが消えかかってもいたので..BONA FIDE PRODUCTの日立銘板を貼付けました。朱色4号を全面スプレー塗装してからペーパーで表面を擦って文字を磨き出すのは前回と同じ手法です。こちらも自分で撮影できた機番、南稚内で利尻~折返しの宗谷(写真)を牽引して来ました。もっと雄大な景色を と思って歩いたもののいい場所が無くこんなアングルになりました😅。右ヘッドライト上にスピーカーが付いているんですが、パーツ製品が見当たらずです。1988/8 宗谷本線 南稚内-抜海 302レDD51 1099 鷲はセキ6000の石炭貨物列車を牽引DD51 1148 空は寝台車の座席利用が混ざった14系急行利尻/宗谷編成を牽引です。どうせ自作ナンバープレートを作るんだから撮影した車番に..でした😁。↑実車写真に見られたSGホースも再現しています。すれ違いはあまり似合わないんですが😅、36年前に実際撮影できた列車を再現、模型で楽しめると思います。DD51は他にも沢山居ますが金属インレタの質感が良いので、コツコツと金属インレタ車番化して行こうかな~ とも思います。最後までご覧いただきありがとうございました。   (Blog村)

    自作ナンバープレートでDD51 1099と1148 [鉄道模型]
  6. こんばんは!世間様ではゴールデンウィークでお休みの方も多いかと思いますが、私は本日から2日までお仕事ですorzあと2日間、頑張れば4連休!(といっても、あっという間に終わってしまいそうですがw)そんなお仕事な一日でしたが、通勤途中に大好きな「バキュームカー」(詳しくはコチラ)を見かけ、勝手に「今日は一日、いいことあるぞっ!」と妙な思い込みのもと、一日を乗り切りました。いいこと その①昼休憩中にスマホを弄っていると「X」(Twitter)にトレインボックスからの「ポスト」(ツィート)があり、内容は早くも夏の限定Nゲージの告知でした。まだ車種などは明かされていませんが、2枚目の通り、シルエットのみ一緒に掲載されていました。この時点で分かるのは2両編成くらいでしょうか・・・でもよく見ると西日本更新のキハ47っぽい感じがします。(単にキハ40系が好きなので、何を見てもそう見えるのかもしれませんが・・w)でも左の車両はなんとなく屋根上のエアコン(WAU202)と水タンク、右の車両はエアコンのみの様に見えますwしかしTOMIXとトレインボックスであらかたJR西日本の更新車仕様のキハ47系は出ているので、残っているとすれば「福知山色」、「旧高岡色」くらいしか思いつきません・・・どちらもマイクロエースで持っているのですが、出たら買ってしまいそうですw(詳しくはコチラ、コチラ)それか最近は欲しいと思うのが「焼きたらこ色」(日焼けして薄くなった首都圏色)です。時々、ヤフオクで自作品が出ていますが、製品として出しても人気が出ると思っています。(鉄道会社の許諾が取りにくそうですがw)続報が待たれます。いいこと その②大阪限定の健康アプリ「アスマイル」で久しぶりに週間チャレンジに当選しましたw概ね100円相当の賞品ですが、当選が遅かったので、欲しかったPayPay100円分は品切れになっており、Pontaポイント100P分と交換しておきました。週間以外に月間もあり、月間は3000円相当ですが、かなり以前に一度だけ当選し、以降は全く当たっていません。アスマイルの利用者も増えているので、今後もなかなか当選は難しいかもです。いいことなのか?仕事から帰ると普通郵便でヤフオクの落札品が届いていました!中身はカーコレのバキュームカーです。こちらは2009年に発売された基本セットEに入っていたいすゞエルフのバキュームカーで、ヤフオクにてバラで出品されていました。終わる数日前から入札されており、競るかもしれないと思っていたのですが、終了5分前に入札すると+10円で最高値になり、そのまま落札しました。落札相場も送料別で800円前後と推移していますが、今回は送料込みで461円とお安く入手できました。カーコレのバキュームカーは以前から2008年発売のブラインドパッケージ版(詳しくはコチラ)をヤフオクや亜鉄社(詳しくはコチラ)で入手していました。2枚目の白キャブと緑タンクのツートンがブラインドパッケージ版で、2種ありますが、いずれもいすゞのエルフです。ただタンク部分がホースの巻取り装置があるのとタンク部分に直巻きの2種類となっています。個人的には巻き取り装置付きがいかにもバキュームカーといったシルエットで好きなのですが、最近は巻き取り装置が無かったころのタンクに直巻き版も良さを感じるようになっています。なので今回の様に入手しにくい過去のカーコレのバラ売り品を無事に入手でき、2枚目の様にカーコレのバキュームカーコレクションが増えたことに喜びを感じましたwこれ以外に津川洋行のホワイトメタル製のバキュームカー(詳しくはコチラ)やグリーンマックスの組み立てキット(詳しくはコチラ)もあり、Nサイズのバキュームカーも静かながらに増えていますwカーコレも高くなっていますが、いすゞエルフ以外に三菱キャンターやトヨタダイナあたりで出してくれたら、どんだけ高くても買うのですが・・・wということで他愛もないことを色々とブロぎましたが、明日も仕事なのでぼちぼち寝るとしますwでわでわ凄い値段が付いています・・・バキュームカー・・スゲーw津川洋行 Nスケール NC-66 バキュームカー (ブルー)Amazon(アマゾン)GREEN MAX 門と塀、ふそう集じん車 & バキュームカーAmazon(アマゾン)未組立 GM グリーンマックス ふそう集じん車 バキュームカー 2台Amazon(アマゾン)未組立 GM グリーンマックス ふそう集じん車 バキュームカー 2台Amazon(アマゾン)TOMYTEC トミーテック ザ カーコレクション Vol.5 いすゞエルフ バキュームカー カーコレAmazon(アマゾン)【1C】 トミーテック 1/150 ザ・カーコレクション Vol.5 いすゞ エルフ バキュームカー2+清掃車 単品Amazon(アマゾン)【1B】 トミーテック 1/150 ザ・カーコレクション Vol.5 いすゞ エルフ バキュームカー1+清掃車 単品Amazon(アマゾン)【1A】 トミーテック 1/150 ザ・カーコレクション Vol.5 いすゞ エルフ バキュームカー1+バキュームカー2 単品Amazon(アマゾン)

    バキュームカーを見るとイイことがあるかな!?
  7. ゴールデンウイークの初日・4月27日(土)に、日帰りで長野県まで乗り鉄に行った話。前回は「ろくもん」に乗って、戸倉駅で降りたところまででした。その後は、「ハイレール1375」に乗ってきました。【1】戸倉から小諸まで切符で戸倉から小諸まで「しなの鉄道」の普通列車です。ところが、連休中で乗客が多く、座れませんでした。大勢が降りた上田まで、立っていました。実は、しなの鉄道の乗車券を買うことは、あまりありません。よく利用するのは、次の2つです。★フリーきっぷ★「ろくもん」の食事付きプランを利用すると、その日だけ乗り放題になる切符です。★週末パス★「しなの鉄道」が乗り放題になるのが「週末パス」です。「大人の休日倶楽部パス」では乗れないのが残念です。これは8880円ですから、しなの鉄道で2000円分くらい乗ると、かなり割安感が出ます。ゴールデンウイーク中は使えないため、単純に切符を買って乗ることにしました。【2】小諸で「小諸のまど」小諸駅には、飲食できる店が3カ所あります。●駅そば「清野商店」今回は、戸倉で「スペシャルかかし」を食べたのでパスしました。(2022年3月撮影↓)●E'cuve こもろ(エキューブ コモロ)昨年、小諸駅にできたワインのお店です。利用しようかなと思っていたのですが、何せ連休中です。グループ客で盛況中でした。店員さんもワインも素敵ですので、また行きます。『小諸駅でワインを飲む~小諸の飲食店3軒目』しなの鉄道の小諸駅の駅舎に、3軒目となる飲食店が開業しました。E'cuve こもろ(エキューブ コモロ)です。先日、この店でワインを飲んできました。【1】改…ameblo.jp●小諸のまどというわけで、定番の「小諸のまど」利用です。充電もできて快適です。【3】ハイレールに乗車小諸から小淵沢に向かう観光列車「ハイレール1375」に乗りました。小諸駅に列車が滑り込んできました。車両整備のためか2か月ほど運休していて、久々の運転再開です。それで「おかえりなさい」と書かれたものを振りました。すると、いつもの凄腕アテンダントさんが手を振り返してくれました。「また来ましたよ(^^♪」と言える人がいるのは大きいです。いつのまにか20本目の乗車です。運よく、シングルシートが確保できました。テーブルも足元も広く、快適な座席が、2週間前に確保できたのです。車両と座席をまとめた記事はこちら↓『ハイレール1375に乗ってきた【車両編】』【1】ハイレール1375とはJRで最も高い地点を走るのが、小海線だ。長野県と山梨県をまたがるこの小海線に、JR東日本は7月1日から新しい観光列車を走らせた。こ…ameblo.jp【4】車内販売でアイスシンカンセンスゴイカタイアイスを買いました。「京都宇治抹茶」はなくて、バニラでしたけど。もう1品、ワインも買いました。アイスと一緒に食べたせいか、美味く感じませんでした。【5】ハイレール2号に紅茶が!?小淵沢発のハイレール「1号」と「星空」では、ホットコーヒーが販売されています。でも、小諸発のハイレール「2号」では、ホットコーヒーの販売はありません。コーヒーを淹れる場所の関係で、風味が落ちるからのようです。ところが、終点・小淵沢が近くなったころ、私の近くの常連さん御一行の中に、温かい飲み物を注文した人がいました。何だ?と思って確認したら、紅茶の販売があったのです↓。ハイレール2号と星空では、紅茶300円の販売があると表示が。見落としていました。次の21回目の乗車の際に、利用しましょうかね。ちなみに、ハイレールの男性アテンダントの制服は、首都圏の普通列車グリーン車のアテンダントと同じでした。普段から見ている制服を、小海線で見るのは、何か違和感があります。【6】野辺山駅ハイレール2号は、野辺山駅で停車して、多くの人はホームに降りていきます。私も必ず降りて、けっこうきれいな駅前のトイレを利用します。駅前の観光案内所にある立ち食いソバ、14時までで営業していません。最も高いところにある駅そば店と言えるのかな。乗りなれた人の中には、営業している店にパッと出かけて、ソフトクリームを買う人も。土曜の午後ですが、静かな駅前です。【7】JR鉄道最高地点JRの駅で標高が最も高いのは野辺山駅です。線路の最高地点は、野辺山駅から少し清里方面に進んだ踏切前になります。この標識が、ハイレールの車内にもあります。【8】あずさで帰宅小淵沢駅から帰宅します。3連休の初日に、都内に帰る人は少ないようで、帰りの「あずさ」は窓際指定席が余裕で取れました。普通列車で帰るという選択肢もありましたが、「あずさ」の特急料金はシーズン別ではありません。つまり「ひたち」「かいじ」「踊り子」と同様に繁忙期割り増しが無いので、ゴールデンウイーク中でも普段と同額なのです。そして、車内販売があるのが決め手になり、「あずさ」で帰りました。買ったのは、アップルかりんとう320円、ガーナチョコ320円です。【参考】■現在の観光列車乗車本数■101本・・伊予灘ものがたり49本・・富士山ビュー特急37本・・ろくもん21本・・四国まんなか千年ものがたり20本・・志国土佐時代の夜明けのものがたり20本・・ハイレール137518本・・ストーブ列車18本・・サフィール踊り子やはり全部「おひさしぶりっ、また乗りに来ました(^^♪」と言える人が乗務している列車ばかりです。観光列車は「ひと」が大きな魅力です。(ゆふいんの森は、30年前を含めると20本近く乗っていると思います)●ハイレール1375の今までの記事はこちら↓★★ハイレール1375|車内販売でございます。車内販売マニアさんのブログテーマ、「★★ハイレール1375」の記事一覧ページです。ameblo.jp乗車時の記念撮影を最後に↓

    たくさん共感されています

    20本目の乗車!ハイレール1375
  8. 富井電鉄2つの車両が完成
  9.  当ブログでは、これまでもご紹介しておりましたが、西鉄グループには西日本車体(西工)架装58MCB-I型中型ロング車(「中ロン車」)が福岡・北九州地区におきまして導入されておりまして、以来それぞれの地区各地において運行されておりました。 このタイプは、日産ディーゼルスペースランナーJPとして発売されておりまして、したがってこれら車の形式はU-JP211NTNと言う形式となっておりまして、スロープ付きのワンステップバスとなっておりました。 このタイプの導入は、平成6年・7年の2年にわたりまして導入されておりまして、平成6年に29台、平成7年に50台の計79台の導入が行われておりまして、福岡地区(西鉄バス)・北九州地区(西鉄バス北九州)におきまして運行されておりました。 しかし、経年によりまして徐々に台数も減ってまいりまして、平成29年の時点では後述の1台が孤軍奮闘で運行されておりましたが、その1台も廃車となった事で、結果このタイプは全廃へと至っております。 さて、今回ご紹介しますのは、過去に撮影しました西工58MC「中ロン車」の画像、そして最後の1台に関しまして皆様にご紹介してまいります。 まずご紹介しますのは、過去に収めました「中ロン車」の姿であります。まず画像は旧早見営業所(西鉄バス二日市宇美支社運行委託、現・宇美営業所)に所属しておりました車(5034・5035)でLED改造車でありますが、この営業所所属の車はその下の画像にあります車(5002)のように、最後まで幕式行先の車も福岡都市圏におきまして見られておりました。 (5034) (5035) (最後まで幕式として残った、5002) 一方、こちらの画像では平成26年に撮影しておりました、西鉄バス北九州旧浅野営業所での姿であります。 当時、福岡・北九州各地から30台もの車が旧浅野営業所に集められておりまして、大変圧巻な姿が見られておりました。これら車は、新日鉄住金八幡製鐵所(当時、現・日本製鉄九州製鉄所)の職員輸送用として使用されておりましたが、その後これら車は全てが廃車となっております。それにしても、この姿の中に一際目立った車もありましたが、両端の黒バンパーでもあります5043の姿も見られていた事もわかります。 (以下画像中央が5043) 尚、この旧浅野営業所は向かいに完成しました、サッカーJリーグ「ギラヴァンツ北九州」の本拠地でもあります「ミクニワールドスタジアム北九州」の広場、また西日本総合展示場の駐車場にも活用されておりまして、旧浅野営業所の面影はほとんど見られなくなっております。 こちらは、平成27年に撮影しておりました、西鉄バス北九州戸畑営業所付近を走行します弥生が丘営業所所属でありました5048でありまして、58MC「中ロン車」の最終導入グループの1台でもありました。北九州地区におきましても、翌平成28年頃までは「中ロン車」の姿を見る事ができておりましたが、福岡地区とは1年早く全廃へと至ってしまっております。 ここまで、過去に収めておりました「中ロン車」の姿をご紹介しましたが、ここからは最後まで残っておりました車であります、現在は移転に伴い竹下営業所となっておりまして、西鉄天神大牟田線桜並木駅の敷地内に存在しておりました雑餉隈営業所所属でありました以下画像の5021に関しましてご紹介してまいります。 この5021は、平成7年式で廃車となる時点では22年にもなる車でありました。この車の新製配置は旧千代営業所、その後千代営業所の廃止に伴いまして旧雑餉隈営業所に転属しまして、主に46番系統 雑餉隈営業所(現・桜並木駅)・井尻六ツ角~竹下~博多駅前~キャナルシティ博多前(国体道路)~天神~博多ふ頭を中心に使用されておりました。 上の画像及び以下画像は、平成28年8月渡辺通4丁目交差点で撮影したものでありましたが、これから国体道路から渡辺通りに入る所でありました。この時は、46番系統から変わりました90番系統での姿でありまして、上の表にもありますように井尻方面からやってまいりまして、90番系統に変わりまして博多ふ頭(ベイサイドプレイス)を目指している所でもありました。 それにしても、この姿を見ましても中型シャーシでもありますが、ロングの車体となっている所を見ましても定員を確保するためを思いますとふさわしい姿ではなかったでしょうか。まさに西工ならではな所が見られていると言ってもいいかとも思います。 こちらの画像は、平成28年の9月に博多駅前で撮影していたものでありましたが、20年以上経過していながらも、朝から晩まで運行される姿が見られておりました。この時も46番系統として天神経由で博多ふ頭へと向かっていた所でもありましたが、私自身この時まさかこの車のお出ましには正直驚いたほどでもあった事を覚えております。尚、博多ふ頭行きですので、先述のように途中で系統番号が変わりまして運行されておりました。  それにしても、このスタイルを見ましても、西工架装車ならではな姿かと言ってもいいかとも思います。何と言いましても、中型のシャーシにロングボディと言う形が良かったのではないかと思いますが、本当に20年以上走ってきた印象さえも感じさせる所ではあります。 こちらは、平成29年2月に福岡市天神で撮影しておりました5021であります。この画像が私自身にとりましてもまさに最後の5021の雄姿を収めた姿ではありましたが、まだまだ健在な姿が福岡市の中心部でも見られていた事がわかります。その3か月後、この5021は定期運用を離脱しましたが、しばらく大野城市の教習所(現・研修センター)で教習用として使用されておりましたが、その間に登録を抹消、そして廃車へと至っております。 今回は、西鉄バスグループの西工58MCB-I架装車の「中ロン車」の過去の姿に関しましてご紹介しましたが、この車に関しまして79台も導入されていた訳ではありましたが、既に過去の姿となっている事は残念でならない所でもあります。このような中型ロングタイプも、西鉄グループではその後の96MCでも少数ではありますが導入されるに至っておりますが、西鉄バスグループにおきましても58MC自体が全廃した現在でもありますので、このタイプの全廃もわからなくはないでしょうか。とにかく、過去帳になりましたこのタイプではありますが、この車の存在からも忘れてはならない所ではないかと思います。

    番外 現在は全廃に、西鉄グループにてかつて存在した西工58MCB-I架装車「中ロン車」の過去の姿
  10. こんにちは(*`・ω・)ゞ前回、四国中央市の佐々連鉱山から江之元港まで法皇山脈を越えて8kmを片道1時間で結んでいた架空索道を調べているうちに私も久々に法皇山脈を越えてみる事にしたーw『江之元の索道』こんにちは (`・ω・´)ゞ四国中央市寒川町の江之元港へやって来ました『桜と索道』こんにちは(*・∀・)ゞ咲き始めるのが例年より遅かった今年の桜も🌸…ameblo.jp2024-04-23 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・国道319号で法皇山脈の南側へと向かいますこの山向こうの銅山川に沿った地域を嶺南地域と呼び、旧伊予三島市では金砂町と富郷町がこの地域にあって銅山川は遥か彼方の紀伊水道へ注ぐ一級河川吉野川の支流であり延長55km、流域面積280㎢で下流の徳島県では伊予川とも呼ばれている石槌山系冠山(標高1732m)に発し富郷渓谷の深い浸蝕谷を作りながら東流馬立川、中の川、猿田川などを合わせ徳島県三好郡山城町の小歩危(こぼけ)の北で吉野川と合流する銅山川流域は四国山地の多雨地帯で降雨は梅雨期、台風期に集中し年平均降水量は2500mm銅山川の豊富な水の利用は藩政期以来の水の不足する宇摩地方への分水構想に始まり昭和11年愛媛県と徳島県との確執を経て、ようやく分水協定が締結現在では、銅山川の水は柳瀬ダム(昭和28年完成)新宮ダム(昭和51年完成)富郷ダム(平成12年完成)により宇摩地方に灌漑用水、水道用水、工業用水としてまた発電に利用され川之江、伊予三島地域は製紙工業を中心とした用水型産業を基幹として発達しました江之元索道は1972(昭和47)年に廃止白滝鉱山索道は1966(昭和41)年頃に葛川-三島間が廃止1960(昭和35)年に法皇隧道が開通した当時この国道319号は未だ市道で曲がりくねった山道の隘路でした具定展望台と谷を挟んだカーブここから四国電力のトラックが谷に転落する重大事故があって国道改修前には木の墓標に重大事故発生地点として事故の経緯が書いてあったように思うけどもう50年以上前の記憶で現在は石の慰霊碑と地蔵に変わっており当時を偲ぶ記述は全く見当たらなかった江之元の索道は具定展望台西側431mピークの山の頂上の僅かに西側を越えて法皇山脈の稜線に向かってた ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・具定展望台に寄り道平成22年8月、日本夜景遺産に認定小学校5年の時、犬の散歩が思わぬ遠出、となって3人と1匹が、この展望台を通って、法皇トンネルを潜り、平野橋まで歩いたよー当時法皇トンネルは有料(自動車)でトンネル内のトラックの音に驚いて愛犬が騒いだ為出口で料金所のおばちゃんに「中でさいがんりょったら危なかろがね」って怒られたー帰りはこの辺りで薄暗くなってしまいとても心細くて焦ったけどあっという間に標高349mから麓まで駆け降りた記憶が残ってる具定展望台からの眺め愛媛と香川の県境に位置する標高507mの大谷山本来は「おおたにやま」ですが、最近「おおたにさん」と呼ばれとるがねwそーいや、大谷山(オータニサン)登るつもりで、なかなか実行できてない切山休憩所⇒生木地蔵⇒土釜神社⇒下谷八幡宮上ノ宮⇒金見山⇒切山越え⇒唐谷山⇒唐谷峠⇒大谷山『特定健診、受診後に図書館へ』12月も中旬になりました週末の金曜日から10月の様な暖かさになってる12月10日は予約しておいた特定健診の日特定健診の検査項目は①医師の診察②身体計測…ameblo.jp2023-12-13 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・法皇隧道自動車でこのトンネルを走り辛いのは鉄道みたいな坑門してるから?って聞いたことあるけど・・・領徳碑をみると1957年(昭和32)年12月23日- 鉄道工業株式会社が落札(途中、湧水により工事が難航、井原建設工業がこれを引き継ぐ)ってなってるけど・・・真偽のほどはウーントンネルを抜けるとすぐ左に水ヶ滝長野集会所手前に金砂湖遊歩道の標識があって左へ180度ターン等高線に沿って車道を進んでいくと立派なコンクリートの坑門が現れた前に数台停めるスペースがあるのでここにパジェロをデポ平成16年4月1日に2市1町1村が合併し今年、四国中央市発足20周年を迎えるというのに伊予三島市表記の案内板がいまだに建ってると思わずこの先大丈夫なのーって思っちゃうwまさか車で突っ込む方は居ないと思うけど軽四輪以上は無理なら三輪車で突撃やね~素掘りで高さ2mほどの小さなトンネル照明は無く、真っ暗で正面出口の明かり目指して進むのみでも、別子銅山の旧端出場水力発電所の導水路に比べれば快適、快適ww↓↓『一年振りの別子銅山』こんにちは(`・ω・´)ゞ5月8日の日曜日 世に云ふGWも今日が最終日なのかな?赤石山系のアケボノツツジ 今年はどうなんだろう?昨年4月25日に東平か…ameblo.jp2022-05-26 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・金砂湖側の出口はコンクリートで巻いてないけどこっちの方が雰囲気あるートンネルを出た所は断崖絶壁路面はコンクリート舗装されてます進路の反対側は地蔵嶽地蔵の形をした岩肌何かと思ってたら崖にお地蔵さまが鎮座してるのねー金砂湖の左岸を下流に向かって進みます竹藪と石積み(炭竃跡)金砂湖が生まれるまでは、銅山川の北岸沿いに平野部落から長野を経て、また南岸の押渕部落から丸太橋を渡って長野の地蔵崖の麓の岩間の道を東に向かって進むとそこに小頃須と呼ぶ部落二十九戸があり川沿いの平坦地で、ここには日本鉱業の三島索道の中間駅がありこの地も木炭を生産し、三椏、楮、米、麦、粟、蕎等を栽培し、また六頭の駄馬を飼い馬に依る運搬業を営む人があり、この地の生活は豊かな方であったが、ここも金砂湖の湖底に沈み全戸他地方に転居し部落の存在したことも物語となり地図の上から姿を消した。資料「伊予三島 嶺南」よりしばらく進むと竹藪の間から索道の支柱の土台跡が見えます位置的に小頃須(おごろす)駅かと思われますこちら側(左岸)から見るのはもちろん初めてですが満水になるともう一段上まで湖面が来るーこの白滝鉱山の索道は1916(大正5)年に造られたけどダムが出来る前から同じルートならギリギリ水没しない高さはたまたまだったのでしょうかね?この辺の遊歩道は満水時の湖面ギリギリの高さで付けられてるけどダムで水没を免れた高台の集落の為に付け直されたもんやろねその後、無住になり遊歩道になったのかな?崩落に倒木あまり利用する人が居ないのか遊歩道は荒れ気味ネットで調べた時にはこの橋も壊れてたけどここは補修されてる地形図には住居が2軒載ってるけど廃屋の痕跡も無くなってる少し高度を上げて断崖絶壁の岩肌を穿って道が続いてる~白滝鉱山の高架索道は対岸から半島の様に突き出たこの標高357mのピークを越えてたはず湖面標高が285mなのでこの半島越えるには72m以上の高さが必要・・・なんて考えていたけど索道(ロープウェイ)やけんこのピークに支柱を建てれば別に水平じゃなくてもえーやんコンクリートの橋を2つ渡ります肩掛噴霧器や陶器製の土管石積みなどが現れた横藪の集落跡かと思われます植林が途切れて広葉樹の集落跡でいい感じ対岸には赤い屋根の建物が見えてる元金砂村役場で現在岩鍋山荘になってる建物かな~金砂村の中心だった横藪集落にあった役場、郵便局、駐在所が水没する為に岩鍋集落に移転したようです横藪はダム建設により水没を免れたり非水没地に移動した家が4軒あったが、昭和37~38年頃には無住となったそうな岩鍋には白滝鉱山高架索道の起動所があってここから三島の金子まで法皇山脈を越えて続いていたようです起動所の場所は空中写真から判別すると湖岸に近い場所だったようです三界万霊の地蔵様と4つしかないけど六地蔵でしょうか金砂湖内の支柱跡と岩鍋起動所跡を一直線に結ぶとちょうど357mのピークを通りますが飽くまで私の推論で証明する資料が見つかった訳ではありませんここまでの途中に家なんか無かったのにこの電柱どこに続いとんやろか湖面が満水になると遊歩道の右の樹木は水没するようですね集落跡の守り神?コロボックルみたいー植林のなかに墓石が残ってたデータベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システムwww.i-manabi.jp金砂湖の出現によって立退した戸数は145、立退き者は801人、水没した土地は、田4.5ha、畑44.3ha、山林65.4ha、宅地5.9ha、墓地0.4haであった。ダムによる立退き者801人は、当時の金砂村の人口の25%程度であるが、佐々連鉱山地区を除くと在来の集落の約半数が水没することであり、それは村の存亡にかかわる大事件であったといえる。水没集落は、上流から見ると、富郷村の下長瀬、金砂村の灰原瀬・水丁・平野・押淵・小頃須・安井・川口・上小川・岩鍋・横脈・折坂・信生・柳瀬であった。またダムサイトに近い脇の谷もダム建設の影響で多くの住民が立ち退いた。 ゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・林業の作業小屋でしょうか竹で囲っている小屋は椎茸栽培かな朱色の翠波橋が見えてきたー翠波橋レトロ~現役の木製電柱が一本残ってる折坂支3号昭和39年2月1974-1978年の空中写真1970年代、横藪は既に無住になってるが対岸の岩鍋は集落が残っている1916(大正5)年、高知県土佐郡大川村の白滝鉱山から三島(現四国中央市)まで架空索道を設け途中、城師山と小川山岩鍋に起動所を設け野地峰と翠波峰を越して三島(金子)に通じてた(全長21km)柳瀬ダムが完成し、1960年に法皇隧道が抜けるとトラック輸送に切り替え1966(昭和41)年葛川 - 三島間が廃止されましたこの先、翠波橋を過ぎて折坂集落から標高を上げながら2つ先の谷まで道が表示されてる途切れるまで辿ろうかなと思います最後までご覧いただきましてありがとうございましたでは、また次回に続く『水没した集落と現在の金砂湖』こんにちは(`・ω・´)ゞ四国中央市では遅かった今年桜もようやく終わろうかという4月14日かつてシコチュウ市にあった2本の索道の痕跡にも想いを巡らし…ameblo.jp2024-05-17関連記事1. 桜と索道 へ2. 江之元の索道 へ3. このページの最初に戻る4. 水没した集落と現在の金砂湖 へ

    たくさん共感されています

    法皇山脈を越えて金砂湖へ
  11. 【主な乗り物:京浜急行リムジンバス「空91系統」羽田空港-横浜線、東京空港交通バス羽田空港-中野・練馬線、東急バス「反01系統」、横浜市営バス「7系統」、東京空港交通バス羽田-新宿線、リムジンバス羽田空港-吉祥寺線】横浜の煌びやかな夜景を目にすると、自宅へまっすぐ帰るのが疎ましくなった。当時の僕は杉並区に住んでいて、令和元年6月の週末に桜木町で所用が生じ、仕事後の交流会でいささか酩酊していたのも一因かもしれない。小雨がぱらつく蒸し暑い夜で、時計の針は午後9時になろうとしている。横浜から杉並に戻るには、JR東海道本線や京浜東北線で東京駅に出て中央線の快速か各駅停車に乗り換えるか、もしくは湘南新宿ラインで新宿駅に出るといった経路が主流であろう。現に、往路は中央線と湘南新宿ラインを使っている。その他にも、東急東横線で渋谷駅に出て京王井の頭線に乗り換えたり、東横線が乗り入れている地下鉄副都心線から地下鉄丸ノ内線に乗り換えるといった方法もあり、選択肢は豊富である。ところが、僕は、バスに乗りたくなったのだ。首都圏をバスで移動するならば、一般道を走る路線バスか、空港リムジンバスしかない。昭和60年に上京したばかりの頃、品川区大井町に住んでいた僕は、路線バスで東京を出て神奈川県に足を踏み入れる行為に嵌まったことがあった。もともとバスに乗るのは好きだったので、大井町から渋谷、品川、大森、蒲田に出掛ける際も、電車の何倍もの時間を費やして路線バスを使ったものだったが、大井町の近くにある東急バス荏原営業所に、「川崎駅」と行先表示を掲げるバスが出入りしているのを目にして、バスで県境を越えられるのか、と驚いたことが始まりだった。僕の故郷の長野県には、当時、県境を越えるバス路線が存在しなかったので、県を跨ぐならば鉄道しかない、と思い込んでいたのである。荏原町営業所で見掛けたのは、第二京浜国道を行き来して五反田駅と川崎駅を結ぶ「反01系統」である。このバスが走る第二京浜は、工業地帯を貫く第一京浜の乾いた車窓に比べれば、山の手らしく落ち着きがあるが、反面、退屈でもある。河川敷が広い多摩川を渡って川崎市に入ると、何やら大事業を成し遂げたかのような達成感が込み上げてきたことが、昨日のようにありありと思い浮かぶ。川崎駅前には古びた映画館が並んでいる区画があり、新宿や渋谷に出掛けるよりも手頃だったから、観たい映画があれば「反01系統」に飛び乗ったものだった。もっと先まで足を伸ばせないかと、「反01系統」が発着する川崎駅の東口から西口へ渡ってみると、横浜市営バスの「7系統」が、第一京浜国道を走って横浜駅東口まで通じていることを知った。横浜まで合計2時間近くを費やしたので、乗り継いだのは1度だけだったが、楽しい思い出である。後に高速バスファンになってから、東京から全ての道府県庁所在地にバスだけで行くという目標を定めることになるのだが、横浜は、僕のバス趣味のごく初期に到達した県庁所在地なのである。30年以上も前の記憶を懐かしく反芻しながら、桜木町駅から京浜東北線で横浜駅に向かい、東口のバスターミナルに歩を運んだ。横浜駅東口バスターミナルは、横浜シティエアターミナル(YCAT)と一体化したような構造で、一般路線バスや長距離高速バスの他に、羽田空港や成田空港へのリムジンバスが発着している。昭和53年の新東京国際空港(成田空港)の開港に伴い、横浜港に面した「ポートサイド地区」に建設されたYCATは、横浜駅から1kmほど離れており、京浜急行バスが、成田空港へのリムジンバスとともに横浜駅を結ぶシャトルバスの運行を始めている。シャトルバスに昭和61年に投入された車両は、関東初となる大型ノンステップバスだったという逸話もある。平成8年に、そごう横浜店と横浜駅東口バスターミナルが入る横浜新都市ビルと隣接する、現在の横浜スカイビル1階に移転した。だが、平成13年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに、米国連邦航空局の通達によって北米線の搭乗手続きや出国手続きが空港以外では出来なくなり、他の航空路線のセキュリティ強化も相まって、横浜ばかりでなく、東京、大阪にも設置されていたシティエアターミナルは、その役目を終えた。YCATには、今でも外貨両替店が置かれているものの、リムジンバスに乗る前に搭乗手続きが可能だった日本航空や全日本空輸などの航空カウンターも平成23年3月に廃止され、旅行代理店も期を一にして営業を終了しているため、YCATは、リムジンバスのターミナル機能だけとなっている。僕は、横浜駅東口バスターミナル=YCATと思い込んでいた時期があり、リムジンバスも他の長距離高速バスと同じホームを発着するので、隣り同士とは言え、異なるビルとは思いも寄らなかった。長々とYCATについて述べたが、僕がここに初めて足を踏み入れたのは、羽田空港と横浜駅を結ぶ京浜急行バスの「空91系統」に乗った時である。相前後して、東急バス「反01系統」や横浜市営バス「7系統」に乗っているのだが、「7系統」が横浜駅東口バスターミナルに入ったのかどうかは忘却の彼方である。僕は、東京に出てきたばかりの昭和58年に高速バスファンになったが、その頃の高速バス路線は、現在と比較にならないほど少なく、気晴らしに乗れる高速バスに飢えていた。首都高速道路を使って羽田空港と横浜駅を結び、運行本数も多い「空91系統」は、貴重な存在だった。羽田空港を出入りするリムジンバスも、東京空港交通の成田空港、東京シティエアターミナル、新宿、池袋、赤坂方面と、京浜急行バスの「空91系統」だけという時代で、おそらく、僕が初めて利用した空港リムジンバスではなかったか。昭和57年の時刻表を紐解けば、巻末の会社線のページ、定期観光バスのページの後に航空路線の時刻表が続き、その末尾に各空港のアクセスの一覧が掲載されている。ぎゅっと細かい文字が詰まったページで、見るだけで目が痛くなりそうなのだが、「関東の各空港」の欄に掲載されている羽田空港アクセスは東京モノレールと「空91系統」だけで、残りは東京シティエアターミナル(TCAT)、東京駅、銀座、新宿、池袋、赤坂、YCATなどを発着する成田空港リムジンバスばかりであった。面白いのは、羽田と成田の首都圏二大空港を結ぶリムジンバスで、今は独立した路線になっているものの、当時はYCATと成田空港を結ぶバスが羽田空港に立ち寄っていたようである。昭和62年の時刻表では、羽田空港と新宿駅を結ぶリムジンバスの欄が加わり、昭和63年に羽田空港と成田空港に欄が分けられて、羽田空港を発着するリムジンバスは新宿、赤坂、成田空港、川崎駅、横浜駅の5路線となった。羽田空港と赤坂を結ぶリムジンバスは、都心側でホテルばかりを発着するので、ホテルにも航空機にも縁のないバスファンとしては敷居が高く、未だに乗車を果たしていない。同じ頃に、羽田空港から池袋方面のリムジンバスが掲載されていて、乗りたくなった記憶があるのだが、もっと後年だったのかもしれない。羽田空港に、これしかリムジンバスが走っていなかったのか、それとも他方面の路線も存在しながら掲載されなかったのかは定かでないが、おそらく前者なのであろう。首都圏各地に数十路線が展開している現在から振り返れば、30年前は、まるで地方空港のように侘しい羽田空港リムジンバスの路線数であった。僕が、日本航空の東京-大阪線で、初めて空の旅を体験したのは、この頃である。伊丹の大阪国際空港に降り立ち、梅田、新大阪、難波、阿部野橋といった大阪の中心街をはじめ、堺、京都、神戸など各方面にリムジンバスが走っているのを目にして、無性に羨ましくなり、路線が少ない羽田空港が恨めしかったのを覚えている。伊丹空港のリムジンバスに乗りたくて、関西に行く時は、財布の底をはたいてでも航空機を選んだ。乗り慣れた首都高速と異なり、阪神高速道路は何処を走っても新鮮だったし、それだけで大阪見物をした気分に浸れたものだった。中でも、京都行きは名神高速道路を走るので、存分に高速バス旅を堪能できた。おそらく新幹線を利用した方が安く便利だったはずで、さすがに馬鹿らしくなってやめてしまったが、一時期、京都を目指すのにも航空機を使ったのは、リムジンバスが原因である。羽田-伊丹間の航空機から京都行きリムジンバスに乗り継ぐ利用者は、おそらく僕くらいではなかったか。一方で、伊丹空港と新大阪駅を結ぶリムジンバスだけは、案に相違して一般道を走るだけだったので、何となく損をした気分にさせられたから、僕も頭の固いバスファンだったのだな、と思う。大井町に住んでいた僕にとって、「空91系統」は、最も手軽に乗れる高速バスだった。当時、航空機は高嶺の花で、滅多に乗れる代物ではなかったが、用もないのに羽田空港に足を運び、展望デッキから航空機を眺めるのが好きだった。「空91系統」に乗るのも、わざわざ羽田空港に出掛けていく動機の1つだった。現在に至る高速バスブームの黎明期の話だから、程なくして、雨後の筍のように高速バス路線が増えると、僕は「空91系統」に見向きもしなくなった。令和元年6月の夜、さすがに横浜市営バス「7系統」や東急バス「反01系統」に乗る気力はなかった。横浜駅東口バスターミナルと言うべきか、YCATと呼ぶべきか、とにかく乗車ホームで僕が待ったのは、羽田空港行きリムジンバス「空91系統」である。この路線に乗るのは何年ぶりだろうか。昭和60年前後の「空91系統」は、近距離・短時間路線だけあって、東京空港交通のリムジンバスに比べると小柄な車体で、扉が1つだけという点を除けば、街路を走っている路線バスと大して変わらない外見だった。この日、乗り場に横付けされたバスは、「KEIKYU LIMOUSINE」と横っ腹に大書されていなければ、そのまま長距離高速バスに使ってもおかしくないような大型のハイデッカーである。午後9時を過ぎた頃合いに空港へ向かう客がいるのか、と危ぶんでいたが、案の定、僕が乗車した21時12分発の便の客は、僕1人だった。羽田空港には深夜に離陸する航空便もあるので、YCAT発リムジンバスの最終便は21時57分発まであるが、羽田行きは、空港発の便のための回送のような役割なのかもしれない。当然、最前列の座席の座席もあいていたが、僕は遠慮して、前から3列目の右側席に腰を下ろした。30年前の若かりし頃ならば、僕は迷わず最前列席を占めて展望を楽しんだことであろうし、たった1人の乗客となって運転手と会話が尽きなかった経験もあるのだが、この日は運転手と顔を突き合わせるのが何となく億劫だった。運転手にしても、酔客が最前列に陣取るのは迷惑であろうし、趣味よりも遠慮が上回るとは、それだけ僕が歳を取った証なのだろう。バスは、横浜駅東口とスカイビル、新都市ビルを囲む帷子川に面した道路を回り、横浜駅東口ランプから首都高速横羽線下り線に駆け上がった。左手のビル越しにランドマークタワー見上げながらみなとみらいランプを過ぎると、首都高速は東横浜トンネルで地下に潜り込み、大岡川をくぐって桜木町、関内の繁華街を抜けていく。首都高速狩場線と交差する石川町JCTの先までは、路肩が殆んどないような狭い幅員と連続する急曲線にも関わらず、車の流れは異常に速く、自分でハンドルを握っていても嫌な区間であるが、プロの運転手がハンドルを握っているのだから、バスの走りは至って滑らかで、安心して任せられる。地表に飛び出した首都高速狩場線は、ぐいぐいと高度を上げて、視界を遮るビルや倉庫の合間からマリンタワーが見えると、山下埠頭の手前で東京湾に沿い、左前方にベイブリッジが煌びやかな姿を見せてくれる。本牧JCTで左に進路を変えたバスは、首都高速湾岸線に合流して、ベイブリッジを渡り始めた。横浜駅を出てからベイブリッジまでの、目まぐるしく変化に富んだ都市景観は、このリムジンバスの車窓の畢竟であろう。僕が頻繁に利用していた昭和60年代の「空91系統」がたどったのは、この道筋ではなかった。京浜急行バスの羽田空港-横浜線の運行開始は昭和43年で、当初は、東神奈川ランプから羽田ランプまで首都高速横羽線を使っていた。地図を見れば、首都高速横羽線は、横浜から川崎にかけての市街地と、湾岸の埋立地の境目を走っていて、トンネルのない高架道路であるものの、汐入、鶴見、浜川崎と進んでも、延々と続く防音壁の上や合間に覗くのは工場や倉庫ばかり、車内にいても鼻の穴が煤けるのではないかと心配になるほどである。これが日本を支える京浜工業地帯か、と学校で習った地理の知識を思い浮かべながら俯瞰するには、格好の路線である。沿道のかなりの割合を、JFEスチール東日本製鉄所が占めているのは、驚かされた。この地に日本鋼管が川崎製鉄所を建設したのは昭和21年で、昭和22年に鶴見製鉄所、昭和34年に水江製鉄所が操業を開始、昭和43年に3つの製鉄所を統合して京浜製鉄所となった。平成15年に日本鋼管と川崎製鉄が合併してJFEスチールと改名したのだが、首都高速横羽線の車窓から「JFE」の看板を目にして、我が国の製鉄業の変遷に思いをめぐらせながら、日本だってまだまだ物作りでは負けていないぞ、と嬉しくなるのも、「空91系統」の醍醐味である。木々の緑など全く目に入らないし、この上なく味気ない車窓であるのは間違いない。それでも好んで「空91系統」に乗りに出掛けたのだから、僕にとっての高速バスの魅力とは、車窓よりも、車中を楽しむことだったのかもしれない。変化と言えば、最後に高速大師橋で渡る多摩川河口で視界が開けるくらいで、間もなくバスは羽田ランプを駆け降りて、環状8号線で羽田空港の敷地に足を踏み入れていく。この間、およそ20分あまり、誠に呆気ないバス旅であったが、僕にとっては楽しいひとときであった。平成6年12月に首都高速湾岸線大黒JCTと空港中央ランプの間が開通し、「空91系統」は現在の湾岸線経由に変更された。かつての首都高速横羽線経由で横浜駅東口から羽田空港まで約21km、現在の湾岸線回りで28kmと、距離は伸びているので、最初は首を傾げたものだったが、所要時間は逆に短くなり、経路変更は定時性の向上が目的であると事業者も発表しているらしい。平成10年に京浜急行羽田線がターミナルビルまで延伸開業すると、平成14年から羽田空港駅と横浜方面の直通運転が開始されたが、空港での移動距離が地下にある鉄道駅より短く済むのと、必ず着席できることが支持されて、リムジンバスの利用者も多く、現在は1日130往復を超える我が国でも有数のリムジンバス路線となっている。先程まであそこにいたのだな、と思いながら、ランドマークタワーやみなとみらいの大観覧車の夜景を眺めた後は、車窓が一変して変化に乏しくなる。いきなり周囲の灯が少なくなって、まるで人里離れた田舎の道路を走っているようで、何だか心細くなる。首都高速湾岸線が貫くのは、大黒埠頭、扇島、東扇島、浮島と、巨大な人工島ばかりである。道幅も路肩も極めて広く、多少の上り下りはあるものの、一直線に敷かれている贅沢な道路で、横羽線より遥かに伸びやかな乗り心地なのだが、坦々として欠伸が出る。横浜と羽田空港を結ぶ道路は、間違いなく進歩しているのだが、進歩と単調さは比例するのかな、と思う。扇島には製鉄所や石油備蓄基地など重要施設が置かれているため、首都高速湾岸線で通過する以外は、一般人の立ち入りが禁止されているという。製鉄所は24時間操業とはいえ、人が住んでいないのだから、地方に増して灯が少ないのは当たり前である。ここにある製鉄所もJFEで、いったいどれほどの規模なのか、と思う。それでいて、JFEの生産高は我が国で日本製鉄に次ぐ第2位、世界では第12位に過ぎないというのだから恐れ入る。扇島第1高炉に火が入ったのは、日本鋼管時代の昭和51年だった。新旧を問わず、羽田と横浜の行き来に製鉄所は避けて通れない景観であり、昭和60年代から「空91系統」に繰り返し乗ってきた僕は、我が国を支えた京浜工業地帯の歩みを目の当たりにしてきたのだな、と思う。大黒埠頭から扇島へは鶴見つばさ橋、扇島と東扇島は極めて接近しているので橋と気づかないような高架道路で渡り、東扇島から浮島へは川崎航路トンネルへ潜り込んでいく。浮島と羽田空港を隔てる多摩川も地下トンネルになっているのは、航空機への影響がないようにする配慮だと聞いたことがある。多摩川トンネルを抜けた「空91系統」を迎えたのは、それまでと打って変わって光の洪水だった。空港中央ランプで高速走行を終えれば、バスは照明が散りばめられた広大な空港の敷地を回り、第2ターミナル、第1ターミナルの順で降車扱いをする。この日、僕が第2ターミナルでバスを乗り捨てたのは、もちろんANAに搭乗する訳ではない。どちらかと言えば、航空機を初体験した30年前からJALのファンなのだが、ライバル会社のターミナルで降りたのは、乗り継ぎを考慮してのことである。羽田空港を発着するリムジンバスは、周回する一方通行の連絡路の都合であろうか、空港着の便も空港発の便も、第2ターミナル→第1ターミナルの順で停車する。どちらから乗車しても、定員制であるから必ず席にありつけるのだが、混雑していると、第1ターミナルでは通路側の席しかあいていないこともある。航空機利用ではなく、バス旅が目的で羽田空港発のリムジンバスに乗る場合、僕は必ず第2ターミナルを使うようにしていた。3階の出発ロビーでバスを降りると、さすがに、この時間帯で客を降ろしているリムジンバスは少ない。急ぎ足で2階の到着ロビーに移動しながら、航空機を利用せず、この巨大空港をバスの乗り継ぎに使っているのは僕くらいだろうな、と苦笑いが込み上げてくる。到着ロビーのリムジンバスのカウンターで、僕は、たった今、飛行機で着いたばかりです、と言わんばかりの澄ました顔で、壁に掲げられている出発案内を眺めた。ずらりと並ぶリムジンバスの一覧を目にすれば、僅かな路線しかなかった30年前とは隔世の観がある。ここで、今日はどの路線で自宅に帰ろうか、と思案するのは、いつも楽しい。いい時代になったものだと思う。都心方面で圧倒的に本数が多いのは新宿駅西口行きで、中央線の電車に乗り換えれば帰宅できる。東京空港交通のHPの沿革に羽田空港-新宿線の開業年月日が記載されていないので、同線が、時刻表に掲載され始めた昭和60年前後に開業したのかは、判然としない。この路線も、「空91系統」と同様に思い出多き路線で、首都高速湾岸線が開通していなかった時代から、幾度か気晴らしに利用したことがある。空港西ランプから首都高速1号羽田線を昭和島、平和島、勝島と進み、浜崎橋JCTで首都高速都心環状線外回りに進路を変え、芝公園と東京タワーを右手に眺めながら、ビルの谷間を飯倉、三宅坂、霞が関トンネルをくぐって、三宅坂JCTで首都高速4号新宿線に逸れ、赤坂のホテル街、赤坂御所、新宿御苑を過ぎ、半径80mという参宮橋カーブを筆頭に連続するきつい曲線を巧みにすり抜けると、高層ビル街の新宿ランプに着地する、という経路は、東京見物にもってこいであった。当時の運賃が400円だった「空91系統」に比べれば、羽田空港-新宿線は1000円と懐に痛く、乗る機会はそれほど多くなかったけれども、沿道に緑地も多く、首都高速横羽線より潤いのある車窓に心が洗われた。杉並区を越えて、吉祥寺駅に向かうリムジンバスもあるが、こちらも乗車経験がある。数年前、新宿に住んでいた頃に吉祥寺で高校の同窓会があり、一次会で、山口の「獺祭」などの高級酒で気分が良くなり、二次会で1杯100円の安酒をしこたまあおったところまでは覚えているのだが、ふと目覚めると、ホテルの一室にいた。上着は脱ぎ捨ててあるものの、Yシャツにネクタイを締めたまま、ズボンも履いたままでベッドに倒れ込んだようである。後で友人に聞くと、「大丈夫、だけど今夜はホテルに泊まる」と言いながら、スマホで吉祥寺駅前のホテルを予約し、心配して同行してくれた友人の目の前で、きちんとチェックインもしたと言うのだが、全く覚えていない。カーテンを開けると、とっくに夜が明けていた。安酒はいかんな、と後悔しつつ、二日酔いでふらふらしながら吉祥寺駅まで歩くと、ガード下のバス停に、ちょうど小田急のリムジンバスが横づけされていた。ずらりと利用客の列が並び、車体の収納庫の前に大きなトランクが積み込みを待っているが、どちらも、続けて発車する成田空港行きのようであった。羽田空港行きの車内が適度にすいているのを見て取った僕は、あろうことか、ふらりと乗り込んだのである。どのような経路で羽田に向かうのか、興味津々であったが、バスは井の頭通りを延々と東に向かい、環八に右折して、高井戸ランプで首都高速4号新宿線に駆け上がった。眼下に広がる住宅街の屋根にきらきらと反射する陽の光が、酔眼に眩しかった。今回も、吉祥寺ほどではないにせよ、酔いに任せての気まぐれ旅なのだから、どの路線でも構わず、手っ取り早く杉並に戻るのに選択肢はそれほど多くないのだけれど、「空91系統」やリムジンバス羽田空港-新宿線を楽しんでいた頃と異なり、僕は未乗のバスを好むようになっている。これだけリムジンバスが発達しているのに、自宅の最寄駅に立ち寄る路線がないとはけしからん、などと憤慨しながらも、結局は、中野駅・練馬方面のリムジンバスの乗車券を購入した。中野駅ならば杉並区の手前だから、混雑する中央線の電車に乗るのは短区間で済む。ずらりと乗り場が連なっているターミナルビルから外に出れば、午後10時を過ぎていると言うのに、各地へ向かう帰宅客が右往左往し、様々な事業者のリムジンバスがひっきりなしに発車している。「練馬方面」と前面に掲げた東京空港交通バスに乗り込んだのは10人に満たなかったが、次の第1ターミナルで座席の半分程度が埋まった。10分前に新宿方面のバスが発車していったのを見送っているので、僕が乗る中野・練馬方面のバスも、同じ道筋を追いかけて行くことになるのだろう。空港中央ランプから首都高速湾岸線に乗り、夜の埋立地を走って大井JCTから首都高速中央環状線に歩を進め、山手トンネルに入り込んだ。モグラになったような気分で、曲がりくねった薄暗いトンネルを突き進み、中野長者橋ランプで地上の山手通りに飛び出すまで30分もかからない。かつてのリムジンバスは新宿まで1時間以上を要したのだから、便利になったものだ、と舌を巻いた。バスは更に北上して、中野坂上交差点で青梅街道に左折する。青梅街道はJR中央線の南側を並走しており、地下には地下鉄丸ノ内線が走っている主要街道で、JR線とは離れていても、丸ノ内線の駅の周辺には繁華街も多く、沿道の明かりはなかなか華やかである。車で何度も走ったことがあるけれど、こうしてバスの高い視点で眺めれば、見慣れた夜景も新鮮に感じる。新中野駅に近い杉山公園交差点を中野通りへ右折すれば、途端に狭隘な道路に変わり、路上駐車や右折車両に進路を妨げられることも多く、もどかしくなる。それでも、僕が降りる中野駅前まではおよそ1kmあまり、5分も掛からなかった。バスが停車したのは、中野駅のホームをくぐるガードを潜り抜けた先の、中野サンプラザの脇であった。時刻は午後11時半になろうかと言う頃合いで、羽田空港でかなりの待ち時間があったとは言え、横浜から2時間以上を費やしたことになるが、懐かしい路線と、未乗の新路線を組み合わせたささやかな行程と、夜景を堪能できたことに、僕は満足していた。バスを降りると生暖かい雨がまだ降り続いていて、酔った足には駅までちょっと遠いな、と恨めしくなったけれども、沿道には様々な飲食店が、ちょっと寄りませんか、と誘うように軒を並べている。交流会でしこたま腹に詰め込んでいるのだぞ、と自戒しながら、僕は鞄から折り畳み傘を取り出す手間も惜しんで、駅へと歩を速めた。にほんブログ村人気ブログランキングへ↑よろしければclickをお願いします<(_ 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    第65章 令和元年 懐かしい「空91系統」で夜景を堪能~バス趣味を満たしてくれたリムジンバス~
  12. ぶらり鉄旅 伯備線で やくも
  13. 5月16日
  14. 23日の引っ越しに向けて順調に荷造りを行っていました。場所が無い為、少しずつ荷物を移動しながら行っていました。13日の時点で箱大が30箱、小が50箱と、単身じゃない荷物量で泣いております。※グロ写真を含んでおりますので注意。それでもまだこの状態ですので、14日の午後に段ボールを追加して持ってきて貰っているのですが、じつはもう一つ問題がありました。「不眠症です」このところ色々と悩みを抱えており、4月中頃から3日間は起きているという状態だったため、心療内科で睡眠薬を詳報して貰ってました。●1日目薬を飲んで1時間後に眠くなる。●2日目3時間後に眠くなる。●3日目22時半に薬を飲んで翌5時に眠くなる。●4日目薬を飲んで、46時間後に眠くなる・・・。効いてませんorzそこで薬(レンドルミン)を倍にした上に追加で、もう一つ薬(サイレース)を処方して貰い、各2錠ずつ飲むことになりました。そして翌朝、目覚ましで目が覚めてトイレに行こうと立ち上がった瞬間、右に転倒しパソコンにぶつかる。血が出ましたが、様子を見ていましたが、数時間経っても止まらないため病院へ・・・。4針縫いましたorz薬のめまいなのか、バランスが取れなかったようですorz3日間安静にとのこと。自転車で行ったら、「救急車で来なきゃダメだよ!」と怒られてしまいました。さて、段ボールも来たし、荷造りするかな。

    【日常】荷造りと、4針縫った怪我
  15. 毎度! おばんです!今日は世間一般「こどもの日」・・・鯉のぼりが泳ぐ? 神戸線・都賀川を渡る阪急1011F「SDGs」。晴天に恵まれて、それぞれの休日を過ごされていますが・・・ここ、阪急六甲駅もそうだったでしょう。その時間に近い列車も無事に通過。今でこそ各駅停車が近い時間帯ですが、40年前の、1984(昭和59)には・・・(報道写真をお借りします)こんな惨状に・・・もう何度も説明していますが、六甲駅通過中のK1104列車と、K1104列車退避中だった、六甲駅止まりの山陽1004K列車の運転士、「H口Z治」が禁じ手の「ATS確認」ボタンを押して、15㎞/hで走行中に、(ATS確認ボタンを押すと、通常は15㎞/hしか出せません)(当該運転士の本名は今でも覚えてます!)K1104列車の進路を完全にふさぐ形で衝突。これも何度も書きましたが、東須磨駅で勤務中に聞いた運転指令の速報の、「阪急六甲駅で1004K列車が脱線、折り返しの1107K列車は帰ってきません!」が今でも思い出されます。で、ニュース速報は流れましたが、本格的に流れたのは夕方のニュースで・・・(当時のABC朝日放送のニュース映像です)マスコミ公開速報値ではケガ人61人ですが、この時すでに、100人近く負傷者が出てる情報は入ってました。でも、現場の状況はほとんど入らかった時代、どうしてもテレビのニュースは見がちになってしまいます。(ABC朝日放送より)記者さんが現場で手書きで作成した状況でも、当時はかなり参考になりました。(ABC朝日放送より)後で聞いたところによると、阪急当該2050Fの衝突時の速度は45㎞/hまで落ちていたとか。それでも、あの損傷はすさまじかったでしょう。(ABC朝日放送より)阪急2050の運転台は壊滅状態。当該の阪急・井本運転士は直前で逃げても負傷。それでも、下り各駅停車の接近を察知して、列車防護に走ったのと、負傷車を収容する救急車も、最終分まで残って、現場に立ち会ったことは有名な話。(ABC朝日放送より)駅の側壁にもたれ込んで倒れ掛かってるのは、当時の3号車・3507でしょう。 エアコンが2台もげてます。(ABC朝日放送より)これは4号車・3637。 完全にホームにもたれてます。こんな状況見ながら、駅業務もこなして、現場情報を収集してました。個人的には、とんだ「休日出勤」でしたよ。一方、現場ではその日のうちに阪急2050Fは西宮北口に収容。翌日に山陽3064Fは、3200Fの救援で一旦東須磨に収容。そのシーンは勤務抜けて撮りましたが、「1.17」で被災して、写真は残ってません。でも、各車の損傷状況はリアルに見ました。翌日のうちに東二見に収容され、事故証拠品で押収。裁判終了まで、ブルーシートを被されて、東二見に留置され、その後補修されました。で、翌日の神戸新聞。山陽の当該運転士・「H口Z治」は事故当日に逮捕。同時に懲戒免職処分。(これは休み明けの社内通達に掲載されました)それから約2週間後には当該車掌・「M田H男」さんが、(車掌さんの本名も覚えてます!)警察の事情聴取前日に、担当する列車に飛び込んでしまいました。(昼夜乗務の後半の担当列車、翌日の事情聴取のために、後半勤務を休まれていたそうです)この事故処理には、あたしも駅勤務の傍ら少しですが加わりました。「嫌疑なし」確定らしかったですが、度重なる事情聴取で疲れていたかもしれません。その後山陽には運輸省(今の国土交通省)から査察は入るわ、「ATS確認」ボタンは何度も場所変えるわ・・・毎年5月5日には阪急乗り入れ全列車(三宮折り返しも含めて)の添乗指導が行われたり、集合教育では六甲事故を振り返るカリキュラムも行われました。1998年のダイヤ改正で六甲(御影中線)への乗り入れは終わりましたが、その後の、5月5日の添乗指導は継続されました。ですが、ここ数年はそんなシーンは見ませんでしたが・・・今年は事故から40年だからか?全列車ではありませんでしたが、添乗は復活したようです。午前中、阪急神戸三宮で様子を見てましたが、半分は添乗されてました。中には、「??警戒」の腕章を着けた職員さんもおられました。冷静に考えたら、あたしの年代(1983「昭和58」年入社組)が、六甲事故をリアルタイムに知っている最後の世代。どこまでこの事故を風化させずに伝えていけるのか?こりゃ、当該3064Fに伝えてもらわないといけませんかな?今日も普通に? 「F582運用」で阪急に乗り入れてました。何事もなかったように?淡々と運用に就いていた姿を見て、今日はこの辺で・・・来年も、5月5日にはこの話を続けるかもしれませんが、この事故を忘れないために、同じ内容でも続けていきます。ほな!     ドテテン!

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